Memory Train「日豊線 旧一等車」

ある時内田百鬼園の随筆『阿房列車』シリーズに、一等車の記述を見つけた。その本が今は手元にないので、内容を正確には記せないが、たしか「用もないのに仙台にいってみよう」というものだった。百鬼園は奮発して一等車に乗る。この一等車がベンチシートなのだった。一等車がなぜベンチシート?と思った。ベンチシートが一等なら山手線はみな一等車ということになる。一等車がなぜベンチシートなのだろう。

考えてみれば列車は座席(ボックス)の列で構成されている。二等車は三等車にくらべ幾分ゆったり目の配列とはいえ、やっぱり列車空間の大部分は乗客がいようといまいと座席が占めることになる。これにひきかえベンチシートならどうだろう。視界をさえぎるものはなにもない。また車両の幅が狭かった時代なら、ベンチシートのほうがゆったりした大きな空間が確保できる。この空間こそが一等、というわけだ。

その一等車に乗ったことがある。日豊本線の下り。別府までの道中だった。私が小学2年生のころだから昭和34年頃か。その頃一等車は特急列車だけに連結されていたはずだが、別府まで行くのに特急は使ったことはなかった。急行なのだろうが、なぜ一等車のベンチシートがあったのか。

途中、宇島(うのしま)という駅では、親戚の伯母さんがなぜかホームで待っており、車窓からメダル型のチョコレートを受け取った。伯母さんの仕事先がこの町にあると聞かされた。宇島という駅は豊前市のメインの駅だった。豊前駅ではなく宇島駅。当時はこのような例はたくさんあったのではないだろうか。下関から徳山に行く途中に「三田尻」という駅があった。これはいまの防府駅だ。新大阪駅のあった場所は「東淀川」駅だったし、新下関駅はもともと「長門一ノ宮」駅だった。つまり地名が名称(ネーミング)にとって代わられたわけだ。空港に目を移せば、例えばローマの空港名「レオナルドダビンチ空港」は、もともとフミチーノ空港と呼ばれていた。旅は土地から土地をめぐるのではなく、ネーミングからネーミングを伝うものになった。いまはもう旅情は求むべくもない。

別府に向かう理由はもうひとつあった。サナトリウムに入院中の父母の知人を見舞うことだった。どこの駅で下車したのだろう。宇佐か?覚えていない。サナトリウムに近づくと、私たちをのせたタクシーは満開の桜並木の下をくぐった。私たちの家族4人のほかに、その入院中の知人の5歳の娘がいた。父母は娘が欲しかったそうだが、なかなか授からなかったので、その娘を可愛がっていた。その人は肺を病んでいたのだろうか。眼光が青く、鋭く痩せていた。

ベンチシートの一等車に乗ったのはたしかそのあとだ。一等車ではなく、ローカル線ゆえの他線のお下がりでこうなっていたのかもしれない。ちょうどお昼ということで、私たちは駅弁を開いた。食べ始めて間もなく列車が、線路切替えポイントか何かを過ぎるとき、大きく左右に揺れた。その反動で、娘がベンチシートから投げ出された。
「すごいね、カコちゃんは。転んでも弁当を離さないんだから」
父と母が笑った。
ガランとした一等車には春の午後の暖かい陽が射しこんでいた。

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