人間が「見る」とはどういうこと?――モノスムと私の研究の話
なんだかんだ自分がこれからやってみたい研究(?)の話について文章でまともに書いたことなかったなと思ったので今更ながら書いてみます.
私は現在,「人間がものを見て理解するとはどういうことか」という問いに関心を持っています.
このテーマに興味を抱いたのは,日常的に私たちが行っている「見る」という行為が,実はとても複雑で奥深いものであり同じものを見ていても自分と他者では見え方が違うことが面白いなぁと思ったのがきっかけです.
見るという当たり前の行為に隠された不思議さ
私たちは日々,目で見て世界を理解しています.たとえば,道を歩いていて信号の色が赤なら「止まるべきだ」と認識しますし,友人が笑顔を向けてくれたら「楽しい気持ちなんだな」と感じます.視覚は,私たちが情報を得て判断する上で欠かせない感覚です.
でも,この「見る」という行為の背後にあるプロセスを深く考えたことがあるでしょうか?赤い色を見るときの「赤さ」ってなんだろう?そもそも,同じ景色を見ていても,他の人も自分と同じように感じているのでしょうか?
これらの問いは,一見すると哲学的で抽象的ですが,実は私たちが社会でどのように他者とつながり,世界を理解しているのかを考える上で非常に重要なテーマだと思うのです.
研究テーマの原点
私がこのテーマを意識し始めたのは,教育現場や社会の変化について考える中で,視覚的表現の限界に気づいたことがきっかけです.たとえば,学校教育の場では,授業で使う資料や図解が「分かりやすさ」を追求して作られています.でも,図やグラフだけでは伝えきれない複雑な背景や関係性があることを,学生としての経験や教育に関わる学びの中で痛感してきました.
平面的な視覚化だけでは,「動的な社会のつながり」や「複雑な人間関係」を表現するのが難しい場面が多いんです.社会構造や人間関係の動きを平面的に整理する手法は有用ですが,それだけでは「動き」や「立体的なつながり」が見えなくなるリスクがあります.
たとえば,クラスの中の人間関係を考えたとき,単純に「誰と誰が仲が良い」といった平面的な図解では,実際の空気感や微妙なつながりのニュアンスを捉えられません.そこにはもっと複雑な「動き」や「感覚」が含まれているはずなのです.こうした経験が,私の研究テーマの原点になっています.
「見る」という行為を再定義する
そこで私は,「人間がものを見て理解する」という行為を,ただ単に「目で情報を受け取ること」と捉えるのではなく,「目で見たものをどう解釈し,意味づけるか」という行為として再定義したいと考えています.
このテーマを探究することは,視覚的な理解がどのように私たちの思考や行動に影響を与えているかを明らかにするだけでなく,新しい視覚的表現を通じて社会の課題を解決する可能性を広げるものだと思っています.
視覚的理解の仕組み
ここでは,「見る」という行為の科学的・哲学的な側面を掘り下げます.なぜ人間は視覚から理解を得られるのか?その仕組みの複雑さと可能性について説明していきます.
視覚認識のプロセス
人間が「見る」とき,実際には目から入ってきた光の情報を脳が処理し,それを「意味あるもの」として解釈しています.このプロセスは一瞬のうちに起こりますが,科学的には非常に複雑です.
たとえば,目に入った光は網膜上の受容体で処理され,その信号が視神経を通じて脳に送られます.そこから「これは赤い色だ」「これは四角い形をしている」といった情報が作られ,最終的に「これはリンゴだ」といった認識が生まれるのです.
しかし,視覚認識には「主観性」が大きく関与しています.同じものを見ても,個々人が異なる背景や経験を持つことで,その解釈が変わることがあります.これが,視覚の持つ不確かさでもあり,面白さでもある部分です.
視覚とクオリアの関係
ここで登場するのが「クオリア」という概念です.クオリアとは,私たちが感覚を通じて得る主観的な体験や質のことを指します.たとえば,「赤い色を見るときの赤さ」や,「甘い味を感じるときの甘さ」などがクオリアの例です.
クオリアの議論は哲学や認知科学の中で活発に行われていますが,その本質は未だに完全には解明されていません.それでも,視覚的なデザインや表現が人間に与えるクオリアの質を考えることは,感情に訴えるようなデザインや,人々の記憶に残る表現を作り出す鍵になると考えています.
研究テーマへのアプローチ
私が現在考えている具体的な研究テーマについて,少し詳しくお話ししたいと思います.ここでは,特に「視覚的表現とクオリア」や「平面と立体の情報伝達の比較」など,今の私が心を惹かれているテーマを掘り下げます.
視覚的表現におけるクオリアの役割
私たちが何かを「見る」という行為には,単なる情報処理を超えた何か――つまり主観的な感覚の質,クオリアが深く関わっていると思います.たとえば,夕焼けを見たとき,その「赤さ」や「美しさ」を感じるのは私たちの主観であり,数値や理論だけでは説明できない部分です.
視覚的表現におけるクオリアの役割を探る研究では,次のような問いを考えています.
視覚的なデザインが人間の感情や記憶にどのような影響を与えるのか?
クオリアを意識した視覚的表現は,より深い理解や共感を生み出せるのか?
たとえば,教育現場で使われる教材デザインを考えると,ただ情報を正確に伝えるだけではなく,見る人に「体験的な理解」や「感覚的な気づき」を与えることができれば,学びの質が大きく変わるのではないかと思います.この「感覚的な気づき」を生み出すカギがクオリアにあるのではないかと感じています.
平面と立体における情報伝達の比較
次に興味を持っているのが,「平面的な視覚化」と「立体的な視覚化」が情報伝達に与える影響の違いです.これも教育や社会構造の視覚化を考える中で浮かび上がったテーマです.
たとえば,地図やグラフのような平面的な視覚表現は,情報を整理してわかりやすく提示するのに適しています.一方で,3DマップやVRを使った立体的な視覚化は,情報の奥行きや動きを伝えるのに適していると感じます.それぞれの方法には利点と限界があり,それをどう使い分けるべきかを研究することは非常に面白いと考えています.
具体的には,次のような研究を進めてみたいなって考えています.
平面的な視覚化と立体的な視覚化を使った場合の理解度や記憶への影響を比較する.
立体的な視覚化が,社会構造や教育の複雑なつながりをどう伝えるのかを検証する.
平面と立体の融合的な手法(例:2.5Dの視覚化やインタラクティブなデザイン)の可能性を探る.
クオリアの共有は可能か?
さらに掘り下げて考えたいのが,「クオリアは共有できるのか?」という問いです.たとえば,私が感じる「赤さ」と他の人が感じる「赤さ」は同じなのでしょうか?おそらく答えは「わからない」です.それでも,この疑問を視覚的表現の研究に応用すると,非常に面白い課題が浮かび上がります.
仮に,クオリアを共有できる視覚的手法があるとすれば,それはどのようなものになるでしょう?たとえば,VRやARのような技術を使って,個々の主観的な体験を他の人と共有する仕組みが作れるかもしれません.これを考えることは,視覚的表現だけでなく,コミュニケーションや共感のあり方を再定義することにつながると思います.
モノスム――研究テーマを象徴する存在
モノスムは,私が研究テーマを深く考える中で生まれたコンセプトであり,象徴的な存在です.ここでは,モノスムがどのようにして生まれたのか,そのデザインや哲学的な意味などモノスムについて詳しくお話しします.
https://x.com/yokuhietaneko/status/1882426490413072641
モノスムが生まれた背景
モノスムという名前は,「Mono(唯一,核)」と「Smooth(柔らかさ,滑らかさ)」を組み合わせた造語です.この名前が表すのは,「環境に馴染みながらも自分の核を保つ存在」です.これは,私たちが世界や社会とどう関わるべきかという問いを内包しています.
私たちは,日々の生活の中で多くの情報や環境に影響を受けています.それらに適応する柔軟性を持ちながらも,自分らしさを失わない――モノスムは,そんな人間の理想的な姿を象徴する存在として生まれました.
また,モノスムは「見る」という行為そのもののメタファーでもあります.私たちは視覚を通じて世界を理解しますが,その理解は常に主観的であり,曖昧さを含んでいます.それでも,見ることで得られる感覚や気づきは非常に価値あるものです.モノスムは,その曖昧さと確かさの間に存在するものとしてデザインされています.
モノスムのデザイン
モノスムのデザインは,柔らかく曖昧な形をしています.それは,スライムやビーズクッションのように形を変え,背景や周囲に馴染むような存在です.一方で,完全に溶け込むわけではなく,自分自身の輪郭や存在感をしっかりと保っています.この「馴染むけれど消えない」という性質が,モノスムの核となるコンセプトです.
色彩:モノスムは薄いピンク色で,光沢を持たせています.この色は生命の温かさや優しさを象徴し,視覚的にも柔らかな印象を与えます.
形状:固定された形ではなく,流動的なフォルムを持っています.見る人によって異なる解釈が生まれるような曖昧さを意識しています.
触覚的要素:視覚だけでなく,触れたときに形を変えるような「柔らかさ」も考慮に入れています.物理的な感覚を通じて,見る行為と触れる行為をつなぐ存在として機能します.
モノスムの哲学的な意味
モノスムは,単なるアート作品ではなく,哲学的な問いかけを内包する存在です.それは,私たちが社会や環境とどのように関わるべきかを象徴しています.
馴染むけれど独立する
モノスムは,背景に馴染むことで調和を生みますが,自分自身を完全に失うことはありません.これは,私たちが社会の一部でありながらも,自分らしさを保つことの重要性を表しています.曖昧さの美しさ
見る人によって解釈が変わる曖昧さを持つモノスムは,「見る」という行為そのものが持つ曖昧さを表現しています.その曖昧さの中にこそ,新しい発見や気づきがあると考えています.視覚と感覚の橋渡し
モノスムは,視覚だけでなく触覚や感覚を通じて人間の理解を広げる存在でもあります.それは,単に「見ること」にとどまらず,感じることや触れることの重要性を示しています.
モノスムを通じて伝えたいこと
モノスムを通じて,私は「見る」という行為を新しい視点で考え直すきっかけを提供したいと思っています.それは,私たちが普段何気なく行っている「見る」という行為の背後にある複雑さや豊かさを伝えることでもあります.
モノスムが背景(社会や環境)とどう関わり,影響し合うかを考えることは,私たち自身が社会とどう向き合うべきかを考えるヒントになるかもしれません.そして,それが私の研究テーマ「人間がものを見て理解するとはどういうことか」という問いと深く結びついているのです.
視覚的表現が進化し,複雑な情報や感情を伝える手段が増える中で,私たちが見ているものの本質を見失わないことが重要だと思います.モノスムは,視覚的情報が豊かになりすぎる現代において,シンプルで本質的な視点を持つことの大切さを教えてくれるはずです.
『見ること』から広がる世界
ここまで,長く長く書いてきましたが改めてまとめます.
研究の意義とこれからの挑戦
私がこの研究に取り組む理由は,「見る」という行為が持つ本質を探ることで,人間や社会,そして教育に新しい視点を提供したいからです.
まず,教育現場での視覚的表現の役割です.私は,視覚的な教材や表現を活用することで,学びの質を大きく向上させられると考えています.特に,子どもたちが「直感的に感じる」体験を通じて学ぶことの価値に注目しています.たとえば,図やグラフだけでなく動的で立体的な視覚化やインタラクティブな教材を導入することで,抽象的な概念も具体的に捉えられるようになるはずです.こうした体験は,記憶に残りやすく,単なる知識の理解を超えた深い学びを生み出すと信じています.
また,社会全体においても視覚的表現の力を活用することで,複雑な課題をわかりやすく伝えることができると考えています.現代社会には,気候変動や都市計画,人間関係の多様化といった非常に複雑で理解が難しい問題が多く存在します.しかし,視覚化を通じてこれらの課題を「見える」形にすることで,人々の間に共通理解を生み出し効果的な問題解決やコミュニケーションの促進につなげることができるのではないでしょうか.特に,グラフィックスやインフォグラフィックスのような視覚的ツールは,単なる情報の提示ではなく,視覚を通じた「気づき」や「共感」をもたらすことが期待されます.
さらに,私は視覚的表現を哲学的な視点からも探究したいと考えています.特に「クオリア」や「視覚的な曖昧さ」という概念には強い関心があります.視覚的表現には,受け手によって異なる解釈や感情を引き起こす力があります.この「曖昧さ」は,一見すると欠点のように思われるかもしれませんが,実は非常に豊かな可能性を秘めています.たとえば,明確な答えを示すのではなく,見る人の中にさまざまな問いや思考を生み出すような表現,それこそが,視覚的な表現が持つ力だと思います.この曖昧さの中にある美しさや意味を掘り下げ,表現の新しい可能性を模索することも,私が挑戦したい課題の一つです.
これらの方向性を追求することで,視覚的表現が私たちの生活や社会にどう貢献できるのかを明らかにし,新たな価値を提案していきたいと考えています.
『見る』というテーマを通じてつながる世界
私の口癖として「生きているうちに自分の頭で考えろ」っていうのがあるんですけど,もう一つ挙げるのであればそれは,「見る」という行為を改めて意識してみてほしいということです.普段何気なく行っているこの行為の中には,実はたくさんの気づきや発見が隠れています.自分がどのように物事を見ているのか,そしてそれが他の人とどう違うのかを考えることは,世界との関わり方を見直すきっかけになると思います.
私自身,この研究テーマを通じて,「見る」というシンプルな行為の奥深さに驚き,同時にその可能性にワクワクしています.そして,モノスムのような存在を通じて,もっと多くの人に「見ることの不思議さ」や「視覚の持つ力」を伝えられたらと思っています.
これからも,「見る」というテーマを追いかけていきたいと思います.そして,いつか私の研究やモノスムが,誰かの視点や考え方を少しでも変えるきっかけになるといいな.
あとがき
この記事を書きながら,改めて「見る」というテーマが自分にとってどれほど大切なものなのかを実感しました.今も昔もだけれど,話すことやそもそも言葉というものが苦手で,でも何かを見たり視覚的なイメージをもとに考えることは好きでそれをもとに研究ができそうというのは本当にうれしい.あとたまに言語化力が高いって言ってくれる人がいてうれしい.