11/8 皆既月食を見た
皆既月食。それと天王星食。同時に起こるのは442年ぶりだそうだ。月食の赤い月が好きで、絶対見たかったから、欠けが大きくなる時間にいそいそと時計のアラームをセットして、それからすっかり忘れて仕事に忙殺されていた。
気がついたら、時計が震えていた。一瞬何だっただろうか、と呆けて、皆既月食だったことを思い出しわっと喜びがわき上がる。周りの人に「月食ですよ!」と言いふらしながら会社の庭に出て、空を見上げた。月は下向きの奇妙な三日月のように鋭く小さくなって、白く光っていた。明るい部分が少しずつ小さくなって、陰の部分が見えてくる。なんだか手につかなくて、手持ち無沙汰にふらふらとお茶を飲んだりして、また空を見上げるとずいぶんと食が進んでいた。(こう書くと月が食いしん坊か何かのようだ)
弊社の庭は2階にあって、高速道路と空がよく見える。芝生がひいてあって、昼間は鳥がよく遊びに来る。テーブルと椅子が並んでいて、風に飛ばされないようにひもがつけられている。直射日光が当たって暑いし風はよく吹いて寒いし、雨が降ると屋根がなくて壁際にへばりつかなければならないけど、喫煙スペースでもあるので好きな人はよく外にいた。
普段はあまり人のいない時間。照明が絞られたカフェスペースに出ると、複数人の人影が見える。帰りがけの現場の人だった。こういうのは何かとても嬉しくなる。
「見えますか」「まだ少しだよ」と会話を交わす。お互いに少し浮き足立っていることが面白くなってしまう。
私は少し仕事をしてから、ドアを開けてまた庭に出る。夜風はかなり涼しくて、上着を持ってきたいくらいの寒さだった。皆既月食だった。月は沈んだ赤い丸になり、夜にひっそりとたたずんでいる。明るいときはあんなに存在感があるのに、今はまるで元々そういうものだったかのように、静かであった。いや、月は元々そうなのであるけれど。
星を見るのは好きだ。月を見るのも。
キャンプに出かけた山梨(たしか)の山の中、夏の夜にまだ熱の残ったアスファルトに寝転んで、落ちてくるような星々を眺めたのは大学生の時だった。私は目が悪くて、小学生の頃にオリオン座の観察ができなくて、幼なじみのものを写させてもらったことがある。(当時は裸眼だったというのもある)だからずっと自分は星が見えないのを当たり前だと思っていて、満点の星空というものは二度と見ることができないのだろうと思っていた。
星が当たり前にぎっしりと光っている光景は、きっと私の見えているそれよりもたくさんあることは知っていたけど、それで満足だった。
一方で、いつも見えているのは月だ。私が特に好きなのは、満月になる前のほぼ満月のような少しだけいびつな丸の月がぴかぴか光っているもの、それから細い三日月であった。どうしてなのか、完全な満月よりもあれ、今日は妙に月が大きいぞ、もう少しで満月なのか、と思うようなものが好きだ。細い三日月は細ければ細いほど良く、近くに金星が光っているものはまた特に良いものだ。光がこぼれ落ちているように思える。
月食は、妙な存在感があると思う。
実際の見た目は光が薄いし何か地味で、少し何か異様な感じがする。日食とともに昔の人が忌み嫌ったというのも少しわかるような、奇妙なものは確かにある。「赤い月」と言われるが、言うほど赤くなく、静かだ。それも現代だからそう感じるのだろうか。人工の光がなかった時代、突然赤く光る月が現れるのは、確かにすこし怖いかもしれない。
光がないから、丸みを帯びているのが突然よく見える。そういう意味でも不思議だと思う。
なんで月食を見たいとこんなに強く思うのだろう。
うきうきと写真を撮って流していたら、「みんな同じ月を見ている」という呟きが流れていった。そうだな、と思った。
遠くのものを見れば見るほど、世界は近く感じられるのだなと思う。別に近くなくてもいいかもしれないけど。そしてまた、その遠くに手を伸ばすことができるようになればなるほど、私たちは遠くなるのだと思う。離れがたくて近づけなくて、でも見える距離にいられるとき、一番優しくいられるような気がする。
月食は、月が光のひとつではなく砂のある星になる日。
だから好きなのだと思った。