降車ボタンーたった1分で読める1分小説ー
「じゃあ出発しますね」
夜中のバスターミナルで、バスの運転手の片岡がアクセルを踏み込んだ。
バスの客席には、清水が座っていた。清水はベテラン運転手で、片岡の先輩だ。
清水は長年バスの運転手としてこの営業所で働いてきたが、このたび引退することにした。
「辞めないでください。俺、清水さんからまだまだ学びたいんです」
片岡にはそう引き止められたが、清水の決心は固く、片岡もとうとうあきらめた。最後にやり残したことはないかと片岡に訊かれ、清水はこう答えた。
「客席に乗って降車ボタンを押してみたい」
降車ボタンとは、途中下車をするときに押すボタンだが、運転手である清水が押したことは一度もなかった。
清水は顔を横に向け、移りゆく景色を眺めた。長年運転手として働き続けた人生が、走馬灯のように流れていく。
そろそろか……清水は降車ボタンを押してみた。だがボタンはなんの反応もしない。他のボタンも押してみたが、同じだった。
そこで清水は気づいた。
運転席に近づくと、片岡に声をかけた。
「おまえの仕業か」
片岡が口角を上げた。
「途中下車はさせませんよ。終点の定年までね」
ふうと清水が肩を沈め、自分の心につぶやくように言う。
「そうだな……運転手は途中下車できないよな」
片岡が笑みを深めると、清水が注意した。
「カーブの時のハンドルさばきがまだまだだ」
「今日は勘弁してくださいよ」
うんざりとした片岡の声と清水の笑い声が、バスの中に響いた。
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コイモドリ 時をかける文学恋愛譚
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