見出し画像

note連続小説『むかしむかしの宇宙人』第67話

前回までのあらすじ
時は昭和31年。家事に仕事に大忙しの水谷幸子は、宇宙人を自称する奇妙な青年・バシャリとひょんなことから同居するはめに。幸子は父親の周一と関連のある謎の女性と出会う。

→前回の話(第66話)

→第1話

お父さんが百合子さんのご主人を殺した……

衝撃の発言にしばし呆然とした。お父さんが人を殺した? しかも、自分の仲間を? とても信じられなかった。

わたしは慎重に訊きなおした。

「父は本当にそう言ったのですか?」

百合子さんはこくりと頷いた。そして続けた。


水谷さんはこうおっしゃいました。大木の伐採中、水谷さんの切った木の下じきになり、主人は死んだのだと。そして、しぼり出すような声で謝罪されました。

突然の告白に、私は放心しました。後々、主人たちと同じ収容所で働かされていた他の方が、当時の状況を詳しく話してくださいました。

シベリアでの暮らしは、今でも夢にうなされるほど過酷なものだったそうです。

気温は、零下三十度以下。ただ呼吸をするだけでも胸に氷の板を押し込まれたように苦しく、普通に生活するだけでも体力を消耗したそうです。

食事は黒パンや、粟が入っただけの水のように薄いスープ。そんな粗末な食事しか与えられず、ほぼ病人のような体調で強制労働をさせられ、収容所の人たちは次々と亡くなっていったとのことでした。

そんな地獄のような環境の中で、主人と水谷さんは大変仲が良く、二人で励まし合いながら生き抜いていた、とその方はおっしゃいました。

残された家族のためにも、必ず生きて日本に帰る、そう二人は誓い合っていたそうです。あの二人は本当の親友でした……と、その方は悲痛な面もちで教えてくださいました。

だからこそ、事故があった直後の水谷さんの落ち込み方は凄まじいもので、食事にも手をつけず、このまま死んでしまうのではないか、と誰もがそう思ったほどだったそうです。

そのことを知った今ならば、主人が亡くなったのは水谷さんのせいではない。事故だった、と理解できます。でも、あのときの私はそうではありません。

主人を失った絶望と不安で、冷静な判断が下せませんでした。目の前の人間が主人の命をうばった……そう考えた瞬間、逆上しました。

主人を返してと泣きわめき、罵倒しました。水谷さんは一言の言い逃れもすることなく、じっとその暴言に耐えていました。

私は我慢できずに、水谷さんを家から追い出しました。夫の無念さと今後の生活の不安から、私は一晩泣き明かしました。

その翌日です。今度は水谷さんと静子さんが二人で訪ねてこられたのです。静子さんは自己紹介をすませると、すぐに用件を切り出しました。私たちの生活の面倒を見させてもらえないか、と。

突然の提案に、私は困惑しました。いくら夫が亡くなった原因が水谷さんにあるとはいえ、静子さんにそんな援助をする義理はありません。

うちは共稼ぎなのだから心配はないと説得されましたが、一家の家計を負担するほどの余裕がないことは、いくら何でも察することができます。それに、あなたもいるのです。そんな無理をさせるわけにはいきません。

丁重にお断りさせていただいたのですが、お二人は断固として譲りませんでした。

あなたを助けるのは、私たちの義務だ。もしこのままあなたや子供たちを見捨てれば、天国の三井に顔向けができない。水谷さんは、そう何度も何度もくり返されるのです。

そのあまりに沈痛な面もちに、私の心はゆれました。実際、貯えは底をつきかけていました。病気が完治しなければ働くこともできません。

私はいいとしても、子供たちが不憫でなりません。迷った末、私はお二人の申し出を受けることにしました。

静子さんは私をすぐに入院させ、その費用も全額払ってくださいました。この家も、静子さんがさがしてくれました。

主人が不在の中、女手ひとつで子供を育てるという同じ苦労を味わったせいか、私たちはすぐに仲良くなりました。

彼女の手厚い助けのおかげで、病はやがて完治しました。ですが、以前のような重労働は到底できそうにありません。

とはいえ、いつまでも水谷さんたちに頼るわけにもいきませんでした。どうにかして収入を得る道をさがさなければ、と私は追いつめられていました。

そんなある日、静子さんと一緒に業者の方が家にミシンを運んで来たのです。突然のことに仰天している私をよそに、洋裁の仕事なら家でもできるわ、と静子さんはにこにこしておっしゃるんです。

洋裁の技術など私にはありません。拒んだのですが、静子さんはおかしそうにわらいました。あなたに洋裁の技術がないのは知っている。

だから、洋裁学校で勉強してから仕事をしましょう。もう、入学手続きはすませておいた、と。

あまりの厚意に言葉もありませんでした。たしかに洋裁ならば、この体調でもできそうです。

さらに静子さんは、二台なら安くなると言われたから、私もミシン買っちゃったわ。これで幸子にブラウスでも作ってあげるの。

百合子さん、早く洋裁を学んで私に教えてちょうだいね、と付け足しました。

私に遠慮させないための心配りだとは思いますが、あのときの静子さんは本当に嬉しそうでしたわ。あとでうかがうと、静子さんも以前から洋裁に興味があったそうです。

私は、学校に通いはじめました。洋裁は私の性格に合っていたのか、すぐに技術を身につけました。先生も目を見張るほどの上達ぶりで、おかげさまで優秀な成績で卒業させてもらいました。

とにかく洋裁で収入を得なければなりません。片っぱしから注文をとりました。なれないころはシャツ一枚仕上げるのに何時間もかかりましたが、次第に仕事量も増やせるようになりました。

静子さんにも協力していただき、たくさんの仕事が舞い込みました。そして空いた時間で、私は静子さんに洋裁を教えました。静子さんは楽しそうにミシンを踏み、あなたの洋服を作れるのが何よりの楽しみだ、とおっしゃっていました。

ただ注文は増えたものの、男物の開襟シャツを一枚仕上げてもほんのわずかな金額です。水谷さんの援助がなければ、とても生活ができません。

水谷さんや、静子さんは何も言いませんでしたが、私は人づてで知っていました。水谷さんが会社の仕事を終えてからも別の工場で夜遅くまで働き、静子さんも懸命に働いていたことを。

→第68話に続く

作者から一言
シベリア抑留の話です。高校生の頃からシベリア抑留の話がずっと気になっていました。終戦したのに帰ってこれずに強制労働させられていたというのが、あまりに辛くて……特にシベリアのことを書く気もなかったのですが、昭和30年代のこの話を思いついた段階で、シベリアのことを書こうと考えました。


いいなと思ったら応援しよう!

浜口倫太郎 作家
よろしければサポートお願いします。コーヒー代に使わせていただき、コーヒーを呑みながら記事を書かせてもらいます。