浮いた世界と煙草-vividbird「Lighter」についての妄想
一 はじめに
vividbird「Lighter」は2024年4月20日に開催されたファーストワンマンライブViViにて披露され、後10月23日に配信リリースされた曲である。
三橋真子(さん)は本曲について、ワンマンライブを振り返る自身のnoteで次のように述べている。
また、配信リリース直後のInstagramのストーリーでは、Twitter(現X)のALT欄に掲載する予定だったとしながらも、次のように載せている。(本来は24時間で消えるはずのコメントだし嫌だったら怒って、消すから)
「🐇」の絵文字によりウサギ信者であるという某マネージャーが作詞をしていることを匂わせていることは一旦カッコにいれておこう。vividbirdのメンバーである三橋真子(さん)が重ねて言及するように、本曲はとても歌詞が良い。これについて疑念を差し挟む余地はないだろう。良いもんね。
本曲の歌詞は良い。良いんです。本noteではその良さについて掘り下げてみたい。みはしさんは「暗い曲」ということを一つの評価点としてあげているが、「さまざまに考えてみてね」という投げかけからも看取できるように、本曲はさまざまな解釈をする余地があるはずだ。
まずは本曲のストーリーについて確認してみよう。
喧噪の中、すれ違う誰かを見いだした「私」はその場で立ちすくむ。しかし、その相手は「私」の存在に気づいていながらも一瞥も与えることなく通り過ぎ、街の光と重なるようにゆらぎ去って行くが、「私」にとっては推して図れるほどに自然なことであった。偽りの笑みに己を隠すかのような街の光の中で、「私」は家に帰ることをせず、吸えもしない煙草に火を付け、その内にまどろむ。明けていく夜の終わりの中、「私」は立ち上がる。
以上のような読みをした場合でも、本曲は「暗い曲」であり切ない曲として一聴に値しうる。そしてそれは、vividbirdのメンバーである大塚レン(ちゃん)というマヂで絵が上手い(画力だけでなくタッチと表現力とか多彩さの面でも上手い、マヂによぉ)天才ふんふんが発表した(※2024/11/12に訂正。レンちゃんじゃなくてogwさんだったそうです。みはしさんへ、指摘してくれてありがとう)本曲のアートワークからも想像の喚起を余儀なくされる。喧噪の夜を照らす光は水面の反射によって増幅しながら、雨降りの中で傘も差さずにたたずむ「私」の情緒を残酷に映し出しているのだ。
さらに、本曲の冒頭を引用したい。
「ゆらり ゆらり ゆらり」と三回重ねたことによって生み出されるリズムと情緒の天才さ(と、このパートを担当しているみはしさんの歌唱表現の良さ)についてはひとまず触れない。この冒頭から、本曲を「私」が誰かに袖にされた悲しみを、表面上は輝かしい夜の街との対比の中で彷徨う切なさが描き出されているある種の恋愛物語として読むことについて無理はない。それはステージパフォーマンスとしても表現されていることからも証左可能だ。
しかしながら、内包されるレトリックに注目したとき、本曲では恋愛物語の枠に収まらない問題さえも描き出されていると考えられ得る。本曲に描き出されているのは、一夜の悲しみだけではない。「浮いた世界」という社会に通底するある種の連続した問題について、抽出している作品であると考えてみたい。
「私」が「眩い光」から「かすかな灯り」に変わるまでの時間を、「ひとり」で「微睡」んでいた空間すなわち「浮いた世界」とはなにか。また、なぜ「私」は「吸えもしない煙草」「吸いたくない煙草」を吸わなければならないのか。本曲の主題ともなっている「煙草」の機能を分析し、「私」が眠る「浮いた世界」について考察していきたい。
(以上、壮大な出落ち。あとは好き勝手書く。)
二 「私」と時間
歌詞解釈文章とか書いたことないから考察の進め方がわからん。というわけで、本noteにおける論点を示すために、まずは歌詞全文を引用しておきたい。
「喧騒」と「微睡み」、「眩い光」と「かすかな灯り」、「誰も気づきもせず」と「誰にも気づかせもせず」など挙げ始めたらキリがないほどに1番と2番で歌詞が対比していることを見逃すことはできない。本曲における対比が焦点化された一人称「私」の語りに奥行きを与えていることは明らかだが、注目すべきは時間の推移が対比によって示されていることである。
「喧噪の中」から「微睡みの中」へ「私」の意識は移り変わり、「眺め続ける」という行為は変わらないが「眩い光」から「かすかな灯り」へ夜の進行とともに街の明度は変遷する。進み続ける時間の中では、「吐き出す煙に隠れるように溶けて」いた「私」も「吸い込む空気を噛み締め」て「明けてゆく」時間に立ち上がることしかできない。
また、このとき本曲の主題の一つであるといえる「煙草」の火は夜を煌めかせる、すなわち夜を始めるための媒介であると同時に「夜を閉じ込め」る機能を果たす。どうしようもなく訪れる夜の終わりが煙草に火を付け、消すという行為の中に表現されている。ちょうどオイルライターに灯した火が蓋を閉じられることで空気が遮断され、半ば強制的にあるいは原理的に火が消えるように。これはサンプリングされたライターの音が音源の始まりと終わりに挿入されることとも無関係ではない。
以上のように、時間の流れが対比というレトリックによって表現されているのだが、このとき「私」はどこにいるのだろうか。
三 「私」と空間
進み続ける夜の中、「私」はどこにいるのだろうか。さらに、なぜ「私」は家に帰ることが出来ないのだろうか。本文を読み進めていきたい。
1番の歌詞で「喧噪の中」とあるように、多数の人間がいて多声が響く街の中にいることは前提としてもいいだろう。このとき、2番の歌詞の「微睡み」を明け方につれて喧噪を沈めていく夜の街の暗喩として読むことが可能だが、本noteでは、まさに街の中で「私」が微睡んでいる様子そのものとして考えてみたい。というのも、「私」がまさに眠ってしまう空間を考えることはサビの「浮いた世界で私は一人 また眠りに落ちていく」という歌詞を解釈するための糸口になりうるからだ。
ところで、煙と眠りで韻踏んでるのすごすぎる。煙草の煙が夜の終わりを示していたように、本曲において煙と眠りは響き合っていると考えたいのだ。
引用2の中で、「私」は「光/灯り」を「ひとり眺め続ける」のだが、その空間の中には意識するだけの「誰も/誰にも」すなわち他人が存在している。このとき、「ひとり」という表現に注目したい。
歌詞の順番としては1ブロックとんでしまうが、次の引用を確認しよう。
引用2とは異なり、「一人」と表現されていることを無視することはできない。「一人」と「ひとり」=独りにはどのような差異があるのだろうか。それっぽく参考文献を引いてみよう。光村図書HP「教科書の言葉」では次のように説明されている。
参考文献に従うと、「私」は多人数が属している「浮いた世界」にいる複数人の中の一人でありながらも、光を眺め続けている時には「ひとり」でいる状態に陥っていることになる。つまり、「私」はある共同体の中に属してはいながらも、なじめていない状態にあるといえよう。一方で、その共同体に所属して集団の中の一人として紛れているからこそ、「私」は喧噪の街の中で微睡み眠りに落ちることさえ可能になっている。そしてこのとき、「私」が夜の中に隠れるための手段として煙草が機能している。
次の引用部からわかるように、夜の中に隠れるために「私」は「吸えもしない煙草」「吸いたくない煙草」を吸わなければならない。
ここでの「吸えもしない」を〈嗜好的に吸うことを好まない〉ではなく、〈社会通念上吸うことが出来ない〉と読み替えたとき、「私」が所属する空間について意味付けを行うことはできないだろうか。つまり、「私」は本来ならば煙草を吸うことを許されていない年齢の少女として描かれているのだ。本曲における「浮いた世界」とは家に帰れない事情を抱えた人間たちの共同体であり、そんな人間たちを迎え入れて隠れるための夜そのものなのである。
本曲でリフレインされる歌詞には、「私」の家に帰りたいけど帰りたくないという二律背反な態度を示しながらも、そもそも「私」は家に帰ることができない存在であることが描かれている。
家に帰ろうと多声が響く。それは「私」における自意識であり、少女を守るための社会通念でもある。しかし、家に帰ることが出来ない「私」は夜の街に群れる集団に身を隠すため、あるいは参画するために吸えもしない煙草を、吸いたくもない煙草を吸い続けることしかできないのだ。
紛れるための集団に属しながらも少女が「ひとり」で馴染めずにいるのは、「私」がまだ「王子様」すなわち世界から差し出される救いの手を諦め切れていないからだろう。ただし、世界はそんな彼女に誰も気がつかないふりをして、視界の端にいれながらもただ黙って通り過ぎる。いずれか、王子様なんている訳ないと断じてしまうのも時間の問題だろう。
五 おわりに
出落ちもいいところですね。なんだこれ。ただ、こんな風に好き勝手妄想を捗らすことができるだけのテクスト強度が「Lighter」にはあるということが伝わればいいです。
「Lighter」はとても良い。歌詞が良い。ogwさん…….ネルコロはもっと歌詞を書け。三橋真子(さん)も作詞やってみない?君なら絶対良い歌詞書けるよ。