川崎と憲剛の絆
トップの写真は、サッカーキングJの1名様へのプレゼント企画で、憲剛のルーキーイヤー(2003年)に当選したもの。当時はまだJ2で倍率も高くなかったのかもしれませんが、我が家の家宝です。
(憲剛の目標が「レギュラー獲得」だなんて、本当に本当に遠い昔ですね。)
2003年、7歳だった私は地元のサッカーチームである川崎フロンターレの試合を観に行くようになりました。またこの年、我らがバンディエラの憲剛が入団しており、そこから18シーズン彼に魅了されっぱなしでした。
この記事は川崎フロンターレが2017シーズンにJ1リーグ初優勝を決めた翌日に興奮冷めやらぬまま、憲剛への精一杯の愛とリスペクトを込めて、こっそり書いた記事です。
2020シーズン限りで引退を決めた憲剛に少しでも想いが届けばと「#OneFourKengo ケンゴにありがとうを届けよう。」企画に参加させて頂きます。
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※ここからの記事は2017年12月3日に執筆したものです。
【絶景】
ピッチになだれ込む仲間、沸き上がるサポーターの大歓声。その意味を理解した中村憲剛はその場で泣き崩れた。川崎フロンターレがクラブ創設21年目にしてようやく栄冠をつかんだ。
川崎は過去に8度の準優勝を経験してきた。「シルバーコレクター」と揶揄され、今年だけで天皇杯とルヴァン杯で2度準優勝に終わった。今季のチームの成熟度は今までで一番。そんな手応えがありながらも、それを確信に変える「タイトル」だけが遠かった。9月までは4冠(リーグ戦、ACL、ルヴァン杯、天皇杯)獲得の可能性を残していたが、最終的に残ったのはリーグ戦のみ。その唯一の望みも首位・鹿島との勝ち点差は最大8まで開いていた。
それでも、川崎は粘り強く戦い食い下がった。そして鹿島に「勝たなければいけない」というプレッシャーをかけた状態で最終節大宮戦を迎えた。川崎は序盤から攻守で圧倒した。今季継続してきたことを出し切り、5発完勝。鹿島が磐田と引き分けたため、試合終了の笛が鳴った瞬間、初優勝が決まったのだ。川崎一筋15年目での栄冠に憲剛は涙を隠しきれなかった。「この光景を待っていたんです」。2017年12月2日の等々力劇場はあまりにも美しかった。
【憲剛の宿命】
「長すぎて長すぎて、このままタイトルがとれないまま辞めるのかとも思った」。試合後のこの言葉は憲剛の本音だろう。この15年の間に川崎を背負った多くの選手たちが引退を決断したり、移籍したりした。憲剛自身も、海外挑戦の可能性があった。だが、「タイトルをとらずにこのチームを去ることはできない」と自らを拾ってくれたチームへの恩返しのため、残留を決意している。2013年に伊藤宏樹が引退すると憲剛はチーム最古参となり、彼には周囲の期待と重圧がのしかかった。幾度となく勝負のピッチに立ってきたが、どうしても届かなかった「あと一歩」。自分に原因があるのではないかと思い悩んだ。
今季から主将は小林悠に託した。副将には谷口彰悟や大島僚太らが抜擢された。彼らもみな、川崎でプロ生活をスタートさせた生え抜きだ。そう、憲剛の執念にも似たその想いをともに背負える仲間が周りにはいた。「憲剛さんにカップを」――。そしてついに、この想いが結実したのである。元日に鹿島に負けたことも、ルヴァン杯決勝で敗れたことも、全てはこの優勝のための糧であった。
【永遠のサッカー小僧】
思えば憲剛はサポーターの夢を叶え続けてきた。J1昇格に大きく貢献し、幾多のゴールを演出してきた。そして、クラブ史上初の「リーグベストイレブン」であり「W杯戦士」であり「リーグMVP」である。ピッチを出れば、茶目っ気たっぷりに盛り上げてくれる。まさに「バンディエラ(旗頭)」なのだ。そんな憲剛を川崎サポーターは愛し、一緒に優勝することを夢見てきた。そしてついに、その夢を叶えてくれた。
「今が史上最高の中村憲剛なんです」。憲剛はよくこんな言葉を口にする。純粋にサッカーが上手くなりたいという思い。その向上心こそが37歳となってもなお、彼が「史上最高の中村憲剛」であり続ける理由だ。そしてこれからもずっと、川崎サポーターとこの永遠のサッカー小僧との夢物語は続いていく。なぜなら、中村憲剛という存在そのものが「夢」なのだから。(Rintarion)
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3年前にこの記事を書き、実際にこの後も「史上最高の中村憲剛」っぷりを見せてくれました。そして大怪我にも負けず、華麗な帰還を果たし、引退をしていく憲剛の美学には心を震わされました。心の底からカッコいいと思える男です。これからも川崎と共に。憲剛との絆は永遠だと思っています。