雪風〜わだつみを振り返るな〜
初めて船底が佐世保の海に接した冷たさを覚えている。
佐世保海軍工廠のドックの外壁にまだ両側面と後方は囲まれていたが、前方のゲートは開いた。舳先の向こうに、海面が朝日を照り返し、オレンジに煌めく佐世保湾が見えた。遠く、僚艦夏雲の艦影も見える。
1939年3月、桜が咲く季節にわたしの進水式は行われた。式には一般の人も沢山集まってくれた。
歓声と拍手の中、わたしは戦いの海へ、初めてその舳先を滑り込ませた。
佐世保湾は両腕で山に抱かれたような地形をしており、波も穏やかであった。
進水式は済んだが、まだ母の腕に抱かれている、そう感じた。
新装の九六式連装機銃を上空へ巡らせても、墜とすべき機影はなく、トンビが緩やかに舞うばかりだ。
わたしは、ふっと息を吐いた。
先は長い。気負っても仕方ない。
「ゆきかぜー!!」
歓声の中からわたしを呼ぶ声が聞こえた。
夏雲ら朝潮型の特長を引き継ぎ、かつ弱点であった耐久性や航行速度が強化された陽炎型8番艦としてわたしは生まれた。長引いている支那との戦いは陸戦だ。しかしその行き着くところは米英戦、戦場は太平洋へと移る。そこが駆逐艦としてのわたしの"職場"となるはずだ。
身震いでも覚悟でもない。
わたしは平静だった。
今、ゆるやかにわたしの側壁を叩く波のように。
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1941年12月8日。
ハワイ真珠湾の払暁の静寂を九七式艦攻の爆雷と零戦の機銃掃射音が切り裂いた。湾内の米海軍基地は一瞬にして火の海に包まれた。
ここに、日米、太平洋戦争の火蓋は切って落とされた。
真珠湾の爆撃音を遠く聴きながら、わたしはじっと出撃の時を待っていた。
真珠湾奇襲は赤城、飛龍ら第一航空艦隊の空母による艦載機によって成された。先の日本海海戦の主力は三笠など戦艦だった。しかし、これからの戦いは真珠湾がそうであったように、空母と航空機による戦いになる。
戦艦は一発の火力は絶大だが、小回りは効かない。
空母に随伴し、空母を護り、かつ対空機銃と爆雷で空と海中、どちらも攻撃できる火力を持つのは駆逐艦、つまり、わたしの役目だ。
初戦は真珠湾攻撃からわずか3日後に訪れた。
艦長の飛田健二郎中佐は妙な落ち着きを備えた人物だった。
錨を上げると、どこぞ、遊覧にでも出るように、ゆらり、と呉軍港を離れた。
行き先はフィリピン。レガスピへの上陸支援が任務だった。
緊張する乗組員に「なに、遠足と変わらん」と大笑すると、最大速力36ノットまで高められた機関を最大まで使うこともなく、まるで戦艦のように悠々大洋を南下した。
わたしにも、多少の緊張はあった。
駆逐艦の役目は露払い、切り込み隊長だ。
砲撃、爆撃で沈められるのは覚悟の上、差し違えてでも一矢報いればそれで良い。手傷を負わせれば、仇は戦艦や艦爆が取ってくれる。
とはいえ、せっかく艤装された50口径連装砲の一発も撃たずに没するのは避けたかった。
だから、飛田艦長のゆったりした空気に緊張が解けた。
帝国海軍、最強強襲部隊「花の二水戦」の一員だ。そう簡単にやられるわけがないし、やられてたまるか。
初任務を無事終えると、その12日後にはラモン湾上陸支援を命じられた。この時はP-40ウォーホークに追い回された。戦闘機風情が何をと、九六式連装機銃で迎えてやったがヒラリ、と躱され急降下による機銃掃射を食らった。魚雷発射管にしこたま被弾したが誘爆しなかったのは幸運だった。思えばこの時から、わたしの"幸運"は始まっていたのかもしれない。
乗組員も、負傷者は出たが、死者は出なかった。
乗組員とは一連托生だ。お互い戦いの海に身を置く同士といえ、死なれるのは気分が良くない。いつかわたしが沈む時は、できれば彼らには脱出して欲しい。
年が明けた1942年1月、修理を終えてダバオに出撃した。この時はB-17爆撃機の空襲を受けた。今度は戦闘機の豆鉄砲とは訳が違う。空爆を喰らえば、小さな駆逐艦はひとたまりもない。右へ左へ、回避行動を取って、なんとか被弾を避けた。そうこうするうち、重巡妙高から火の手が上がった。僚艦がやられて自艦のみ生き延びようとするは駆逐艦の風上にも置けない。消耗艦ゆえ、舳先に菊の御紋はつけてもらえないが、帝国海軍の誇りを忘れたことはない。
対空機銃で応戦しながら、すぐさま妙高の横につけ、乗組員の救助にあたった。
初陣から防戦が続いたが、上陸を助けた陸戦隊が暴れてくれている。
駆逐艦であるわたしは、この戦争において1つの駒に過ぎないことを自覚している。戦艦や空母よりその価値は低い。将棋の「歩」のような存在だ。しかしだからこそわたし一艦の武勲より帝国陸海軍の勝利を欲している。それに貢献するのが、「歩」であるところのわたしの矜持だ。
その後もチモール島など上陸支援に従事し、2月27日、ついに初の海戦を迎えた。
ジャワ島攻略を巡る、スラバヤ沖海戦だ。
第二水雷戦隊は重巡洋艦那智・羽黒を擁する第五戦隊と行動を共にしていた。
わたしは第二水雷戦隊の時津風、初風、天津風に、第五戦隊の駆逐艦も加え計8隻の単縦陣を組み、進撃していた。
主艦は那智・羽黒だが、駆逐艦がズラリと縦に並んだ姿は壮観だったことだろう。堂々、しんがりとはいかない。けれど最前線を波を蹴立て勇ましく進むのが駆逐艦のあるべき姿だ。
そして27日夕方、連合軍艦隊と遭遇した。
敵艦隊の進路を塞ぐ「T字戦法」を躱され、並走が始まった。距離17000からの重巡神通の砲撃を皮切りに、凄まじい撃ち合いが始まった。
敵は弾幕を張り、着弾調整を妨害している。
これでは当たるものも当たらない。
わたしは敵に9000mまで近づき、魚雷を撃ち込んだが、有効な戦果は得られなかった。
しかしその後、第十六駆逐隊の切り込み攻撃などもあり、終わってみれば3日間の戦いで敵重巡・軽巡各1、駆逐艦5を沈没させる圧勝であった。
海戦後、漂流した敵の乗組員を救助し、病院船まで運びながら、わたしは不満であった。敵を助けるのは別にいい。海戦にノーサイドはないが、海面を無力に漂う鉄兜に25ミリ機銃を向けるほどわたしは卑怯でも鬼でもない。
不満なのは自艦の魚雷のお粗末さだ。自爆や誤爆が多過ぎる。あれでは悪戯に魚雷を消耗するだけで、戦果はあげられまい。
二水戦だけで64本も魚雷を使っている。そのうち命中したのはわずか数発。途中から子供の喧嘩に思えて笑えてきた。
この海戦で勝てたのは近隣の諸島を制圧していた地の利と、参戦艦数の差で押し切ったからに過ぎない。
こんなことが大国アメリカ、その同盟国にいつまで通用するか。
しかしその後もニューギニア地域で帝国陸海軍は連戦連勝を重ねていった。
わたしの役目は主に上陸支援であったが、4月12日のマノクワリ攻略では上陸部隊の到着が遅れたことから、時津風とわたしの乗組員自ら上陸、これを占拠した。
乗組員が艦から離れてしまえばわたしにできることはないが、意気揚々と旭日旗をはためかせて戻ってきた乗組員を見ればわたしも誇らしい。
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わたしのミッドウェー海戦は、屈辱的な空母4隻喪失の前日に既に終わっていたと言っていい。
第二水雷戦隊であるわたしの使命は自軍の輸送船団の護衛であった。
6月4日午後1時、B-17爆撃機の執拗なる攻撃を受け、丸腰の輸送船を守るため、対空機銃で必至に抵抗した。1番に被弾するなら戦闘艦であるわたしでなくてはならない。
結果、輸送船あけぼの丸や清澄丸が被弾し、死傷者も出たが航行に支障はなかった。
わたし自身はほぼ無傷であり、それは喜ぶべきことなのだろうが、不完全燃焼の感が残った。
出来るなら、護衛ではなく、敵艦隊と撃ち合いたかった。
機会さえ与えられれば戦艦とだって対等にやり合える。
艦長はじめ、わたしの乗組員は優秀だ。
激務の任務の合間を縫って、わたしを整備し、艦内を綺麗に清掃してくれる。そんな乗組員のために、誇れる戦果を求めていた。
しかし翌5日、南雲機動部隊が展開する戦闘海域に駆けつけたわたしが見たのは、炎上し、手のつけられない空母赤城の姿だった。続いて加賀、蒼龍がやられた。わずか数分の出来事だ。やったのはドーントレス、艦爆か。直掩の零戦は何をしていた。駆逐隊は何をしていた。悔しさに砲が震えた。わたしがいれば、こんなふうにむざむざやられたものか。ドーントレスの如き鈍機、50口径連装砲で叩き落としてやったもの。しかし、そう思ってももう遅い。
今は砲を上げるより、味方の救助だ。
きっと残った飛龍が、敵連合軍艦隊を撃滅してくれる。
しかし、その後、わたしの仕事となったのは炎上し、沈んでいく飛龍からの乗組員の救助だった。
海戦後、戦闘海域に留まり続けたにも関わらず、ほぼ無傷であったわたしの幸運を讃える声もあったが、早々、どうでも良かった。帝国海軍が誇る空母機動部隊を壊滅させられ、わたし一艦、無事で何となる。
ミッドウェー海戦に関しては、後から色々作戦の拙さも聞いたが、それもどうでも良かった。
作戦は人間が立てるもの。大いに反省してくれればいい。
けれどわたしは戦闘艦だ。
戦闘に反省は意味がない。
戦闘艦の存在意義は、海戦で敵を屠ることのみにある。
その晩、砲を撫でる手があった。
飛田艦長だった。
「砲身のつめてーまま、帰らせちまって、勘弁なぁ…」
甲板で、俯く艦長に、わたしは沈黙で応えた。
この艦長がいればこそ、砲弾飛び交う海から無傷で帰れたのだ。
数日後、飛田艦長が退任した。
わたしは心の中で礼砲を撃って送った。
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新たに着任した菅間良吉中佐を艦長として、わたしは引き続きサイパン方面への輸送船団などの護衛任務にあたった。ミッドウェーで大破した重巡最上の回航にも従事した。一連の護衛任務がひと段落つき、呉へ戻ったのが8月。
翌9月4日には空母雲鷹を護衛して横須賀を出港、トラックへ進出した。
休む暇がないが、休んでいても仕方ない。
戦うために生まれてきたのだ。
戦闘海域を走り回り、魚雷を吐き出し、機銃を撃ち込み、砲弾を炸裂させてこそ駆逐艦だ。
最期は派手にやられて沈むのがいい。
端から、三笠のように飾られて、安寧な余生を過ごすつもりなどない。
ミッドウェー海戦後の改編でわたしは第十六駆逐隊所属となり、僚艦には同じ駆逐艦、天津風がいた。
10月12日にはその天津風と共に米軍基地のあるサンタクルーズ諸島を偵察、砲撃した。
同21日、南雲機動部隊を護衛し、南太平洋海戦へ加わった。
わたしは、第四駆逐隊の嵐、舞風、第十七駆逐隊の浜風、第六十一駆逐隊の照月らと行動を共にした。
当初、空母翔鶴の直衛だったが、陣形の乱れから、瑞鶴の直衛へと変わった。どちらでもいい、空母を護るのが仕事だ。空母目掛けてやってくる敵戦闘機や艦爆を叩き落としつつ、海上の敵とも戦う。わたしが身を挺すれば、その後、必ず味方が反撃してくれる。そのための捨て石ではない、布石となるのだ。
予想通り、エンタープライズからの艦載機が襲いかかってきた。わたしはとっさに瑞鶴をスコールへ誘導し、攻撃から身を隠させると、翔鶴の護衛に回った。対空機銃で応戦したが力及ばず、翔鶴が被弾、戦線離脱したため、再度瑞鶴の護衛へ転じた。
波状攻撃を仕掛ける米軍機に九六式連装機銃を撃ち尽くす勢いで浴びせかけ、ついにこれを退けた。
わたしも被弾したがなんの。乗組員は無事だし、無傷の幸運艦などと言われるより、傷の一つもついた方が気分が良い。何より空母を守れた。これ以上、空母を失うことは、帝国海軍の決定的な敗北を意味する。
日が暮れたあとも、探照灯を照らし、味方艦載機を空母まで誘導し、不時着した搭乗員の救助にあたった。
夜間に照明をつければ、敵に見つかる恐れもあったが、見捨てることなどできない。
敵を挫き、味方を護る。
こんなにも、心躍り、誇らしい任務があるものか。
余談だが、この海戦後、一連の功績を讃えて山本五十六連合艦隊長官より感状が授与された。わたしにではない、艦長以下、乗組員へだ。
それでいい。乗組員が褒められればわたしも嬉しい。
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南太平洋の戦いから1ヶ月、11月に入るとガダルカナル島の戦いの雲行きが怪しくなってきた。
今のうちに徹底的に叩いておかねば、奪還は絶望的となる。陸戦隊だけに任せておけない。
かくて、第十戦隊の金剛型戦艦、比叡、霧島によるヘンダーソン飛行場砲撃が企図された。この戦いにわたしも第十六駆逐隊僚艦天津風らと共に参加した。
対する米軍もソロモン海海上に艦隊を展開、迎撃の用意を整えていた。
戦いは夜戦となり、敵味方、入り乱れた乱戦となった。
闇に沈んだ水平線をパパパッと光が走った瞬間、炸裂音が響いた。敵の砲弾だ。比叡が探照灯で照らした敵艦目掛けて、夢中で50口径連装砲を撃ち、巡洋艦と駆逐艦を撃沈した。しかし、探照灯を使った比叡は自らの艦影も闇に浮かび上がらせることとなり、敵の集中砲火を浴びた。
何とか護衛しようとしたが、砲撃が凄くて近づけない。
そうこうするうちに、艦側壁に衝撃が走り、艦全体が大きくぐらついた。足を滑らせ、甲板状を転がる乗組員が見えた。そうかと思えば、転倒しながら、必死に持ち場の機銃を掴んでいる者もいる。なんのこれしき、横殴りにくる波に耐え、何とか転覆を回避した。どうやら思わぬ方向から被弾したようだ。甲板が浸水したが、まだ戦える。衝撃が来た方角へ機銃を巡らせるが、僚艦しか見えない。魚雷でもない。後にわかったことだが、この被弾は僚艦による誤射であった。恨みはしない。そういうこともある。
味方の誤射ということは、敵からの砲撃は全て避けていたということ。乗組員に落ち度はなかった。それが誇らしい。
乗組員の士気も落ちていなかった。
しかし、戦闘不能と見做され、戦線離脱を命じられた。
まだやれると思ったが、命令なら仕方ない。近隣海域にて待機した。
と、遠くに火の手が見えた。
比叡だ。
比叡が燃えている。
ここで、釣り船のごと、のんびりしていていいのか。
そこに、比叡より長良へ移った旗艦長より、比叡護衛の命が下った。遅い。わたしは歯噛みする思いで比叡の元へ急行した。
午前4時20分、わたしが比叡の元へ一番先に着いた。
夜明けと共に米軍の空襲が再開される。
それより前、午前6時に4隻の駆逐艦(照月、時雨、白露、夕暮)と共に比叡を護衛し、戦闘海域からの離脱を開始した。
比叡は通信能力を失っていたため、一番に駆けつけたわたしへ比叡に乗艦していた阿部中将らが移乗した。これによりわたしは臨時の旗艦となった。
予期せぬ戦闘の結果とはいえ、一駆逐艦であるわたしが旗艦とは。名誉この上ない。比叡健在を示すため、中将旗をマストに掲げた。敵に見つかりやすくなっても構うものか。帝国海軍の各艦の機関は誇りと情熱で動いている。
そんなわたしの思いを断ち切るように、敵の空襲は激しさを増していった。わたしも被弾し、最大速力を出せなくなった。さらに、白戸水雷長が爆弾の破片を頭に受け重体、時雨以下各艦も被弾、損傷していった。
それでも、比叡を見捨てるわけにはいかない。
比叡を護れというのが任務だ。
必死に機銃で抵抗を続けた。
戦艦である比叡の盾となり先に逝けるなら、それは犠牲ではない。駆逐艦の見せ場であり、死出の花道だ。
しかし、比叡は度重なる着弾によりやがて自力航行不能に陥った。加えて、曳航する予定であった霧島も退避。もはや、比叡の救出は不可能との司令の判断により、わたしは比叡の乗組員を救出、現場海域を離れた。その後、再度サボ島海域まで戻り、比叡を探したが、ついにその艦影は見つけられなかった。結果、比叡は沈没したと判断され、わたしはソロモン海域を脱した。
戦果も上げた海戦であったが、後味は悪かった。
今も、ソロモン海域のどこかを、火柱を上げる比叡が彷徨っている気がする。
この海戦後、空母飛鷹を護衛してわたしは呉軍港へ帰還した。いつぶりの内地か、もう覚えていなかった。
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1943年に入ると、ガダルカナル島撤収作戦に従事した。
島に残る兵を脱出させるのが任務だ。
敗戦処理でしかない任務に意気は上がらなかったが、仕方ない。助けた兵がまたどこかの戦場で奮起してくれることを願って、制空権も制海権も敵に掌握された地獄の海を何度も行き来した。
同作戦に就いていた巻雲が沈没、巻波、舞風が大破、ついには同じ呉で生まれた陽炎艦、磯風まで大破した。
ガダルカナル近海は、帝国海軍駆逐艦の墓場と化した。その海を、わたしは無傷で渡り切った。
しかし、喜びなどなかった。
沈みゆく僚艦をなす術なく見送るのはもう嫌だった。
けれど、残されたからには戦い続けなくてはいけない。
戦う?
戦っていると言えるのか、わたしは。
いや、戦闘艦に思慮は不要だ。
ただ、与えられた任務を遂行し、それが成し得ない時は潔く海の底、僚艦の元へ逝けばいい。そう思えば少し、気が楽になった。
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1943年2月には護衛していた輸送船団が連合軍の空襲に遭い、輸送船8隻が全滅した。
わたしは海を漂う陸軍師団兵を900名以上救うと、目的地ラエまで輸送した。
翌日、輸送船団に戻ったが、再び空襲により、輸送船団は全滅、護衛の駆逐艦も半数が撃沈された。
わたしは撃沈された駆逐艦乗組員を救出し、一旦戦闘海域を離脱、深夜、再び戻って漂流中の生存者100名を救助した。
この頃には、護衛とその後の救出ばかりになっていた。戦闘艦でなく、救出艦の方が実態に近い。
だとしても、戦い続けるしかなかった。
どれだけ戦況が不利だろうとも。
なぜならわたしは、駆逐艦。戦うために生まれてきた。
この輸送船団護衛任務のあと、ラバウルに帰着、整備を始めたが、すぐさまコロンバンカラ方面への輸送任務の命が下った。わたしは整備を中断、ラバウルを出撃した。
死に場を求めていたわけでないが、僚艦が次々沈んでいく今、わたしが出なくて、どの艦が出る。
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1943年5月、アッツ島への米軍上陸を受け、トラック泊地の連合艦隊は順次内地へ帰投した。わたしも第一航空戦隊の瑞鶴と瑞鳳を護衛し、5月8日に呉に帰還した。
その後、乗組員には休暇が与えられ、わたしは改装を施された。25mm機銃が増設され、当時最新兵器であった逆探が装備された。
これでまだ戦える、そう思ってホッとした。
その後、6月に入るとラバウルでの輸送任務に従事した。
7月にはコロンバンガラ島沖海戦に参戦、浜風ら僚艦と共にスコールに乗じて敵艦隊へ接近、魚雷で軽巡2隻大破、駆逐艦1隻撃沈・2隻大破の戦果を上げた。
ただ、その6日後には護衛していた輸送船団を強襲され、僚艦夕暮が魚雷により真っ二つなり、その救援に向かった清波も2時間後に消息を絶った。
戦いに次ぐ戦いの中、次第に帝国陸海軍が追い込まれているのは感じていた。
どれだけ戦場の海を駆け回っても、必死に護衛しても、連合軍は圧倒的物量と火力で殲滅しにくる。
それでも。増設された25㎜機銃が火を吹く限り、徹底抗戦するしかない。たとえそれが、風車に向かう、ドン・キホーテであったとしても。
その後も10月には空母龍鳳を護衛して呉を出港、途中、敵潜水艦と遭遇するも、爆雷によりこれを退け、シンガポールへ送り届けると、11月に呉に帰還した。
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1944年も戦いに明け暮れたが、記憶に残っているのは6月のマリアナ沖海戦だ。
わたしは補給部隊の護衛として後方で待機していたが、戦闘艦への補給のため、前線へ出ろと命令された。
補給部隊は本隊の最後尾にて洋上補給を開始したが、本隊は空襲警報を受け、撤退を始めた。
わたしも本隊を追ったが、足の遅い油槽船を護衛していては追いつけるはずもない。結局、わたしと僚艦の駆逐艦、そして油槽船は最前線に取り残された。そこへ、米艦載機が来襲した。
わたしは探照灯で米軍パイロットの目を眩ませる奇策で3機を撃墜した。しかし、こちらも油槽船に次々と爆撃され、戦闘海域から離脱するため、救助の見込みのない2隻をやむなく雷撃処分した。
断腸の思いだった。
油槽船だから沈めたのか、比叡の例を出すまでもない、護衛するのが戦艦だったらまた違っただろう。
戦場とは冷酷だ。
わたしは残った油槽船を護衛し、翌日本隊に合流した。
取り残されたことに恨みがないといえば嘘になる。けれど前述通り、戦場とは冷酷で、そうでなければ生き残れない。補給部隊を切り捨ててでも本隊が生き残るのが戦場での正解だ。
本土帰投後、わたしは因島ドッグでスクリューを交換し、各部を修理、対空兵装の強化を行った。既に九六式高角機銃が艤装されていたが、そこへさらに25mm単装機銃10挺・13mm単装機銃4挺が増設された。
この兵装強化からもわかる通り、駆逐艦の敵は今や海にはない、空から来襲する。
本来、空からの攻撃には戦闘機が対応するものだが、今の帝国海軍の航空兵力を考えれば、贅沢は言えない。
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10月22日、栗田艦隊の一員としてわたしは僚艦と共にレイテ沖海戦に参加した。
レイテ湾突入までに、栗田艦隊は米潜水艦と、航空機の猛攻により戦艦武蔵をはじめ、重巡2隻を沈没させられていた。
それでも10月25日、午前7時45分、米空母部隊と遭遇、栗田艦隊は決戦に臨んだ。大和、長門ら戦艦の主砲が火を吹く轟音に後押しされ、駆逐艦であるわたしは敵艦隊へ突っ込んだ。
結果、この海戦で駆逐艦ホエール、ジョンストンを撃沈したが、正規空母部隊と思ったこの艦隊は、護衛の空母部隊に過ぎなかったことが後に判明した。
この後、わたしは航行不能となった重巡筑摩の救援のため本隊を離れたが、やはり引き返せとの命を受け本隊に戻った。こんなふうに振り回されるのにももう慣れた。
本隊に戻り、今度は魚雷誘爆により航行不能となった重巡鈴谷の救援に向かったが、救助活動を開始する寸前で鈴谷は大爆発を起こした。一歩間違えば巻き込まれて海の藻屑だったろう。やはり、わたしは幸運艦なのか。
その後は鈴谷乗組員の救助にあたった。
この海戦中、実はわたしは機関不調により、ディーゼル発電のみで稼働していた。
それでも数々の空爆、魚雷を回避出来たのは、寺内正道艦長の天才的な舵取りのお陰だろう。
着任挨拶で、俺が来たからにはこの艦は沈まん、だから皆、安心して持ち場で働け、と訓示したのは虚勢でなかった。
まぁ、彼が天窓から頭を出し、落ちてくる爆弾を三角定規と目視で確認し、進路を指示する度、面舵といっては右肩を、取り舵といっては左肩を蹴られる航海長にはいささか、同情するが、それで乗組員の無事が担保されているなら我慢してもらうより他ない。
この操舵法のおかげで、戦艦大和が沈んだ坊ノ岬沖海戦も生き延びた。
戦闘機の直掩もなく、米軍が上陸している沖縄へ突っ込む、水上特攻作戦だった。
出撃前、菊水のマークを煙突に描き込むことを許されたが、寺内艦長はこれを拒否した。乗組員に遺書を書くのも禁じた。
何が特攻か。いつも通りやって、生きて帰る、彼の頭にはそれしかなかいようだった。
わたしはと言えば、華々しく散りたい気持ちもあったが、戦い続けられる限り生き延びて戦いたい気持ちもあった。
だからわたしはわたしの命運を、これまでずっと共に戦ってきた乗組員に託すことにした。彼らがわたしを操り、その上で沈まされるのなら、悔いはない、納得できる。これが最期の戦いになるとして、艦体に描き込む菊水も菊の御紋も要らない。
彼らと共に、この海を疾駆するだけだ、最期のその時まで。
大和を旗艦とする水上特攻部隊は4月7日正午過ぎ、坊ノ岬沖で米航空機隊に捕まった。400機からなる猛爆を受け、大和は沈没、軽巡矢矧、駆逐艦浜風、朝霜、霞も沈没した。
同じく駆逐艦冬月が中破、涼月も大破した。
そんな中、やはりわたしだけが生き延びた。
食糧庫に命中したロケット弾が不発だったことは、流石にわたしも幸運だったとしか言いようがない。
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わたしの戦いは終戦まであと少しあるのだが、大和も沈んだ。もうここらでいいだろう。
結論から言えばわたしは陽炎艦を含む、甲型駆逐艦38隻の中、唯一、終戦まで生き延びた艦となった。
それで幸運艦などと呼ばれたが、喜んでいいのかどうか。戦闘艦の意義は生き残ったかどうかではない。沈んだ僚艦の中に最敬礼を送りたい活躍をした艦がどれほどいたことか。
それを、生き延びたというだけで、わたしだけ持ち上げられるのは居心地が悪いし、望んでいない。
もしわたしになんらかの武勲があるとして、それはみな、乗組員のものだろう。
わたしはただ、与えられた務めを果たしただけだ。
その務めを果たせたのも、爆撃の中、各持ち場で奮戦した彼らがあってこそ。
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戦後、わたしは復員輸送艦として働いた。
ある時、南方からの引揚者の中に、左腕のない、けれどどこか呑気な兵隊がいた。その後、彼は鬼太郎とかいう漫画を描き出したようだが、それはまた、別の話だろう。
復員輸送船としての役目を終えると、わたしは賠償艦として中国へ引き渡された。
引き渡し時の艦内視察の際、各国の軍人から、「敗戦国の軍艦でもかくも見事に整備された艦を見た事が無い。まさに驚異である」と感嘆されたのは嬉しかった。
幸運艦と呼ばれるよりもずっと。
何故なら、そう言われたのは、激戦の最中も、そして終戦後もわたしを整備し続けた乗組員達の不断の努力と…こう言うのは少し気恥ずかしいが、愛情があったからだ。それが報われたことが嬉しかったのだ。
中国へ引き渡された後は丹陽と名を変え、中華民国海軍旗艦として働いた。そして1965年、老朽化により退役、解体された。
中国政府より舵輪と錨のみ返還され、現在、舵輪は江田島の旧海軍兵学校・教育参考館に、錨はその庭に展示されている。
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今、錨だけになり、瀬戸内海の穏やかな海を思う時、思い出すのは、初めてその身を浸した佐世保の海だ。
戦うために生まれ、それを全うした自負もあるが、現役を退いた今、戦闘艦としては失格かもしれないが、平和も良いものだなと思う。
かといって、三笠みたく観光客に囲まれるのは趣味じゃない。
だからあまり人も来ない、この庭はなかなか気に入っている。午後の日差しにまどろめば、いつかの僚艦の勇姿が海上にキラキラ、キラキラと見えるのだ(終)
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あとがき
来週はお休みさせて頂きます。
なお、この記事に登場する鬼太郎の作者こと、水木茂の記事はこちらからどうぞ。
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