連載「若し人のグルファ」武村賢親4
小糸を前にすると、全身がかゆくなるような感覚に襲われる。それは、酔うと手首がかゆくなってくるのと聞かされたあの熱い夜から、ずっと続いている拒否反応のようなものだ。
小糸は、俺が学生時代に所属していたスノーボード愛好会を騙った飲み会サークルの催しに顔を出す大学のOGだった。飄々として捉えどころがなく、奇抜なファッションと只者でない雰囲気を醸し出していたこともあり、当時の現役生の間ではゲスな噂話がまことしやかにささやかれていた。
その中には、彼女に気にいられればいくらでもやらせてもらえるといったいかにも低俗な噂まで混じっており、俺が初めて小糸と交わした会話にも大学生らしいさわやかさなど微塵もふくまれていなかった。
「きみはわたしと寝たいと思う?」
いよいよ終電がなくなろうかという深夜のダーツバーで、小糸は息がかかるくらい顔を寄せてそんなことを聞いてきた。俺はダブルブルを当てた仲間の的をぼんやりと眺めながらナッツを噛んでいた。大勢いたはずのサークルのメンバーが時間とともに数人ずつ、店を抜けはじめたころのことだ。
「いいえ。あなたと寝たら蟷螂の雄みたいな最期を迎えそうですから」
いくらか酒も入って気を大きくしていた俺は、好みの型をした金髪のベリーショートや、噛みつきたくなるような白い首筋、それから大胆に開いた胸元と、ダメージ加工からのぞく脚の生っぽさをこころゆくまで眺めてから、そんなことを言ったと思う。
さんざん視線で舐めまわしておいて誘いを断ったことが意外だったのか、小糸はおもしろいおもちゃを見つけたかのように口の端を持ち上げて、わざと俺の太ももを巻き込むようにしてその長い脚を組んだ。
恋人でもいるの? いいえ、噂を信じていないだけです。あんまり酔ってなさそう、素面かしら。酔っていますよ、顔に出ないだけです。いいなぁ、わたしはね、ここ、耳に出るの、赤くなっちゃう、それから手首がかゆくなるの。かゆくなっていいんですか。いいの、わたしかゆいの好きだから。
そのあといくつか言葉を重ねて気に入られたのか、小糸はもっとお話しましょうと耳打ちするようにささやいて、俺の手に指を絡めてきた。逃がさなから、と言われているような気がした。
ダーツバーを出て連れてこられたのはこざっぱりとしたカウンターバーで、飲みながら話すのかと思っていた俺の予想を裏切り、小糸はバーテンダーからボトルを一本受け取ると店裏の外階段へと向かった。
錆の目立つ階段の先は細い廊下で、構わず進んでいった小糸はどんつきの扉を開けた。
中はまっくらでなにも見えない。ちょっと待ってと言う声に合わせていまどき珍しい蛍光灯が瞬くと、現れたのは四畳半の和室だった。
小糸は短く、わたしの部屋、と告げた。
「いまはもう住んでいないわ。カレシの部屋に同居していて、でもたまに寂しくなると戻ってきて、ひとりで泣きあかすの。お酒飲みながら。そのうち身体ぜんぶがかゆくなってきて、乱れているうちに眠っちゃう。なんにもないけど、今夜は一緒に飲みましょう」
小糸の言葉は、そのどれもが聞く相手を誘惑するような妖しい響きをはらんでいて、初めて相対するタイプの人種に、俺は流されるままその四畳半へと吸い込まれた。
横倒しになったカラーボックスをテーブルの代わりに、黄色くなった畳の上で俺たちは朝まで過ごした。すりガラスの窓が薄明の藍に染まるころ、二十五度を下らない湿った夜気に身体はじっとりと汗ばみ、そでを通す服は重たくなっていた。
「また飲みましょうね」
あの日の別れ際の一言と、立ち上がった小糸が発した言葉が重なる。あの夜よりかはいくらか肥えて標準の体系に近づいたようだが、耳に触れるほどの短さで整えられた髪型や、話しはじめる直前に必ず舌で唇を湿らせる癖は変わらないようだった。
小糸はスチールデスクから紙の束が無造作に挟まれたバインダーを取り上げ、芝居がかった仕草で差し出してくる。束の一番上の用紙には覚書という題があって、受け取りながら文面を追うと色ガラスを使ったシーシャを貸し出すという事業計画が書かれていた。
「わたしのお店って若い女の子がこないから、こちらから発信しちゃった方が早いでしょう? 幸運にもうちには安く手に入ったきれいなシーシャがたくさん余っているの」
背後から抱き着くような体勢で寄りかかってくる小糸は、俺の耳たぶをつまんでもてあそぶようにしながら、もう一方の手で覚書の一行一行をなぞっていく。
要はカラフルな色ガラスを使った小型のシーシャを、期間いくらでレンタルするというサービスだ。煙草の葉とフレーバー、それから簡単に火がつくインスタントの炭をセットにして貸し出して、SNSを通じて需要を生もうとしているらしい。
たしかに、大型のものだと場所も取るし、こういうシーシャ屋でなければ滅多にお目にかかれないものだが、小型のものとなればアウトドア用のランタンみたいに持ち運びも楽だし、ガラスの色彩によってはSNS映えもする。そのためのホームページの拡張と、貸出予約管理のシステムをつくれという、歴とした仕事の依頼のようだ。
「お願いできるわよね」
「需要あるのか、これ」
水煙草ブームと言っても、主要メディアに取り上げられない限定的な流行りだし、ただでさえ世間は喫煙という行為に否定的な時代だ。もしかすると普通の煙草より害があるかもしれないと言われる水煙草を、わざわざシーシャごとレンタルして吹かそうなんていう若い女がいるのだろうか。
「フレーバーだけ楽しみたいって子もいるの。いまはニコチンフリーなジェルもあるから」
「それと通常のやつを選べるようにしろってことか?」
「話が早くて助かるわ」
小糸はわざと音が鳴るように、俺の耳に唇を押しつけてから、ゆっくりと身体を離した。
自分の手のひらがじんわりと汗ばんでいるのがわかる。常にからかっているような物腰といい、一々劣情を煽るような仕草といい、小糸の過激なスキンシップには振りまわされてばかりで慣れようがない。
ふと足音が聞こえ、あの背の高い新顔の女性店員が部屋に入ってきた。店員は飾り戸棚の前でしゃがみ、戸を開いて中を漁っている。
「小糸。お客さん、増えてきました」
「マティファ。そのシーシャは丁寧に扱ってね。いずれ貸し出すんだから」
マティファと呼ばれた店員は二度小さくうなずきながら小型のシーシャを三つ取り出し、せわしなく部屋を出ていった。二度うなずくのは彼女の癖のようだ。