連載「若し人のグルファ」武村賢親5
「落ち着かなくてごめんなさい」
「初めて見る顔だな」
「一昨日から働きはじめたの」
どうやら貸し出し用のきれいなシーシャというのは、あの飾り戸棚にしまってあるらしい。ブラックウォールナットの落ち着いた色調の戸棚は側面に大きな亀裂が入ってしまっているものの、ガラスのはめ込まれた戸の縁にオリーブの飾り彫がなされていたり、木目を生かした天板であったり、散らかったバックヤードにおいておくにはもったいない一品だった。
「あの棚はお気に入りなの。開店当初からある古株よ」
小糸はバインダーを俺の手から取り上げて口元を隠すようにして持ち、あなたには貸しがあったわよねと、捕らえた獲物をもてあそぶ猫のような眼差しで俺を見た。
「わかった。引き受けるよ」
両手を上げて降参のポーズを取る。小糸には、俺が会社を辞めたあとの食い扶持を紹介してもらった借りがあった。だから基本的に、この手の依頼を断るという選択肢は用意されていない。
秘密裏に進めていた丑尾の工房の件が、やっと軌道に乗ったというところで会社側に露見してしまい、俺は副業禁止という社則違反を理由に減俸という厳罰を受けた。それだけで済めば良かったのだが、俺が頼りにしていた営業チームの同僚が顧客の情報をこれまた副業で私的流用していたという事実が発覚し、同じく副業で厳罰をくらっていた俺は信用を大きく損なって、結果として転職を余儀なくされたのだ。
退職に繋がった理由が理由だったために、転職活動は大いに難航した。そのときに手を貸してくれたのが小糸で、知り合い――と言ってもそのほとんどは元恋人かセフレかなのだが――が運営しているというフリーランスと企業をつなぐ斡旋会社を紹介してもらって、なんとか食いつなぐことができたのだ。
「そう。よかった。お店のホームページをつくってくれたときもそうだけれど、必要ならいつきてくれても構わないわ」
そう言いつつ、小糸は俺の膝の上に跨ろうとした。慌てて席を立つと、小糸はいたずらに微笑んで、テーブルの引き出しから茶封筒を取り出した。
「手付よ。出来上がりの質さえ高ければ、外注も問わないわ」
中身を確認する。折り目のない諭吉が数枚、行儀よく収まっていた。
「小糸。もうすぐ時間です」
事務所の外からマティファの声が届く。姿は見えないが、よく通る声だと思った。
「呼びつけておいてなんだけれど、今日はもう帰って。あの棚を業者が引き取りにくるの。亀裂の修繕でね。シーシャを全部取り出さなきゃ」
小糸はマティファを呼び寄せ、俺を送り出すよう言いつけた。それから別れ際に、出来上がりを楽しみにしているわね、と一言挟んで、俺の頬に自分の唇を押しつける。
一昨日から働きはじめたという新人を前になにを見せつけているのか。マティファの表情を窺うが、特に驚いた様子もなく、俺が小糸から解放されるのをただ大人しく待っていた。
バックヤードをあとにすると、客間は思いのほか賑わっており、日本語に混じってフランス語だかアラビア語だか、すこし鼻にかかったような発音が耳についた。
こんな状況で戸棚を引き取りにくる業者の相手ができるのだろうか。小糸は客間の入り口までは出てきたが、途中でベトナム人風の店員になにやら合図を出して、自分は客の対応をするためか、カウンターの内側に入ってしまった。
「小糸の、恋人でしょうか」
店の出入り口まできて初めて、前を歩くマティファが振り向いた。距離が近かったのですこし見上げる姿勢になる。どことなく顔のつくりが小糸に似ていると思った。黄みがかった茶系の、明るい瞳の色をしている。
「違う。俺はあいつに助けてもらった借りがある。それだけだ」
首元のアフロビーズの首飾りが目につく。ピンクにすこしの肌色が混じったような不思議な色合いのビーズだ。
「それなら、わたしも同じです」
微笑んだのだと気づくまで、すこし時間を有した。これまでほとんど無表情で対応をしていた彼女の破顔一笑は、想像をはるかに超えてやわらかく、意表を突かれた思いがした。
店の奥から店員を呼ぶ声が聞こえ、マティファは、それではお気をつけて、と一言残して客の対応へと戻っていってしまった。
店を出て地上への階段をのぼりながら、俺はマティファの言った、わたしも同じです、という言葉の意味について考えた。同じということは、彼女も小糸に借りがあってこの店で働いているのだろうか。小糸が積極的に外国人を雇い入れるのには、来訪する客の多くが観光客で、様々な言語での対応が求められるからだと、以前話の流れで聞いていた気がする。マティファもそんな理由で雇われたのだろうか。
地上に出ると、湿気と汗と自動車の排ガスの匂いに、水煙草の煙を吸ったときとは違う意味で頭がくらくらした。もうすっかり夜の帳も下りて、ハングルやアラビア文字が目立つ飲食店の看板が眩しいくらいに輝いている。
かすかに電車の音が聞こえた。JRの駅がある方向とは反対方面に足を向ける。
愛車を停めた時間貸し駐車場へと向かう道中、すれ違う通行人がこぞって俺を振り向く気配を感じた。服からあまい煙の匂いが立ち昇ってくるせいだ。
帰ったらすぐにシャワーを浴びよう。
気配を感じて振り返って見たが、視線を交えた通行人の中に日本人はひとりもいなかった。