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お礼で納める by. 木森 林林
『納め』
それは “納・収・治・修” と状況に寄り
意味合いや使い方は異なる
全てに共通することは
『しゅう』とも読めることだ
これらは偶然などではなく意図したモノだろうが
同じ『しゅう』でも “集” という言葉も存在する
これはナニカを「おさめる」際の過程において
情報や必要なモノの準備で必ず行う動作が
この『集める』という行為だ
どちらもその先の展望や進展がある前提であり
内側に向けた視点のようで
外側に求める意味合いでもある
正確には内外を含めた全体に対して
「おさめる」という行為そのものがあらゆる場面において
相互に変化を促すのではないか
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- 納めるための空間 -
今年は世間的にもワタシ事としても
『納める』という事例が多かったように思う。
冒頭で記した “納・収・治・修” の形式で、
生きる上で前進するための過程として必要不可欠だった。
どの事例に対しても感じたことだが、
納めるために必要な「空間」は
物質的にも精神的も凹凸の様に求められ、
その空間は “余白” の様な隙間がないことは確かだ。
これはどの様な場合においても
『おさめたモノ』は解体され元の姿に戻すのではなく
『おさまったカタチ』から
次の流れや動きを行うためであり、可能な限り凹凸の役割を相互に求められる。
そのためには相互に納まった空間や
その後の展望を互いに認識しておく必要がある。
“納めるモノ・収まる場所” どちら側も、
双方が存在している空間への認識と理解が伴えば
一連の『納める』という事象も円滑に進むのだろう。
- お礼で納める -
『納める』という行為や行動の中には
「お礼」という所作も一体となることが一般的に思える。
仕事納めとされる毎年の行いにも、
内側に向けた行動として、外側に対する所作として
一つの区切りとしてお礼をする。
ワタシはこの一連の流れに対して
納める行為として最後に一礼ができるかどうかが、
前述で記した
相互に隙間なく納まったことの証の様に感じた。
そこには
完璧主義の様な個人のエゴは存在せず、
相互の空間すらもその都度変動するカタチで
互いにお礼を伝えることが本質的な目的の様でもある。
ただそこまでの過程は、
前回記事で記した『習慣』のように、
日々の積み重ねに対して
「仕事」 という抽象的で大きな枠組みでさえも
『納める』という “時期が存在すること” は
社会生活においてとても必要な役割を果たしているのかもしれない。
- さいごに -
ここまで見てくださりありがとうございます。
一般的に2024年の『仕事納め』とされる日の記事ですが、
ワタシは仕事に対して大きく区切ることはありません。
そもそも仕事という線引きが昔から曖昧で、
自ら区切らずとも環境の変化により無条件でやってくるこの社会と自然の移り変わりは、
日々ナニカに『おさまり続けている』様に思います。
それはどこか守られているような気にもなる感覚で、
あまり使用されないため記事内には記しませんでしたが、
クラという漢字の『蔵まる(おさまる)』といったところでしょうか。
同じ『おさまる』という中でも
空間そのもので読める “蔵” という存在もまた
ワタシにはご縁がある字であり
どこか感慨深いモノがあります。
この部分はまた次回以降に触れさせていただきます。
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木森 林林(RINRIN KOMORI)