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新たな世界を見る方法 by. 木森 林林

『転生』

輪廻転生という概念があるが
それは生きる中で起きるのか
それともその先か

“転がる” その事象自体は
新たに生まれ変わる分岐を指すのだろう

転職や転勤
転校や転居
転回や転換

これらの変化は
“活きる” 中で自ら意図するならば

過去の記憶や経験は喪失するのか
それとも継承されるカタチで
新たな世界でも活かすことができるのか

見渡す景色が意図せず変化し
新たに生まれ変わったのならば
それは寝ている間の夢の世界

転生とは自らの意志が望めば
自ずと「起こすことが可能な事象」なのかもしれない

photo : 丹後 (Rinrin Komori)


- 広い世界の視点 -


この世界は広い。

ワタシは今を生きるこの世界が、
膨大に広がり果てしなく感じている。

実生活や社会を生きる上で、
『狭い世界』と表現されることもあるが
ワタシはそうは思わない。

学生時代にはクラスが変わり学年も変わる、
社会人になれば就職先が変わり住む場所が変わる。

今を生きる世界を業界と捉えるのか、
属するコミュニティとして捉えるのか
出会う人との繋がりで判断するのか。

それは人それぞれの視野や視座、
価値観により異なるのだろう。

ただどういう視点であれ
環境が変わり "ナニカが変化する" ということは、
個人の世界はその変化と共に広がっているはずだ。

実生活を送る中で様々な規制があり、
法律やルール、モラルや常識といった大きな枠組みの中にも細かい "暗黙の縛り" が存在し

生まれながらにしてあらゆるシステムの中でワタシ達は生きている。

そうした「変化」が外的要因として生まれても
“今を生きる世界で起きた事象” であればそれもまた
『新たな世界』として解釈する事もできるわけだ。

今ワタシが執筆を通して発信しているインターネットやSNSの世界も日々様々な変化や発展を遂げ、

多くの人が行き交う事で実生活と同じく視点が増え、
常に広がり続けている。

こうした変化が広がり続けるのは、時と場合で
人によって戸惑いや迷いを生じさせる事も事実。

そもそも
こうした変化や広がりを望まない視点も存在するだろう。

だが全ての生命は、
産まれた瞬間から既に “ナニカが創造した世界” で育ち、
その繰り返しの中で「どの地点に生まれ落ちたのか」。

すなわち “その地点から見渡せる範囲” など
“今”を生きる上で本来わずかな範囲であり、

ワタシ達は生きることそのもので無意識に広い世界を求め、
膨大に広がった世界を産まれながらにして生きているのだ。


- 狭い世界の視点 -

では『狭い世界』という視点で今を生きるとどうだろう。

目の前のコトに集中し、
見えている視界の範囲の意味なのか。

それは永遠と同じ環境で同じ作業をし、
同じ人と同じ場所に居座ることを指すのか。

もはやその概念すらワタシは分からない。

一見すると動いていないモノを顕微鏡で覗くと
そこには新たな世界が広がっている。

小学生の頃に見た顕微鏡の写真に感動し、
ファーブル昆虫記に影響され親に高価な顕微鏡をおねだりし泣いていた頃を今になって懐かしく思う。

では大きい世界と小さい世界という視点で見てみよう。

このどちらも
決して『狭い世界』ではないとワタシは考える。

表現の方法や捉え方の違いで、
「深い世界と浅い世界」といったように

世界という多くの生命が共存するこの空間にも
X・Y・Z軸のような多面的な見方ができるわけだ。


- 転生後の世界の視点 -


ここまで『世界』という概念や視点について
ワタシの見解を記してきたが、

本題に戻すと、

“転生” とは冒頭で記した
『転がる変化』で行き着く世界に過ぎず、

その行き着いた地点からの視野や視界をどう捉えそこから生きるのかとワタシは解釈している。

たとえ “輪廻” という言葉が付いたとしても、
決して空想の世界に起きる事象などでもなく

実生活において自然に起こり続けているサイクルに過ぎないのではないか。

では転生後の世界でどう生きるのか。

答えは残念だが、
経験した者のみぞ知る。というのがワタシの結論だ。

前述のサイクルや動きで行き着いた地点から、
『自ら望み意図したかどうか』によって、
視点や価値観までもが多様に変化するとワタシは考える。

量子力学や物理の世界では現代技術の発展から、
時間や空間に対する研究がこれまで以上に進んでいる。

そこで得られた多くの発見や
新たな概念から引用するならば、
「多元宇宙論」のように多くの世界が複数存在し、

その宇宙という概念が “個人が産まれ生きる世界や見ている視点” に置き換えた場合に、感覚的にではあるが理解できる。

前述までの実生活や社会において生きる『世界』を、
一人の人間が宇宙的観測として俯瞰で見た場合

凡そこの感覚に共感できる人も少なくないのではないか。


- さいごに -


ここまで見てくださりありがとうございます。

今回の記事には裏テーマがあり
その結論としては、

『狭い世界の中での選択』と『広い世界の中での選択』は、
どちらも相応に最良の判断を鈍らせる要素がある。

という昨今の現代社会であらゆる場面に起きる “迷い” に対する視点を、

『転生』という概念から多面的な世界を見る感覚で記事にしました。

ワタシは過去に「狭い世界」という表現を、
少しネガティブで消極的な意味合いで見聞きする場面に遭遇したことがあります。

これは同じ業界や環境の中で技術を極める上で、

繰り返しの作業や鍛錬の過程で出会う人や
身の回りの変化の動きが鈍くなる時に起こる “時間軸による弊害” とワタシは解釈しています。

その後ワタシの視点が新たな「広い世界」に移動した時に
違和感を感じました。

各々の生きている時間軸が、
個人の視点や見ている世界に大きく影響されるとしても、

内面的な考え方や捉え方次第で、
自ら見ている世界のスケールを同じ空間や環境の中で変えることは可能なのではないのか。と。

もし今生きている世界を『狭い世界』として消極的に捉え、
その “最果て” を感じ取っているならば、

それはその世界において「極まった状態」
もしくは「飽きている」のいずれかとワタシは考えます。

前者の場合は極まった状態として新たな世界に向けて発信や貢献をすることができるでしょう。

後者の場合もその自覚があれば
自ら新たな道を切り開くことは可能です。

また別の視点では
「狭い世界だからこそあらゆる夢や希望は実現しやすい」
という “楽観的な解釈” も可能なため、
これら全て一概に言えることではありませんが、

今回の記事で記した
『世界』に対する見方や解釈と裏テーマの結論は、
ワタシが考える一つの視点に過ぎません。

もしナニカに対しての “迷い” や分岐に立たされた時の指標として参考になれば幸いです。

photo : 山道 (Rinrin Komori)


木森 林林(RINRIN KOMORI)







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