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結びの原理 by. 木森 林林

『結論』

結論とは
論じる上での結果を指す

その結果に至るまで
場合によっては多くの過程や工程が存在する

では現在目の前に広がる全てが
多くの段階を経た結論と結果の集合体なのか

決してそういうわけではない

未完成のモノは
"結び" とされる前の状態なのだろう

だが幾多の結びが紡がれ
結論や結果に至るのではないか

photo : おむすび (Rinrin Komori)


- 結びの原理 -


現代では属する環境により時間軸が早まり、
目標や目的を元に結果や結論を求める傾向にある。

その理由は外的要因がほとんどだが
各々の理想とする時間の中で多くの人がこのように考えるだろう。

「ワタシが思い描く方法や考え方で理想に近づく生き方ができれば」

しかし場合によっては以下のような価値観も存在する。

「結論から教えて欲しい」
「結末が知りたい」
「結果が全てだ」

これら全ては各々の価値観に依存する。

こうした先急ぐ流れの中で求める結果や結論、
"結末" までも欲する衝動に対して

ワタシは実生活で体感した時に疑問が生まれた。

「結果を得た先には何があるのか」

"結論" を先に示す理由は、
聞き手が途中の過程や工程をより論理的に理解するために必要なことは分かる。

"結末" もそれまでの軌跡や変化の意図を深く探求するために求めるのかもしれない。

"結果" は多くの段階を経て「果たしたモノ」を得るために求めるのだろう。

だが、
『その先』に残るモノや感じるモノも各々の価値観によって異なり、

場合によっては前述の視点とは真逆の考え方や生き方も存在するわけだ。

ではその対極な存在を仮に、
「価値観が合わない」と一刀両断して良いものなのか。

もし切り離すならば、

それは結びの紐が解ける、
もしくは切れる事を意味するのかもしれない。


- 結びの流れ -


この世界のモノゴトには "流れ" がある。

順位や優劣の意味ではなく
上流から下流へ動く物理法則のように、

この "流れ" を経て前述の結果や結論、結末に行き着くわけだ。

つまり時期早々に先のモノを欲するには
こうした『自然の摂理』にも目を向けなければならない。

山に流れる川が海へと流れる過程の中で、
海に流れ着いた水に異変があった場合

中流の過程や工程、
地形すらも理解していなければ

その異変の理由には辿り着くことができない。

本来の理想の循環を得るには下流に行き着く前に水に異変が無いように、途中の過程が重要である。

むしろそうした “異変が起きた地点で結果を知る” ならば、
原因の追求や本質を理解するにも困難な事態になる。

この異変を事前に知るために早々に状況を判断することは理に適っているかもしれないが、

結果や結末、結論を "知る側の意図" も明確にし、

欲する側が己の行動原理を内側に認知していなければならない。

これらはごく一般的に頭では理解していても、
実生活の中では盲点になりやすく

時期早々にモノゴトを考えてしまう場合は、
『本来の流れ』に身を任せながら共存することを意識すると

自ずと “意図して求めるモノ” ではないように考えることができる。


- 結び目 -


"結び" という繋がりは、
容易に途切れることはない。

より強く結束されたカタチは
主に左右対称の "結び目" を形成し、

相互のバランスから成り立っている。

自然界も現代社会でも結ばれたご縁は、
ナニカの偏りや片方の働きが理由で容易に解けることがある。

ここまで過去の経験からの視点で記したが、
ワタシは議論や主張をただ述べたいわけではない。

冒頭で記したような多くが望む理想は、

現代社会の中で全てを自然本意に任せることは困難な場面も多分にある。

しかし過去記事でも触れたが、

実生活においては各々の地点で機能する働きには役割があり、これらの働きを尊重し理解する事で円滑な循環が生まれるとワタシは考えている。
(※以下参照)

『縁結び』や『おむすび』など、
古くから "結び" という言葉には馴染みがある中で

本来 "結ばれたコト" で得られる結論や結末、結果を、
今一度視点を変え相互に理解することができれば

時期早々な意思や行動にもならず、
自然なカタチで得られるモノなのかもしれない。


- さいごに -


ここまで見てくださりありがとうございます。

今回はあらゆる場面で、結末や結論、結果といった一つの終わりや節目から遡り解釈する考え方があります。

これらはやりとりを円滑に進め、
より合理的な手段として用いられますが、

直接的なやりとり以上に情報共有や収集する手段でこの考え方が根付きつつあるように感じています。

現代の効率化や時間を進める速さは加速度的に変化し、
少しの言葉すらも取捨選択する場面があります。

日々の生活の中で
「なぜこのような結果になったのか」
と感じることがあれば、

その時点で “いつかの地点” が盲目的になっていたのかもしれません。

photo : さざれ石 (Rinrin Komori)


木森 林林(RINRIN KOMORI)

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