昔書いた小説をアーカイブ『誰も告白しない恋愛小説』

「切なすぎる刹那主義」(当時の投稿者コメント)
2019年に大学のサークルに寄稿したやつ、その2。お題は「言葉」と「トイレットペーパー」。トイレットペーパー?

 ◇◆◇◆◇

「会場では、故人が生前好きだった断末魔を流しています」

 ◇◆◇◆◇

「……夏瀬! 夏瀬ッ! 待て、戻ってこいッ……!」
 校舎の中に繋がる階段のドアを背後に、僕は吠える。
 ――夏瀬が振り返る。柵の向こうで、長い髪を風に躍らせている。僕は目を伏せる。そしてもう一度、夏瀬を、見据える。
「そんなことして何になるッ! 正気に戻れッ!」
 夏瀬、夏瀬。何度も名前を呼びながら、彼女に近付くために、歩を進める。名前を呼ぶ度に、夏瀬の姿が鮮明になってくる。
 屋上は空に近いから、真夏の日差しが地上よりも鋭く焦がすように背中に突き刺さり、じりじりと、あと数歩。
 柵を隔てて、表情がやっと見えるようになった、そんな距離。夏瀬はゆっくりと、口を開いた。
「ねえ、知ってる? ……『手紙』って、中国語ではトイレットペーパーって意味らしいよ」
それを最後の言葉にして、夏瀬は僕の視界から消え去った。
こんな時に言うのもなんだけれど、
 ――まったく意味がわからなかった。

  ◇◆◇◆◇

「彼女は最期に、何か言い遺していましたか?」
「『手紙』は中国語でトイレットペーパーという意味だ、と」
「……何が言いたいんですか、それ」
「僕に聞かないでください」

  ◇◆◇◆◇

 言葉なんて通じない。言葉を操るという能力に人間が人間たる所以を求める向きもあるみたいだけれど、しかし言葉なんていう実体を持たないものに自分の思考や意思疎通を全て託すというのは、綿飴の上に家を建てるような、覚束ない上に頼りない全権委任だ。海を越えれば、「斑」は「殺人鬼」で、「死」は「彼女」になる。たかだか地球の裏側に移り住むだけで、僕たちの意思疎通の共通認識はあまりに脆く朽ち果てる。
「わざわざ移り住むまでもないんだぜ、青年。動いてなくたって、地球の裏側には十二時間で辿り着いちまうんだからな」
「モノローグに反応しないでください。一人で考えるからmono-logueなんですよ」
黒板の前に立っていた彼女は、最前列の席に座っていた僕に話しかけてきたかと思うと、広辞苑を手元の教壇に置いて、目の前の教壇に軽々と飛び乗り、僕を見下ろしてきた。深い瞳が僕を吸い込もうと光る。だが残念ながら、僕は動かない。
「一人でいくら考えてたってモノにはならねえってことさ」
「それでも貴女と居るよりはマシですからね」
「嫌われたものだなあ」
 ぐるり、そのまま首を回して顔を離し、座り直す……それでも教壇の上なのだけれど。そもそも、その演出は必要なのか? 
「しかし、キミのその考え込む癖はよくない。実によくないぜ、纏ってるオーラがずっと陰気なんだよ」
「……月曜日ですからね」
 三連休の月曜日がハッピーマンデーなら、それ以外の月曜日はアンハッピーマンデーだ。さらに新学期早々、まだ夏休みの生活サイクルとの時差ボケも治っていない上に、部活の活動日のお蔭で狂人に会わなきゃいけないんだから、当然、表情も暗くなる。
 暗い暗い、ドンクライ。
「ま、言葉なんて通じないっていうのには同意するがな。だが、言葉にしていない思考ってのは、もっと通じないんだぜ?」
「貴女が言いますか、それを」
 他人の思考に干渉しておきながら。
他人の思考を鑑賞しておきながら。
 僕の突っ込みを読んだのか読んでいないのか、それを僕が読むことは叶わないのだけれど、とにかく彼女はそこで、クカカ、と、乾いた笑い声を零した。
「思考が通じないんだから、言葉が通じないのも当然のことだろう? 言葉ってのはそもそも一意に定まらないもんな……そうだな、例えば、俺が「お母さん」って言うのと、キミが「お母さん」って言うのじゃあ、その意味は全く違う。キミのお母さんは俺のお母さんじゃないんだからな。――まあ、キミが俺にプロポーズするって言うなら、話は別だがね?」
 そう言って、深い色の瞳孔をガン開きにしながら前のめりにぐぐいと僕のテリトリーに侵食し、至近距離まで接近してくる先輩。ここでドキドキでもすればラブコメ展開だが、どちらかというと捕食でもされるんじゃないかというドキドキの方が勝つな。
「まさか。そもそも、部長も僕のことが嫌いでしょう」
「そうでもないぜ、君みたいな陰気で口だけな奴、嫌いだったら無視しているところさ」
「その言い草がもう既に嫌ってそうですけどね」
 我らが文芸部の部長であるところの植生離音というこの女は、基本的に、何を言っているんだかわからない――何を考えているんだかわからない、狂人だ。
もちろん他人の考えていることなんかわからなくて当然なのだけれど、例えば、もう一人の先輩のほうは、何を考えているか非常に明快でわかりやすい。
「やっほー。いい会長が撮れたんだけど、見る?」
 がらがらと扉を開けて、女子生徒が現れた。胸元のリボンの色は、植生先輩と同じ緑色。つまり、二年生ってことになる。僕がそんな風に彼女の風体を確認していると、返事も待たずに甲高い声で台詞を続ける。
「あっ、やっぱり見せない! 会長は私だけのものだよ! この猫泥棒!」
 誰も猫は盗んでねえよ。
 そして会長はお前のものじゃねえよ。
 えーと、もう疲れてきたのだが、このように、この文芸部の三人目にして最後の部員であるところの須藤川先輩の考えることは、非常にわかりやすい。生徒会長のことしか考えていないのだから。ま、早い話が、いわゆるストーカーだ。
「相変わらず二人は仲いいね、いつもみたいに迂遠なトークを交わしていたのかな?」
「付き合ってあげてるだけですよ」
「そうそう、付き合って貰ってただけさ。そういう深春は……手元のカメラから察するに、また生徒会長の盗撮かい? しょっぴかれない程度にしてね、私は責任を負いたくないんだ」
 部長とは思えない発言ではあるが、そもそも誰も彼女のことを部長だとは思っていないのだった。
「まっかせといてよ、国家権力くらい撒いてみせるから」
衝突はするつもりなんだ。
 しかもそのうえで勝つつもりなんだ。
「こっちはトーク、深春はストーク、か。よくできてるぜ」
「よくできた人間? 照れちゃうなあ植生さん!」
 どちらかといえば、欲で出来た人間だろう。他人のことを盲目に追いかけて縋って生きているなんて、正気の沙汰じゃない。
 人間は一人で生きていくものだ。
 人という字は、人がひとりで仁王立ちをしている様子を象っています。
「できてないよ、深春は。会長をモノにできてないんだろ?」
 そこまで言うと、こちらをちらりと見て、部長は続ける。
「振り向いてくれない一人を追いかけ続けるその愚直さ、俺は嫌いじゃないけどね」
……僕は、手元の本に目線を落とす。
まったく、現実から逃げたいときにはこれに限る。人間と違って、本は向こうから一方的に語りかけてくれるだけで、コミュニケーションが必要ないというのだから、最高だ。通じるかどうか心配するまでもない。
――そんなんだからモテないんだぜ。
うるせえ。
 先輩の声が聞こえた気がして、心の中で毒づいた。

 ◇◆◇◆◇

「キミとかけて、穴の開いたおたまとときます」
「そのこころは?」
「どちらもすくえません」
「……」

 ◇◆◇◆◇

「恋って言うから愛に来た」
「……どうしたんだよ、気色が悪い」
 日は明けて、火曜日。昼休みに隣のクラスからやってきた本川という同級生は、弁当箱を僕の机に置くや否や、そう言い放った。古臭い女子中学生向けのポエムみたいなその台詞は、いくら恋愛慣れした好青年たる本川であれ、男子高校生が吐くには、些か、無邪気すぎるし浅すぎる。
「そういうお前は顔色が悪いけどな。……まあ、その青い精神ともども、春がやってくるんじゃねーか?」
 ヘラヘラと薄ら笑いを浮かべつつ、僕の腹部を拳で軽く殴打する本川。腹立たしい煽りだが、本川にとってはホームグラウンドである恋愛の話題なのだから仕方あるまい。僕は机の中から、心底うざったそうに(それはもう、心底!)可愛らしいハートマークの施された便箋を取り出す。僕とは縁遠いはずのこんなものが、朝学校に来たら、靴箱に入っていたのだ。
「そうそうそれそれ! ったくお前も隅に置けねえよなあ」
 僕の教室での立ち位置とは裏腹に、な。
「で、差出人はもう確認したのか?」
「……まだだよ。それに、確認するまでもないさ」
「へえ、心当たりがあるんだな」
「いいや、全く?」
 ここまで数秒。僕は本川に見せつけるように目の前に掲げて、表、裏と順番に宛名を確認する。僕の名前こそ――「来島くんへ」とこれも非常に可愛らしい丸文字で――書かれているけれど、これを一見しただけでは、誰が書いた手紙なのやらわかりそうもない。
 だが、別にそれでいい。そんな僕を見て、本川は心底訝しそうに(それはもう、心底!)眉を顰めた。
「僕にとっては誰だって一緒だからな」
「心がないのか、お前は」
「そこまで言われると心が痛むよ」
「幻肢痛じゃねえか」
 中身を確認すれば、誰から差し出された手紙なのかはすぐにわかるだろう。僕に恋文を出そうというような物好きだ、そもそもわけのわかる言語で書かれているかどうかも怪しいというものだが。まあ、それも些末なことだ。僕はきわめて乱雑に、机の上へとその便箋を落とした。
「そもそもこれが恋文だってことすら確定じゃないんだよ。僕はこれまでの人生で恋文なんて貰ったことがないから、イメージこそあれ、本物の恋文のことなんて何一つ知らないんだ。せいぜい貰うものといえば広告のダイレクトメールと果たし状くらいのものでね、僕の中では恋文なんてツチノコやビッグフットと何も変わらないんだ。これがそれだという確証なんてなにもない」
 はぁ、と嘆息している本川が目の前に見える。
「息をするように屁理屈を吐きやがって」
 本川は僕が非常に冷静に論を展開しているところに割って入り、閉口しつつも口を開いた。
「このハートマークが何よりの証拠だろうが」
 そう言いながら、その便箋へと手を伸ばし、自分の懐へ入れる――ことはなく、僕の方へとスライドさせて押しやってきた。それを受けて、僕はまた押し返して元の位置に戻す。
「ハートには傷付けるって意味もあるんだよ。やっぱり果たし状だったな」
「……」
 渋い顔で黙り込んでしまった。反論が思いつかなくなったようだ。これだからノリで生きている感情派の恋愛体質は。口には出さないけれど、心中で非難を浴びせてみる。
はい論破!
――したところで、意味などないのだけれど。日常的な会話においては論破など必要ない……むしろ逆効果だ。会話っていうものは、その会話自体に意味があるらしい。正しさを他人に突き刺したって関係を傷つけるばかりで、関係は築けない。一般的な人間のコミュニケーションにおいては、なんなら言葉の内容は二の次だとすら聞いたことがある。会話をすることにこそ意味があり、感情や時間を共有することによって、自分たちが敵ではなく仲間であることを確認するのだという。
個人的に、この説はまったく間違っていると思う。
だって、それなら全く意味をなさない言葉だけの会話を繰り返している僕と植生先輩の会話こそが理想的な会話だということになり、僕と植生先輩は仲間だということになる。常識的に考えて、そんなわけがないだろう。
 本川の行動は、まっこと僕の常識を外れている。しかし僕にとっての常識を外れているからこそ、彼はコミュニケーションの能力に長け、誰とでもその心を交わすことができる。
ゆえに彼女を切らしたことがないらしいのだが、そもそも、彼女というものは切らさないように次のストックの準備をしておくものではないはずだ。
――トイレットペーパーじゃないんだから。
それを成り立たせるためには、彼女と別れ話をする前に次の彼女と付き合い始めていなくてはならない。そんなの倫理的に正しいわけがないだろう。しかしそれでも、僕と彼の生きざまならば、彼の方が正しいのだろう。友人も多く弁舌も立ち、誰とでも明るく接する人気者だ。八方美人と罵ることもできようが、八方塞がりな僕よりはよほどマシといったところか。
八方美人になるためには、少なくとも八人の友達が必要だ。
はて、どうしてそんな奴が僕とつるんでいるんだろうな。
わかりたくもない。わかっているが、わかりたくはない。
こいつはただ、僕に同情しているだけだ。だからわざわざ、好きでもない僕の言葉遊びに付き合っている。そんなこと、僕ですら手に取るようにわかるさ。
「……言葉を逆手に取る前に、中身を手に取ってやれよ」
「そこまで言うなら、本川が読めばいいじゃないか。これが本当に恋文なら、僕なんかより本川が応じてやった方が喜ぶだろ」
 僕は再び机の上に置かれた便箋に手を伸ばして、本川の方へと滑らせる。しかし本川は僕のほうを見据えて、それをまたこちらへと滑らせてくる。送信と返信を繰り返すその手紙は、しかしまだ封を切られることはないのだった。
「お前を気に入る奴は俺を気に入らないだろ」
 まあ、それは確かに、と思った。
「だから、むしろ、さ」
 ここで、本川は少しだけ言い淀む。
「そろそろ、お前も誰かを気に入ってやれよ」
「おいおい、人を人でなしみたいに言わないでくれよ。僕だって人のことを気に入ることくらいあるさ」
「雪奈以外に、な」
 雪奈。その音を聞いた刹那、僕を囲む空気はがらりと冷たく変わって、僕自身もぴくりと肩を竦めたまま、動けなくなる。
「これはお前のことを思って言うお節介だが……来島、お前はもう、雪奈から解放されていいんだよ」
「……」
 本川からすれば、そうなんだろうな、と思った。
 お前はあの時、結局、屋上に来なかったな。
 夏瀬にとって、お前こそ、来てほしかった相手のはずなのに。
 僕じゃなくて、お前なら、夏瀬を救えたかもしれないんだ。
 夏瀬の恋人だった、お前なら。
 でも僕はそれを口には出さない。この心情は、言葉にすれば簡単に通じるのがわかっているから。
 口に出さない優しさもあるし、封を切らない優しさもある。ハートの意味を取り違えたのは恋ならぬ故意だが、しかし、恋そのものがそもそも他人も自分もともに傷つける行為であることもまた、事実だろう。だから、僕の行動は正しい。誰も傷つきたくなんかないはずだ。
 誰も、死にたくなんかなかったはずだ。
「玲くーん!」
 仄暗い空気を切り裂くように、入口の方から女の子の声が聞こえた。スカートを短く折った、いかにもクラスの真ん中に居そうな女の子だ。僕は彼女が誰なのか知らないが、彼女が誰の彼女なのかは容易に想像がついた。
「おっと、ラブコールだ。彼女は彼女だからな、もちろん最優先だ……しかし、もうそんな時間か。そろそろお前の弁当を開放してもいい時だな。つーか、急がないと間に合わなくなるぜ」
 お前も一口も食ってないけどな。僕がそう突っ込む前に、彼は自分の弁当をひょいと持ち上げて、勢いよく席を立ってしまっていた。僕は、そんな彼を見上げる。肩越しに教室の時計を確認すると、確かに、すでに五限までは残り五分を切っていた。
席に座った僕を見下ろしながら、本川は白く綺麗に並んだ歯を見せて笑って、腹立たしいほど爽やかに、言う。
「じゃーな、来島。あっ、そうだ。彼女がエロい写真を送ってきたら、俺にも共有してくれよな!」
それだけ言い残すと、そのまま僕を振り返ることすらせず、するりと人集りを抜けて教室を出ていってしまった。
 ……こ、こいつ。
せっかくのシリアスを台無しにしていきやがった。

 ◇◆◇◆◇

「お前、恋人にもそんな態度なのか? それじゃ続かないだろ」
「居たことがねぇんだよ」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……ごめ」
「もういい。もう口を開くな」

 ◇◆◇◆◇

 水曜日。再び部室(とは名ばかりの、ただの埃っぽい空き教室だ。二年生の教室を通り過ぎたところにある部屋なのだが、昔はここまでクラスがあったらしい。諸行無常を感じる)に訪れると、珍しいことに須藤川先輩だけが座っていた。教室が一番近いところにあることも相まって、普段は植生先輩が一番乗りでやってくるのだが……
「植生先輩は居ないんですね」
 何の気なしに僕がそう言うと、須藤川先輩は少しだけ笑った。
「ほう、やっぱり来島くんは植生さんが好きなんだね!」
「勘弁してくださいよ、警戒しているだけです」
「はいはい、私は物分かりのいい先輩なので、そういうことにしてあげよう。えっと、植生さんはねー、夏休みの宿題を提出してなくて、職員室に呼び出されてる最中なんだ!」
 あのひと、あのキャラで素行不良なのかよ。だいたいあの手の先輩は成績優良なもんだろ。
 それに比べて須藤川先輩は秀才で有名だ。まあ、それよりも生徒会長に関しての奇行の数々のほうが有名なのだけれど……二足の草鞋、と、呼んでいいのかは別として。
彼女は一応、恋愛に生きている先達ってやつになる。まあ、明らかに危ない行為を繰り返しているからどこまで参考にしていいかはわからないのだけれど、少なくとも、僕よりも圧倒的に恋愛への素養というか、経験値があるだろうことは確かだ。
 逆向きに記述すれば、僕は彼女以下の恋愛経験値しかないことになる。マジかよ。
「ところで、今日、ラブレターってやつを戴きましてね」
「……らぶれたぁ?」
 と、素っ頓狂な声を上げる須藤川先輩。その甲高くて耳につく声を聴きながら、彼女の座っている椅子の前の席につき、椅子を後ろ向きにひっくり返す。いつも素っ頓狂だが、この四音節はそれに輪をかけて素っ頓狂だった。そしてそのままの調子で、「いまどき?」と続けて、一瞬だけ手元のスマートフォンから顔を上げてこちらを見遣ったものの、しかしすぐに視線を戻してしまった。まあ、僕も概ね、同じような感想だ。
「しっかし物好きだね、このデジタルネイティブの時代に恋文とは、趣深くて悪くないと思うよ」
「だが、作法がなってないでしょう。差出人の名前だって書いてないんですから、怪しいことこの上ない」
「それを来島くんが言うかい? 送ったことも無いくせにさ」
 まあ、確かに、僕は、好きな人に気持ちを伝えたことなんて、一度もないけれど。
「どうしてそれを知っているんですか」
「知ってはないよ。察しただけ」
「より悪質だ」
 それは、僕にとって、そんな行為を行うほど「好きな人」なんていう存在がいないからだ。そんな行為を行うほど好き者じゃないからだ。
「それくらい、見ればわかるよ。言わなくてもわかる。来島くん、君は自分のことをわかりにくい人間だと勘違いしているけれど、君ほどわかりやすい人間もいないよ。たぶん、君が君自身のことをろくにわかっていないだけだと思うなぁ」
 須藤川先輩のアプローチでは誰だって振り向いてくれないことは僕でもわかり切っているのだけれど。学校から帰ったら家の前で先に待機しているとか、勝手に隠し撮りした写真で個展を開くとか。肖像権の侵害だということでお叱りを受けたのだが、本人は「公益性がある」の一点張りだったらしい。
 振り返ってみても頭おかしいな、こいつ。
 文芸部にはこんなやつしかいないのか。やっぱり、インドアで創作の世界に傾倒するような奴にはまともな奴がいない。みんなもっと外に出てサッカーをするべきだ。体を動かして走ったり飛んだり跳ねたりしていればこそ、まっすぐな精神も育とうというものだ。一緒にサッカーをする友達が二十一人必要だが、まともに生きていれば友達の二十一人くらい居るだろう。
「差出人が書いてないっていうけど、中には書いてあるんだと思うよ。誰からなのか本当にわからなければ、誰だって来てくれないもの。まずは中身を読んでから、だよ」
「読んだら」
 僕は返答する。須藤川先輩は、特にこちらに興味があるような視線を向けるでもなく、自分のスマートフォンで何かをしきりに確認しているようだった。
「読んだら、返答しなきゃいけないじゃないですか。既読無視は万死に値する大罪なんですから」
「未読無視だって似たようなものだと思うけどね。生徒会長だって、最初は返信してくれてたのに、ここ五千件くらいには既読すらつかなくなっちゃったんだぁ」
 ……既読をつけない相手に五千件もメッセージを送っているのか、こいつは。迷惑メールどころではないが、しかし、それでも向こうにブロックされているという発想に至らないのは圧倒的な希望的観測と言わざるを得ない。
 希望的観測ができることは一つの才能だ。幸福は突き詰めたところ主観でしかないし、その人間に希望が存在していれば、客観的事実がどうあれ、その人間には希望が存在していることになる。
 希望のクオリア。
 だがクオリアに希望があるかどうかといえば別の話で、この世界が結局のところおしなべて主観でしかないのだとしたら、何の意思も共有できないことになる。でも実際、共有なんてできてなくても当然なんだよな。人間が自分の心をうまく表現して他人と心を通わせることができるのなら、戦争なんて起こらないし、カップルはみんな喜色満面だ。
 いや、逆か。自分の考えていることが相手にわからないからこそ、カップルは喜色満面なのかもしれない。
 僕は窓の外を見るでもなく、しかし須藤川先輩と目線を合わせることもなかった。須藤川先輩も、スマートフォンで何かを確認しては素早く何かを打ち込んで、という動作を繰り返すばかりで、こちらに目もくれないどころか、話を聞いているかも怪しいといった様子だった。何をしているのかは、今更聞くまでもないだろう。生徒会長を想い、手を合わせ、無事を祈る。
「レスポンスのないメッセージを送る理由が、いったいどこにあるっていうんですか。伝わらない想いをぶつけるのは、石を投げるのと同じ、暴力じゃないんですか」
「そうだよ?」
 僕は柄にもなく、やや強い語調で疑問を投げつけた。どうしてそんな言葉が出てきてしまったのかはわからないが、きっと、須藤川先輩に追いかけまわされて迷惑している生徒会長に想いを馳せたからであろう。しかし須藤川先輩のほうはといえば、眉一つ動かさない冷静な態度であった。
「実際、そうなんだと思うよ。石を投げてるようなものって言って、概ね間違いない。それをたまたま相手がナイスキャッチしてくれるかどうかでしかないんだよ。愛だとか呼ばれるものって、そもそもがすごく独り善がりなものだと思う」
 ……ストーカーのくせに何を恰好つけてるんだ、こいつは。
「だから別に、答えが返ってくる必要なんか、全くないんだよ」
 ……。
 一瞬、響きそうになったけど、ストーカー名言botと化してしまったこいつの話を真に受けても、本当にいいのだろうか。
「だって石なんだからさ。そんなの、相手にぶつからないほうがいいに決まってるじゃない。相手の顔なんかに消えない傷を残すよりは、そっちのほうがよほどマシなんだと思うよっ」
 ……まあ、彼女としては、実際に、そういう気持ちなんだろう。自覚はあるようだ。相思相愛になんてならなくていい。そういうつもりで、生徒会長を追いかけているのだろう。
 ただ、間違いなく、その石は生徒会長に直撃して傷を残していると思うけれど。
そういうところからも目を背けておかねば希望は残るまい。
「暴力になるかもしれない。そんな恐怖に負けるような覚悟で、恋愛ができると思うなよ……と、いうところかな?」
 向こうも、一瞬、らしくない口調になって、こちらに鋭い眼光を突き刺した。彼女の眼鏡越しに見える瞳は強くまっすぐで、なるほど彼女はそういう覚悟で自分の思いと向き合っているのだと察した。
 ただ、その覚悟をした結果は、ストーカーなんだな。
「だからさ、来島くん。一度くらい、返ってこなくてもいいから、独善的に、投げつけてみなよ。自分の思いを」
「わかりました。ストーカーとかキモいっすね須藤川先輩」
「私にじゃないよぉ!」

 ◇◆◇◆◇

「違法だけど愛さえあれば問題ないよねっ!」

 ◇◆◇◆◇

 僕は結局、そのラブレターを開かなかったし、そのまま、家に帰ってすぐ、自室のゴミ箱にそいつを投げ込んだ。誰かが体育館裏で待ちぼうけていたのかもしれないけれど、そんなことは僕の知ったことではない。
 僕は君のことなんて何も知らないし、わからない。どうして僕にこんな石を投げつけてきたのだろうか。その思いはきっと一生通じないだろう。僕がそれを受け取る気がないから。
 僕は無神経と呼ばれているし、運動神経も無いんだ。
 ただ、まあ、受け取る相手のいない思いを書き殴ることになったって点においては、僕と君は似たようなものになるだろう。勝手に共感して、勝手に同情するよ。
 まあ、その思いも、君には届かないのだけれど……そんな風に、益体もないモノローグを垂れ流しながら、木曜日の昼休み、僕は自分の席で、真新しい便箋を取り出した。
 クラスメイトのたくさんいる教室でこんなものを書いていれば注目されそうなものだが、僕は元からクラスの中にいないようなものだ。僕には、本川とは違って、呼んでくれる誰かなど居ないのである。
 言ってて悲しくなってきた。
 相手がそれを読まないことなんてわかりきっているのに、そんな悲しみも含めて、自分の中の汚れを、次から次へとその紙に背負わせる。そして、澱を吐き出すほど、紙は汚れていく。
なるほど、この行為ははっきりと、排泄だった。
来島無人より。裏面に名前を記して、その上には――
「……なに書いてんの、来島」
 ――いつから立っていたのか、背後から本川の声がして。
 僕は、一か月振りの伏線を回収する。

「なあ、知ってるか?」

 ◇◆◇◆◇

「貰いすぎたラブレターはそうやって有効活用すればいいのか! なるほどな!」
「よーし今から僕と一緒に屋上に行こうじゃないか、な?」

 ◇◆◇◆◇