試論_性的対象化・性的モノ化・性的消費の提唱者と批判者について、そしてBLは性的対象化か否か。
試論_性的対象化・性的モノ化・性的消費の提唱者と批判者について、そしてBLは性的対象化か否か。
エッセイ。読む価値は低そう。
登場人物
提唱者:性的対象化・性的モノ化(objectification)、性的消費の提唱者
批判者:性的対象化・性的モノ化(objectification)、性的消費の批判者
第1章 概念整理
性的対象化(objectification)に関しては、提唱者も批判者も好きなように定義して使うので、もはや共通理解の及ぶ定義も存在しないし、留保なしに使うのも混乱のもとに思える。だから、相手の意を汲んで読んであげるしかなく、もはや専門用語(term)の機能を期待するのはやめた方が良いだろう。性的消費もだいたい同じだ。なんとなくの雰囲気で使うしかない。あるいは議論の場毎に定義するのも手だろう。
性的対象化・モノ化(objectification)についての最大の批判は、とりわけ、非実在人物に対する性的対象化・性的消費[※1]の何がいけないのか?ということだが、この批判にしっかりと提唱者側は答えるべきだろう。
いけない点(非実在人物の性的対象化の問題点)は以下二点に収斂させるべきだろう(※※1)(二点を両立させる立場とそうでない立場があるだろう)。
①消費者の認知の歪みを生じさせ、それが実在人物への被害につながること
②単なる不快感
———①消費者の認知の歪みを生じさせ、それが実在人物への被害につながること
①はマッキノン以来、専門家の中では、語られているが、しかし、最近の性的対象化を使った「萌え絵」叩き等の言説のなかで、この視点が抜けているように思う。思うに、objectificationの理論も学ばずに、単なる不快感のみで叩いている人が多いのではなかろうか。だからなまじっか素人が使う「性的モノ化」という語が独り歩きして、怨嗟の対象となる。それは当然だろう。いきなり、自分の趣味をよくわからん語で説明なしに非難されれば、怒りが湧くものである。
ところで、「消費者の認知の歪みを生じさせ、それが実在人物への被害につながること」の可能性を説明したとして、批判者側は納得するだろうか。これも疑問である。ただ、納得しなかったとしてもそこからは、おそらく「実際に実在人物への被害につながるのか否か」という論争に発展できるだろう。こちらの方が意義のある論争だ。統計等量的データも議論に使える段階になるかもしれない。
———②単なる不快感
二つ目は、非実在人物の性的対象化に対する批判は単なる不快感の表明であるという理解である[※2]。ここで重要なのは、「単なる不快感の表明」も正当な表明と認めるべきであることである。
そして、他方、単なる不快感の表明であることを前提として、提唱者も批判者も真摯に議論すればよいのである。提唱者の側は「不快だからやめろ」といえばよいし、批判者は「人の趣味に口出しするな」といえばよいのである。そちらの方が論点が明確である。直截に、表現の自由やゾーニングについて語り合えばよい。ただ、その際に、提唱者は、その根拠が「不快感」であることを忘れてはならない。いや、堂々と「不快感が根拠だ」といえばよいのである。よく知りもしない用語で煙に巻くのはやめよ。単なる不快感であっても、平穏な生活を脅かすものとして———法益侵害として———理論立てて論じるくらいの気概を持て。
第2章 BLは性的消費か
第1節——————「性的モノ化」に該当すること=悪?
BLは性的消費か否かとは。これも思えば素頓狂な問いにも思える。
これはBLの定義によるだろう。これが単に、男性同士の性愛の表象(創作物等の表現物や実在人物の関係性の表現)であるとすると、BLが性的消費か否かは個々の事例によって違うとしかいえないだろう。
異性愛の表象が性的モノ化かどうかというのが、個々の事例によって違うとしかいえないのと同じである。そして、その個別事例で機能する判断基準は第1章の①②になっているだろう。①実在人物への被害の蓋然性、②不快感の程度が大きければ、それは「性的モノ化」といわれるだろう(①②どちらかの要素で足りることも、両要素の程度がともに大きいこともあるだろう)。
以上の議論では、「性的モノ化」に該当すること=悪、という等式が前提となっている。
しかし、それとは異なった前提もとれる。すなわち、「良い性的モノ化」と「悪い性的モノ化」がある、あるいは「許容できる性的モノ化」と「許容できない性的モノ化」があるという風に整理する方途である。
第2節——————「良い性的モノ化」と「悪い性的モノ化」
全てのBLは性的消費であるというのなら、全ての異性愛恋愛小説は性的消費というべきであろう。そういう用語の使い方もあり得るかもしれない。その場合おそらく提唱者は「性的消費で何が悪いのだ」というだろう。
いや、実際、そういうことなのだ。性的消費、性的モノ化、性的対象化(objectification)、なんでもいいが、それらに該当するだけで、その対象物の善悪が決まるわけではないのだ。
重要なのは、程度問題の認識であって、要するに、許容できる性的消費と、許容できない性的消費のグラデーションを認識することである。
性的モノ化(objectification)の提唱者が、全ての性愛表現を規制せよといっているわけではなかろうし、そんな意見は無視されるだろう。
だから、性的モノ化(objectification)の提唱者は、非難されるべき性的消費と、許容すべき性的消費を、意識的あるいは無意識的に分別し、前者にのみ攻撃しているのだ。そして、それは合理的行動である。そう解釈するほかにない。
そして提唱者らが攻撃するのは、「非難されるべき性的モノ化」だと、彼彼女らが認識したもののみである。そしてその基準は、第1章の①②になっているものとして解釈してあげるのがよい。提唱者がそう言葉にしなかったとしてもだ。そうでないと対話が成立しない。
いや批判者の立場からすれば、対話が成立しなくてもよいのかもしれない。しかし、放っておくと、知らないうちに、法案が出来上がっていたりするかもしれないから、放っておくのは君のためにもならないだろう。
そして、提唱者の方は、もっと言葉を尽くすべきだ。相手に理解してもらおうという姿勢が足りない。自分もよく考えていない理論を振りまき、よく知らない用語で煙に巻くのはよせ。
そして、このような議論に興味を持たない、BL愛好家よ、あるいは萌え絵愛好家よ。そしてハイアートが好きなスノッブたちよ。それでよいとも思う。自分の好きなものを愛するのだ。ただ、他の趣味をもつ人々の立場を想像しろ。軽蔑するな。
結論としては良いBLも悪いBLもあるという当然のことだ。良い萌え絵も悪い萌え絵もあるのと同じだろう。どんな萌え絵擁護者でも、擁護する気にならないあるいは萌え絵と呼ぶ気にもならない表現は、twitterで目に入ったりするだろう。BLも同じだ。プラトニックなものもあれば、それこそ尊厳を踏み躙るものもある。
本章の最初で、BLの定義によるだろう、といったが、つまり、BLを「男性同士の性愛の表象」と定義すれば、当然個別判断をするしかなくなるだろうし、他方、BLを「男性同士が卑猥に絡むポルノ」と定義すれば、それは基本的に性的モノ化とよばれてその上で個別判断されるだろうし、「男性同士が卑猥に絡む、男性の尊厳を踏み躙るもの」と定義されればそれは須く「悪い性的モノ化」と判断されるだろう。
こういう定義の構造があることは、理解されずに、生産性のない議論が繰り返される。
第3章 最後に
批判者たちよ。男がするのが性的モノ化・性的対象化(objectification)・性的消費であって、女がその行為者になることはない、などという提唱者が君の前にいれば、それは無視すればよいだろう。そんな者はまともな提唱者ではないから、そんな者を藁人形にして論破したとて、なんの意味もない。そして、相手の気持ちを汲み取るのだ。相手は言葉足らずで物知らずであろう。しかし、揚げ足をとってなんになるというのだ。
提唱者たちよ。君たちがバックラッシュを受けていると思っているのは、君たちの攻撃の仕方に問題があったからだ。よくわからない理論で、よく知りもしない用語で煙に撒こうとするからだ。あるいは、真摯に言葉を尽くしている人もいるだろう。その人はその努力を続けなさい。言葉を尽くして、そして、相手の立場になって考えなさい。相手の理解する言葉で話しなさい。
(20250116_16:30)<<<<アファーマティブアクション(AA)巡る議論など、ジェンダー論フェミニズムは、やっていても意味がないような虚しい気持ちになってくる。そもそもAAが正しいかどうかなどは確定的に定まるわけではなく、例えば明日の議論で国民意識がどう傾くかというような不確定な要素によって、その方策の当不当が流動的に変化するものである。いわば、その方策の正しさを検証しているように見える議論そのものが、アジテーションとして条件をどんどん変えていってしまうという複雑な議論の構造になっている。他の論争、例えば風呂トイレ問題もそうだ。ジェンダー論やフェミニズムが社会意識についての議論であることから、それは当然にも思える。東浩紀が『訂正可能性の哲学』で言ったように、斯様なトピックについては、不断の議論が行われ、互いに訂正し合っていくのが正しい対処であろうし、逆に言えばそれしか対処のしようがない。したがって喧騒としての議論をすること自体は歓迎されるべきことなのだが、しかし、「私」の時間をこんなことに使っていていいのだろうかという疑問はおさまらない。しかし、ジェンダー論フェミニズムというのは、体に悪いファストフードのようなもので、悪いと分かっていながらもなかなか癖になってやめられないところがある。劣情が刺激されたり、エキサイティングで楽しいのだろう。ただ、もうこの終わらない旅に付き合っていくのはやめた方がいいかもしれない。少なくとも、早い段階である程度この底なし沼に触れられたことは良かったのだろう。ジェンダー的な話題にはついていけるようにはなったし、理論的なことも頭に入っていなければ、何が議論されているのかも理解できないであろうから。しかし、もっと距離をとった方がいいかもしれない。もっと有意義な時間の使い方があるように思う。これを続けても何にもならないような気がする。これからは意識的に距離をとろう。(引用:「Affirmative Action, Radical feminism, Population | blog rin life」https://blog-rin-life.com/affirmative-action-radical-feminism-population/)>>>>
脚注
[※1] 非実在人物に性的モノ化という用語を使うな、という主張もある。その主張には理解するところはあるものの、しかし、「非実在人物が性的モノ化されている」という発言の発言者の意を汲んで、「抽象的な女性(人類の全女性)がここで性的モノ化されている」あるいは「ほら、またここで我々女性の一部が(たとえそれが記号だとしても) 性的モノ化されている」という意味で発言しているのだと理解すれば、そこまで不適切な用法には思えない。もはやこの概念混乱の状況をきれいに統制できるようにもあまり思えない。また、非対人性愛のアイデアについては、それが実在人物に害を与えないのならその人の権利として自由にすればよいが、そうではない場合があると認識される限り、あまり機能しないアイデアだろう。プライベートな空間で非対人性愛を営むのは他人に害を加えないが、インターネット上でのイメージ頒布は害を与えると見られる可能性がある。害を与える限りで権利が制約されるというのは、幼児性愛と同様である。たしかに、そのような嗜好の人々の権利性に、ある種の盲目の人々の目を開かせるという意味はあるのかもしれないが(「ネット界隈のフェミニストとそのアンチのための用語集(β版)」https://www.anlyznews.com/2023/09/feminist-glossary.html、「二次元美少女の性的表現を「女性(や子ども)の性的モノ化」と非難することの何が問題なのか - 境界線の虹鱒」https://mtwrmtwr.hatenablog.com/entry/2023/02/25/195000)。
[※2] 「宇崎ちゃん」や「温泉むすめ」を広告として起用するのは、「性差別・性搾取・性的対象化」なのか、またそれは倫理的に悪なのか。 | blog rin life https://blog-rin-life.com/%E3%80%8C%E5%AE%87%E5%B4%8E%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%80%8D%E3%82%84%E3%80%8C%E6%B8%A9%E6%B3%89%E3%82%80%E3%81%99%E3%82%81%E3%80%8D%E3%82%92%E5%BA%83%E5%91%8A%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E8%B5%B7/
※※1 根拠として抽象的な倫理的悪性を解くもの等他にもあろうが、それが伝わるだろうか。共有できるだろうか。