海へ還るか、なれの果てか。
25年前に感じたおそろしさは、視界に入ってきた時の僕の感受性が強すぎたからかもしれない。大きな場所で、こうなるのは嫌だ、と24歳の時に感じた。ハッキリ言えない場所だけど。
神様にも仏様にも、自分の中の軸を自分からずらさないと、人に対する祈りは届かないんだということが分かりました。
自分本位。
自分がああなりたいこうなりたい。分かるけど、今はほぼそんなこと考えていない。日々起こるイヤなことが小さければ小さいほどいいなと思ったり、いつもの朝からのイライラが早く収まればいいなとか、プラスが増えることなんて願う暇がないくらい、マイナスの小ささを祈ってる。1日終わればクタクタかも。
プラスとマイナス。
自然の摂理とかよく言われるけど、1人では表せないことだと思ってる。光と陰、対でないと引き起こせないことの方が多い気がする。つまり対でないと気は流れないような。願いも届かないような。光も陰も、向いてる方向は同じじゃないといけないような。解らないけど、予想かな。
掌。
勝手に人の印象を決められるこの世の中で信用できるのは目の前のリアル。SNSでイメージするのはとても危険だとわかっているからこそ、感情の振れ幅を持ってはいけないなと。ま、それを逆手に取る時もあるんだけどね。
自分で投げたものを自分で受け止めることはできるかもだけど、じゃその自分を受け止めるのは?という部分。僕は受け皿があるのでいろいろ発言します。もちろん言わないことの方が多いけど。
帰るところがあるから、旅をしたくなる。
五体満足と同じくらい、帰るところがあるのはいいことかも。他にもあるけど、そういうことを集めると地味で目立たなくても金なくてもいいなって思える。
ここはまだまだ通過点。24歳の頃に見た恐怖からは避けられる方向を向いてると思う。先のことを考えるのと、後のことを考えるのとはぜんぜん違う。
さ、僕はどっちを考えているのか。
太陽に聞いてみて。
おしまい。
ありがとうございました。
ポテチん。