見出し画像

ケアレスミスと会社経営、そしてAI

最近、生徒を見ているとケアレスミスが多い。読み飛ばし、読み間違いも多い。元からケアレスミスが多い人間が多かったのか、最近増えてしまったのか、それはよく分からないが、多い。
過去分詞「chosen」を「choosen」といつも書く子に関して毎回間違っているよ、と指摘する。オンパレードで繰り広げられる綴り間違いを「これは勉強が苦手とか得意とかいう話ではないよ。せっかく勉強して来てくれてるのに、テストでバツがついてしまうのは◯◯さんが一番損するじゃない」とたしなめる。しかし、どうも、私は注意していて腑におちないのである。

それは、「正確性」を心のどこかで軽視している自分がいるからだ。そもそも「chosen」を「choosen」と書いたところで読めるし分からんでもない。なんでバツつけるねん!子どもの頃、指摘され、何度つまらない気持ちになったことか。大人になった現在も、毎日どれだけのドジをかましていることか。自分が様々なことを如何にザックリ・ボヤッと認知してることをミスに遭遇した際、いつも痛感するのである。
 しかも、天動説は地動説に変わっていったじゃないか。その時の時代の空気や発展で、イデオロギーや理論さえ、正しさは書き換えることが可能なことだってあるのである。正確性は、書き換え可能な性格を持つ。

 色々と考えたのち、苦肉の策で、「正しさ」というのは「現在地点での丁度良い落とし所」ということなのかなと思う。こと、テストにおいては。「全員を採点する時に、なんとなく分かってるのは知ってるけど、オフィシャルな落とし所にアウトプットがなかったのでバツにさせてもらいますよ」という具合だ。結局、テストというのは管理形態の一つだし、世界との距離を測る装置の一つとも言えなくない。
 それが厳しすぎると言われれば、そうとも思うが、大人になると、厳格な基準がとっぱらわれて、自ら、丁度いい場所、丁度いい距離感を測ることがいつも出てくる。仕事と子育てのバランス、嫌いな人との付き合い方、仲の良い友達との関係でさえもだ。テストは、基準を設けて、その練習を用意する場所と捉えたらいいのかもな……。そう解釈することもできなくはないと思った。

 正しさを自分なりに定義したが、もう一度問いたい。正しさは必要なのか?

 正しさの萎縮が進んでいる、と私は感じる。皆、手順を踏むことを投げ出すし、エスタブリッシュされた、精緻な技法や細工を必要とするようなコンテンツはどんどん廃れている。伝統工芸・芸能とか研究者とか、ルールが多くて口うるさい人間、参入障壁高い娯楽、嫌いでしょ?AIに任せりゃいいじゃん。所持金残高の計算もPayPayがしてくれるでしょ?ざっくり分かった上でオペレートしていけばいいじゃん。
 子どもに何度ケアレスミスのことを諭しても、「自分は分かってる/理解してる、から不正確なことはさして重要でもない、次いこ。」という雰囲気が教室の床に蔓延する。だから指摘してもなかなか、そこに意識を「自分で」もっていけない。そして親と「ケアレスミスが多い」という言葉の応酬が延々と続く。
 輪をかけるようにテストや勉強の外に出ると、正確さよりも、行動「量」と「速さ」が評価され、個のオペレートが重視されることが多くなっていく。Instagramがまさに典型だと思う。

 やる気と行動力、個人のオペレートが並外れた生粋の双極性障害、生粋のADHDな自分にとってはかなり好都合な時代のように見える。ADHDは管理職(指示を出すという意味で)が向いてると、よく言われる。しかも、ADHD気質がみんなうっすらとあるわけだし、自分の人生は自分が主役と嫌ほど刷り込まれて育った私たち全員にとっても、好都合のように見える。でも本当にそうなのだろうか?

 突然で申し訳ないが、私が将来、会社をやるということを考えた時に、company(仲間)が必要だといつも痛感するし、自分がまず真っ先に求める人材は、「正確さのある人」「厳格な人」である。
 今、個人で活動している作家さんというのは、SNSで広報をし利益計算、店舗へ下ろすのも店頭に立つのも一人で全てやっている人もいる。コストを抑えるメリットがある一方で、利益を増やすことに限界が見えてくる。それで余裕がなくなり、生活や仕事がめちゃくちゃになり、鬱になる人を私はたくさん見てきた。私には、誰か手伝ってくれる人がすごく必要だと感じている。
 もう一つ、やる気と行動力がみなぎり、自分で筋道を叩き出せるのが速い人間は、熱量や持続力にムラが多いからである。その熱量のムラが、あてずっぽうな勘と大胆さに繋がり、借金をし過ぎてしまったり、逸脱行動やエラーの連発を起こす。そのエラーに一つ一つぶつかっていると、会社どころか、自分の生活も人間関係もままならなくなることを私は今まで、嫌ほど味わってきた。
 そんな時に、ミスを修正してくれたり、その判断は先走ってないか、大丈夫なのか、自分にとって耳の痛いことを問いかけてくれる人がいるのなら即、一緒にやりたい。それが組織の重さに繋がろうが、リスクを承知の上で経営したい。

 だから、個の時代により需要が高まるのは、実は「正確性」のある人間の方だと私は思う。「熱量」とか「やる気」だけ、「なんとなく分かってる」というのはあまりにも脆い。行きすぎると妄想に繋がっていく。
 子どもも、せっかく勉強をしようと思い机に座った所までは良かったが、問題の始めの段階でケアレスミスをすると、後半でどんどん計算が合わなくなり、やる気がなくなっていく。そして投げ出してしまう。自分は勉強が苦手、という勘違いのサイクルに陥る。スポーツもそうだと思う。サッカーで、最初から全力で走り回る選手がどこにいるだろうか。落ち着きを持って、精神を統一し、淡々と世界と接続、持続していく方が私からすれば難しいのである。

 AIがミスを修正してくれる、正確な文を作ってくれる。そうだ。確かにそうだ。もう精緻な計算力、精緻な文構成能力、さほど必要なくなるのかもしれない。でも、家族という小さな集団にせよ、友達にせよ、会社にせよ、人間が集まった時、社会と接続する時、エモーショナルなやりとりでさえ、冷静沈着さは場の空気に、いつも必要なのである。

 だから、さほど時代が変わったとて、求められるスキル、コアになる能力は変わらない気がしているし、むしろ正確性にこだわり続けれる人の方が希少性が高くなる気がする。思い込みが激しく、自分が主人公であり、インフルエンサー然とした大雑把な人間の方が多いからだ。

 正確に何かできる人は貴重なのでどんどんそれを無駄と思わず磨いて欲しい。というか素晴らしすぎる。すごい。
 一方で私のようにミスを連発する人間は、どうすればいいのだろうか。それはミスを指摘してくれたときにすんなり聞き入れれる、信頼できる人間を何人か作っておくことだと思う。このすんなり聞き入れるということが、とても難しい。人は一事が万事、自分の失敗を認めたくないからだ。暴走してしまう。変な近道をする。その近道は、実は遠回りなのに。

 くるーむという塾で、一番やらないといけないのはその構築するのに難しい信頼を、積み立てていくことだ。
 家族以外にもアドバイスをし合える関係、時に「やりすぎなんじゃない?」と一旦立ち止まり一緒に検討できる関係、外に居るのは恵まれた環境だと思う。

 自分本位と、外世界の擦り合わせはいつも葛藤の連続である。だってやりたくないもん。でも自分本位とは、自己完結で終わるのならまだマシだが、そんな甘い展開で終わるものはないと私は思っている。それは孤独への一歩であり、自分本位の思想は人を病ませ、自分都合のイデオロギーになり、危ういプロパガンダにさえなる。ガザの人、ウクライナの人も今苦しみあえぐ原因は指導者・政治家の「自分本位さ」にあると思っている。

 その葛藤を自分一人で全てする必要はない。こと自分において、最近諦めたことは「情報を正確に捉えること」である。周りに文章をしっかりと読める人間がたくさんいるので、読書を躍起になる必要がないのかもな、と思った。もちろん、努力はするけど。でも自分より得意な人はたくさんいるし。間違ったことを言ったら、得意な人に怒られよう。注意されよう。まぁ、とは言え、怒られるのはやっぱりヒャッとかドキッとなるのでお手柔らかにお願いいたします。

この文章も誤字、誤文何個あったかな…。

京都市山科区にあるかっこいい建物

いいなと思ったら応援しよう!