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歩きながら考えることは

長い長い夏が急に終わったみたいに涼しくなって、柔らかい風が体を通り抜ける。
夏より秋の方が郷愁を覚えるのか、散歩している景色もなぜか美しく見える。暑さに注意を向けなくてもいいから、そのぶん何かが見えているのかもしれない。

木漏れ日が差し込んでいるだけで、満たされるような気分になる。

心が動く景色を見た時に、美しいや綺麗といった言葉しか選べないのが嫌だ。つたない言葉でいいから、その時感じた感情を思い出しながら書いていきたい。

全てが揃っている、と同時に不在がある。
ひとりだけど満たされている。

歩いていると、風に吹かれて落ち葉がカラカラと音を立てて並走する。

ウォークス歩くことの精神誌という本を仕事の昼休みにちびちび読んでいる。dmmブックスの70%オフでけっこう昔に買った本だ。

歩くことと思考は密接に結びついていて、歩くことと考えることについて考えてきた人を紹介する。ルソーやキルケゴール、ニーチェやカント。思想家は歩きながら考えた。

歩きながら考えることと、机に向かって考えることの違いは風景が変わるということだ。
『ちょうどこの文章を書いている時、蜘蛛の巣に引っかかりiPhoneが白い糸に巻き込まれた。グリーンセンターと呼ばれる木々がたくさん生えているところだ。iPhone13のnoteアプリでフリック入力している。普段キーボードに向かうよりは自然な文章が打てている気がする。日常的に一番関わる文章はスマホの文章だろう』

風景にはカオスがあり、いつも何かしら変化がある。その刺激が考えを生み出してくれる。考えることに対して100%それだけを考えようとすると余白や隙間が足りなくて創造的ではなくなる。歩きながら考えることは考えに対して余白や隙間を作り、飛躍と意外な組み合わせを連れてきてくれる。

ウォークスはまだ10%しか読めていなくて、内容もそれほど覚えていない。

『この文章を書きながら、画家、中園孔ニの評伝穏やかなゴーストを読んでいた。中園の画は舞城王太郎の表紙に使われていたことで知った。彼のインタビューを読んで、彼も舞城王太郎を好きだったことを知った。夭折してしまった作家や故人になってしまった人の生前のインタビューを読むと寂しい気分になるし、何かしら郷愁を感じる』

郷愁という言葉にいろんなものを託してしまう癖がある。過去の楽しかった思い出が蘇る時とか、いろんなものがとても美しく見える時や、詩的な気分になっている時、そういう状況すべてを郷愁で片付けてしまう。

うまく言葉にできないことは、すぐに諦めてよく使われる言葉にしてしまうから、その中に入りきらない意味や気持ちはトマトのヘタみたいに取られてしまって、どこかに捨てられてしまう。

『17:40分になり陽も暮れてきたので帰ることにする』

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