長編小説「ブルー・ブライニクルの回想録」 第一章 第一話
目を瞑るのが勿体無いほど美しい景色が広がっていたとしても、それは信じられないほどの凶器を持ち合わせているかもしれない。たとえ万古、その事実が明らかになっていなかったとしても。
静かにゆっくりと手を伸ばす。衝撃を与えてはならない。指先に全神経を注ぐ。
そして───結果はわかっている。何をしたって無駄なのだ。どうしたってこの状況から逃れることはできない。ほんの数日前まで完璧にできていたことも、ここへ来てはどうにもならない。理由はわからない。ただ、絶対にうまくいかないのだ。
乱雑に物が置かれたキッチンに立ち尽くしながら、大きなため息を漏らした。
こんなに水浸しにしたのは誰だ?これを片付けるのは?どれほど呆れたって仕方がない。全てはこの手によって行われたこと。否定のしようがない。この家には他に、誰も住んではいないのだから。
忌々しいこの手を切り落として仕舞おう。そう考えたことは一度や二度ではない。今日こそは、明日こそは。
しかし、いざその時になるとどうにも全身の震えが止まらない。どれほど憎んでいても、できない。たった一回の決定的な決断が下せない。
目の前に無様に置かれた氷の食器が溶け出し、ポタリ、ポタリ、と小さな雫を床に叩きつけてゆく。この光景を何度目にしたことか。仕方なく後ろのテーブルに置いてあったタオルを手に取った───これが最後の一枚───。が、使い物にならない。またか。お前もか!どうしてこうも痛めつけてくる?
触れた瞬間、レンガのように硬く凍りついてしまったタオルをテーブルに思い切り叩きつけた。辺りに氷の破片が飛び散り、そこかしこに小さな水溜まりができる。こうして幾度となく物を投げつけられてきたこの木製のテーブルには、いくつもの傷が刻まれていた。為す術もなく、傷から逃げるようにこの場から立ち去る他ない。背後から響く、ポタリポタリと滴る水の音が耳にうるさい。
ここ最近はどうも調子が出ない。とてもじゃないが、あの場所で優秀な生活を送っていたとは思えない。見渡せば氷の館と言わんばかり。全てが凍りつき、溶け出し、水の中へ呑まれてゆく。
このところ毎日夢に現れるのは海ばかり。飽きるほどの光景であっても、それは恐怖を覚えさせる。食事を摂ろうにも、本を読もうにも、散歩に出かけようにも、これは全てを否定してくる。おかげで常に家中水浸し、というわけだ。
この世界には神秘と呼ばれる事象が数多くある。その多くは自然のものであって、人間がその対象になることは、まずないと言う。しかしそれは、皆が勝手に全員同じ人間だと信じているからではないだろうか。仮に僕が別の種類の人間であったとしても、誰も気づくはずがない。そこにいるあなたも、そして君も。人間は自らの存在を信じて疑わないのだから。
あの日はこの町では珍しいほどに晴天であった。一面に広がる雪原が、力強い太陽によって照り輝いている。窓から覗く景色はこれから来る「特別な日」を心待ちにしているかのようだった。
「特別な日」。それはこの町に住むすべての人が望んでいる一日。年に一度やって来るその日のために、町の中心にある小さな広場には立派におめかししたツリーが置かれ、その周りを子どもたちが駆け巡る。大人たちは頭を悩ませながら家を綺麗に飾り付け、豪華なご馳走を作り、綺麗な箱を用意する。子どもたちが最も目を輝かせるのはその箱を手にしたときだ。
十二月二十五日。聖なる日。クリスマスはこの町の人にとっては特別な日であるようだった。日々忙しなく働きに出る者も、常日ごろ頭を抱え怒号を散らしているような者も、皆がその姿に酔いしれる。中でもクリスマスツリーは格別であった。
それは国中に広まり始めた頃で、永遠の命を象徴するもみの木を飾り付けるという行為は、多くの人の興味を惹きつけた。天使や靴下、羊飼いの杖なんかが飾り付けられ、うっすらと白い雪のベールを被ったその姿は、我々を幻想の世界へと連れて行ってくれるようだった。
その日僕はツリーを買いに出かけていた。どんと構えた大きなツリーも良いが、身の丈にあったツリーがお気に入りであった。
この町でツリーを買うのならば、訪ねる店は一つしかない。傾いた看板にはでかでかと均等の取れない字で「もみの木はここ!」と書かれている。それは小屋のような小さな店で、外には木製の椅子が置かれている。ぽっこりとまあるく膨れた腹を持つ赤ら顔の店主が、たいていそこに座っている。ツリーとなるもみの木もたくさん売られているわけではない。が、木には一つ一つ違った表情があり、その中からお気に入りを探し出す作業はとても心踊る瞬間であった。
雪が降り始めると同時にこの店はその年の営業を開始する。それまで薄明かりも見せず静まり返っていた建物が、突如として賑やかな温かみのある店へと変わる。店内にはパチパチと燃える暖炉があり、もちろんサントン人形なんかも飾られる。店主はいつでも片手に酒瓶を持っているような人だ。店の経営はもっぱら頼もしい奥さんに任せっきり。そんな遊び心のあるこの店の開店を、僕はいつも心待ちにしていた。
真冬の雲ひとつない晴天日は、どんより深い曇天日よりも一層冷え込む。毛布に包まっていたい気持ちを投げ捨て、朝の身支度を整える。
この時期お決まりの濃紺のオーバーコートに深緑のマフラー。僕がこの寒さの中でぴたりと凍りついてしまわないために、欠かせない身なりだ。
脇に一つ、小さな鞄を抱え、重い扉をギーっと開ける。足首が埋まるほどに積もった雪をザクザクとかき分け、一歩ずつ歩みを進める。雪かき、氷かきなんて言葉はこの日ばかりは存在しない。いつもは辛いキンと冷え切ったこの空気も、今日に限っては清々しく感じられる。何と言ったって今日は、ツリーを買いに行くのだから。
小さな広場を通ると、子どもたちが雪と戯れている。大きな雪だるまが広場のあちらこちらで様々な表情を見せる。ツリーは今日もそこに立派に立っている。その姿に顔をほころばせ、近所に住む大人たちと世間話をしながら、僕は年に一度のこの外出を楽しんでいた。店が近づくにつれ、僕の足取りは軽くなり鼓動は高鳴る。
店へ行く道すがら、道路に生え渡った針葉樹の葉が、寒さに耐えきれず、ピンっと凍りついた姿がなぜだか妙に目に留まった。
店は目と鼻の先。自然と笑みが溢れる。店先では店主がにこやかに手を振っている。もちろん酒瓶を片手に。そんな店主の横を通り抜け、握りに手を掛けた。
突如、背後に何かを感じた。振り返る間も無く、ほんの一瞬、針先に指が触れたときのような衝撃が、体の芯をついた。
そうして僕は深い深い眠りの中へ、醒めることのない青の世界へと誘(いざな)われていった。どこまでも深く、永遠に下り続ける。
目の前が青く染まったら、もう終わり。僕の姿はどこにもいない───。
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長編小説「ブルー・ブライニクルの回想録」
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