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83.伊達家の隠された宝物はあるのだろうか?その2

ジャーン。の続きです。歴史に詳しくない方には大阪の陣と言われても、何のことやらわからないと思いますので、超簡単にお話ししますと、戦国時代と呼ばれた、日本各地の有力武将達が天下人となるために戦を繰り返していました。それをまとめて天下人になったのが、豊臣秀吉でした。秀吉が亡くなる前に秀頼が生まれましたが、六歳の時に秀吉が亡くなり幼い秀頼を養護するという名目のもとに徳川家康が力を付けると、それを不満とした石田三成達と戦になりました。それが関ヶ原の戦いです。
そして徳川家康が天下人となったのですが、家康が自分の余命を考えて豊臣家を抹消しようとした戦が、大阪の陣です。後顧の憂いを無くすためのダメ押しが大阪の陣なのですが、結局、秀吉が残した大量の黄金が大阪城にあれば、それを軍資金として、秀頼が反乱を起こす可能性があったので、黄金取り上げが本当の目的だったのです。

さて、ジャーン。の意味ですが、大阪の戦いに仙台から伊達政宗公が出発した記録があります。途中白石城に立ち寄り、片倉小十郎と合流するのですが、白石城の初代片倉小十郎は景綱でこの時病気のため出陣できずに、白石城にとどまっていました。ですから、大阪の陣に参戦したのは、息子の重綱で彼が鬼小十郎と呼ばれた武将です。その転生が現在の仙台青葉神社の宮司の片倉重信さんです。名前に同じ「重」の文字が入っています。

重綱が出陣する時に、景綱が言った言葉が記録に残されています。それが、「今回の戦は早く終わるが、来年が決戦となるだろうから、心してゆけ」というような内容です。
私はその記録を読んだ時、さすが景綱だ先のことがわかるのだ。と感心していましたが、落合氏の徳川家康と伊達政宗はすでに話し合って、秀吉の黄金取り上げ作戦だったとすると、景綱の言葉は、政宗公が病気の景綱と会った時に、徳川家康との秘密を知ったのでそう言ったのだとわかりました。

これが、ジャーン。です。

しかし、詳しい話しは息子の重綱には伝えてはいなかったようで、戦では先頭に立って活躍して、後で景綱に、「大将とあるものが、先陣切って戦う奴がいるか」と叱られました。この時の重綱の戦いぶりで、「鬼小十郎」と呼ばれるようになったのです。

ですから、冬の陣が終わって伊達家が宇和島をもらったのは、首尾良く真田丸に黄金を運び出すことまでできたので、まずは成功報酬の前金だったのでしょう。

黄金を運び出す話しは、落合氏の著書に詳しいので、そちらをお読みになって下さい。『国体アヘンの正体、成甲書房』

次回は私の考察も交えながら、黄金の追求をしてみたいと思います。
今回も読んで下さりありがとうございました。感謝いたします。

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