117.たそかれ
自分を見つめる作業を日々行っていますと、さまざまな思いに至るものです。まして、他人が読んで下さるという条件下で書く日記のようなこのノートでは、整理してまとめようとする気持ちがあるので、ただ日記を適当に書くのとは異なります。
その効果として、自分の心が整理され、次の発想が新鮮な思いで出てきます。
昨日もノートを書き終えて、「私は愛、私は光」という言葉をもう一度考えてみました。これはつまり「私はウニ」という事だろうな。そう考えていた時、夕方に近づく陽射しが、ガラス越しに輝いてきました。ちょうど椅子に座っていた私の全身に当たり始め、そのまぶしさと暖かさを感じました。
私は目を閉じて太陽の方に向かい、膝に軽く両手の甲をあて、手のひらを上にして瞑想状態になりました。
心の中で、「私は愛、私は光」を繰り返していました。まさしく陽射しの暖かさは、太陽の愛を感じ、瞼に映る光は黄金でした。私は全身が黄金になったような気になりました。
すると、最近四時過ぎに街中を歩いていると、ちょうど太陽が西に沈み始める頃で、太陽に向かっていると黄金の輝きを感じていたのです。私の身体も黄金に染まりそのまま空中に浮き上がるイメージをしていました。
そんなことがあって昨日の太陽瞑想は、素晴らしく気持ちのよい状態になりました。私はこれを利用してセルフコントロールをやろうと閃きました。
まず、潜在意識に、「太陽の暖かさの愛を送ります」と心で思って、その気持ち良さを伝えました。次に、「黄金の光を送ります」と心で思いその輝きを伝えました。
そんなことをしていたら、とても気持ちが良くなり、続けると痺れるほどの気持ちの良い感覚を覚えました。
ただただ気持ち良いという状態です。それは「喜び」の感覚だとも思いました。
小学生の時を思い出しました。一度だけの体験だったのですが、たぶん小学1年生だったと思います。クラスでグランドに出ていた時に、バラバラに好きな事をやっていて、先生が、「集まれ~」の号令をかけたので、全員が走って先生のもとに集合したのです。その走っていた時に私は、えも言われぬ快感を覚えたのです。痺れるような鳥肌が立つような、何とも言えない気持ち良さでした。それがどうして起きたのか、今でも謎です。
それに似た感覚が走ったのです。
その時気付いたのですが、私達の求めるものは、どんな物であろうと、どんな事であろうと、望みを手にした時に喜びの感覚を覚えるのです。
つまりあらゆることの望みの報酬は、「喜びの感覚」なのです。物でも人でもないのです。
太陽瞑想で得た感覚は、まさしく「喜びの感覚」でした。つまり未来を作る重要な要素は「喜びの感覚」なのでしょう。
夕暮れの時を「たそがれ」と呼びますが、もともとは「誰そ彼」で、薄暗くなった夕方に前から歩いて来た人の顔が見えなかったので、「誰そ彼」と言った事が発祥といいます。しかし、「黄昏」とも書きます。「黄色く暗い」ということですから、薄暗いまで行かないまさしく黄金の陽射しの時を言うのかもしれないと思いました。黄金に輝く太陽の陽射しを背に受けて向かって来れば、顔は暗くなり見えません。「たそかれ」と言ったのがその時だったのではないだろうかと、ひとり思いました。
今回も読んで下さりありがとうございました。感謝いたします。
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