カフェに落とす

「もう会わないと思う」
そう告げても、翠の表情が強ばることはなかった。
ただ、普通に息を吐いて、「そっか」
とだけ零した。そのままコーヒーを啜る。

呆気ない。虚しい。けど、これであってる気がする。
私は少しだけ口角を上げて席を立った。薄く立ち込める煙草の匂いを振り払うように、ベルのついたドアを開けて外へ出る。

思えばもう2年もの間、翠のことを考えない日はなかった。
人生をスムーズに生きるには、人に期待しないことらしい。

そんなこと、解るわよ。それができないのが恋愛でしょう?

自分が、人に見られているよりもはるかに子供だということも、
この恋が実らないであろうことも、
そんなことは承知の上で、馬鹿を精一杯にやってきたの。

「迷惑かけたわね。やっと、すごく、好きな人を見つけたの。」
演技力はある方だと思うけれど、この男には見透かされている気がしてならない。でも、これ以上虚勢を張る術は、さすがに持ち合わせていない。
「よかったじゃん」
どこか寂しげな瞳に、私は今までずっと微かな期待を込めてきた。
もちろん、それがこの男と付き合っていく上で絶対してはいけないことだと解ってはいた。
全部、ひっくるめて受け入れる方を選んだのだから、それくらい自由にする権限はあるでしょう。
まあ、でも最後まで、何の実りもない。
悟られないように、今日いちばん力を込めて放った言葉を思い返しながら、足を止めることなく改札へと向かう。

最近、後輩からずっと食事に誘われている。
それだけのこと。
今、特別な感情があるわけでもない。
それでも、「好きな人」を装うには十分。
私は合図だと思った。翠から離れなければならない合図だと。
今後、後輩のことを好きにならなくてもいい。
でももう、私に特別な感情を抱いていない翠からは今、今離れないと駄目だ。

最後まで悲痛な期待を込めて紡いだ言葉は、翠の心に、もしかしたら耳にも届く前に床に落ちていった気がする。

思いを伝えるなんて、軽々しく使った人はどこの誰だろう。
まして、伝わるなんて、奇跡以外のなにものでもない。

でも、虚しいなんて言葉は使う権利がないの。
自分で選んだことだから。
やっと、切り換えることができる。

翠は翠の親友の妻を想っていた。
叶うこともない恋をしている男はなんであんなに魅力的に映るのだろう。
叶うこともない恋をしている女はなんでこんなに惨めなんだろう。

家に着いて玄関ドアがゆっくり閉まると同時に、力は全部抜けてしまって、
涙は思ったよりも少なくて、でも静かに頬を伝った。

真っ暗な部屋にスマホの通知画面だけが灯る。
『ここのイタリアンは、どうですか?』
「フレンチがいいな」
『もし、フレンチがよければこんな所もあります』
虚空に呟いたはずの言葉に間髪入れず届いた返事に、思わず瞬きをする。
頬を伝う水がほのかにあたたかくなったのを感じる。同時に心がほどけていく。

後輩とフレンチレストランでかぶのスープを飲む自分を想像する。
柔らかく笑う自分の姿は悪くなくて、単純なものだと辟易してしまうけれども、そんな未来をなぞりたいと思った。

なんとか部屋まで這いながら力尽きて見る夢は、きっと明日には覚えていないだろうが、幸せなものであることは間違いない気がした。

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