失ったものと忘れたくないもの
繊細な状況にある人になんて声をかけたらいいのか分からない。どういう顔をして、言葉は何を選べばこの人に寄り添えるんだろうか、大事にしたいと思うと頭がぐるぐる巡り、まごついてしまう。
そうしているうちにその一瞬は私の前を通り過ぎる。そんな時よく思い出すことがある。
太陽の光がビルの中を満たすまぶしいお昼間だった。
交代でお客様のいるカウンターに出るため足早に歩く。狭い通路を同僚達とすれ違うバタバタした列に彼女も挟まって流れてきた。
ふと前腕にしっかりと置かれた手に気づき視線を上げると、バンビの目がこちらを覗きこんでいた。
「ねぇ、最近元気ないよね?」
まつ毛まで見える綺麗なアーモンド形の大きな目をした同期の女性だった。
「気づいてるよ? ちゃんと気づいてるから。」
置かれた小さな手の指に少し力が加わり、温かいと思った。
“気づいてるよ”
そんな風に言葉をかけられるんだ。そんな風に気持ちを伝えられるのか。
驚いた一瞬の間を置いて、目の奥に涙がにじむのがわかった。
ついこういう書き方をしてしまうのは、常に自分が”私という人間”を操作しているように感じているからだ。その張りぼてを通り抜けて、彼女のやさしさが私の中身にまっすぐ向けられていた。
固まった表情は何も変わらず声も出ず、ただただ目の奥がとても熱くていっぱいで、視界が少しだけぼやけた。それでも彼女は私を覗き込んで私の中身だけを見ているようだった。
「大丈夫だよー。 話聞くからね。 言いなよ?」
独特の少し伸びた柔らかい言い方。出身の静岡の訛りなのかと思っているが、それは彼女の特徴だった。
私は言葉が選べず、とにかくうんうんと頷く。「ありがとう。」
人の動きを感じて彼女の瞳から視線を上げると仕切りの向こうの明るさが目に入り、揺れた心が自然と引き締まる。また緊張感が戻ってくる。でもさっきまであった、胸の奥の方でざらざらと砂が落ちていくような感覚は消えていた。底なしだと思った、孤独さとでも言えばいいのか、その暗い流れを何かが止めてくれたようだった。
”ちゃんと気づいている”
彼女はそのことだけをそっと教えてくれた。私の張りぼては表情に乏しく、いつも不器用にぬっとそこにいるだけだと思うのに、彼女は気づいてくれた。それは全く押しつけがましくなく、でも私を助けてくれるには十分だった。
誰かのちょっとした変化はいつでも周りで起きていて、受け取って返す間もなく忙しく通り過ぎる。気づくことも難しいし、気づいたとしてそこで留めて伝えるのは、なんだか気恥ずかしい。自分の気にし過ぎか、踏み込み過ぎだろうか、まぁ色々あるんだろうとか、その時を掴まない大人の理由は沢山あるし、実際留めない方がいいことも多い。
真っ直ぐなのか、鋭いのか、そのあたりの扱いが上手な子だった。それから誰かの変化がふと気にかかったとき、ストレートに言葉をかけてみようかと思うのだけれど、どうにも私には出来ないのだ。その一瞬、いつも彼女との記憶がよみがえるから、なんだか隠れて真似してるみたいな気になってひっこめてしまう。
本当に綺麗な子だった。白い肌はすべすべで、口角の上がった広告みたいな唇、平均より少し小さめの背、一目見たら記憶に残る。そしてその愛らしい外見は内側が反映されて作られたのかと思うほど、ほんわかとした優しい中身で、でも笑っちゃうのだけど、不思議とイモっぽさが残る子だった。私は彼女がとても好きだった。
仕事を辞めて帰省した直後、私はひどい鬱状態になり、蓄えたものを全部捨てて実家にひきこもった。何もしたくないし、出来ないし、それを説明することを考えるだけで嫌で嫌でどうにかなりそうだった。噓で作り上げた自分にうんざりして、それまでの人間関係は全て切り捨てた。最底辺に落ちたらしいと自分を捉えて、そこでは何も分かってもらえないと信じていた。嫌われる可能性が0.1%でもあるなら開きたくなかった。
彼女を含む大好きと思える友人が少しいたのだが、特別に扱うほどの余裕は持っていなかった。人間同士の繋がりが怖く、全員を信用できるわけではない状態で、一部の人にだけ最低の真実を伝えることはしたくなかった。
思い出しても当時はそうするしか出来なかったのだけれど、とても大切なものを無くしたと思う。
そして私は今ここにいる。彼女とのその一瞬の思い出をとても大切にしながら、会えて良かったと思いながら、忘れたくないと願いながら。でもとても寂しいと感じながら。
私が人を諦めずにいられるその経験は宝ものだと思うけれど、時々無性に苦しくなる。失ったことをはっきりと実感してしまうから。
大好きな子達だから、楽しく幸せに過ごしてくれてるといいと思う。
どこか宙にでも吐き出しておかないと気が済まないのだ。
傷つけたよね、本当にごめんね。本当のことを話さなくてごめん。
十分に言えなかったけれど、ありがとう。