えっ?「無理しないでね」だって?!
「無理しないでね」とは、上司に言われていた。
私にはそれが理解できなかった。
激務の中にもまれる私には、そういう言葉さえ届いてこなかった。
「無理しちゃだめだよ…?あの〆切と業務量で無理しないでどうこなすの?人手が足りなくて一人でやらざるを得ない、〆切は伸ばせない、そんな状況で無理する以外にどういう手段があるというの?」
それに、弱音を吐ける環境でもなかった。
私の部署は23時までは確実に電気がまぶしくともっている。
残業でやりくりせざるを得ない人は、私だけではなかったのだ。
3か月でやる仕事を1か月でやれと言われることもザラだった。
そんな中、「無理しないでね?」
システムエンジニア界のマリーアントワネットでしょうか?
「パンがなければクッキーを食べればいいのに」
ぐらいに理解不能な言葉だった。
しかし、私もわかる。
そういう優しい言葉をかけるだけで、上司も精いっぱいなんだということは。
もう、組織自体がパンパンでどこも限界状態だった。
こういう時の正解ってなんだったんだろう?と、退職して半年たつ今でもふと一人で哲学をはじめることがある。
最近は、多くのビジネス系youtuberや有名人が「会社が辛いならやめてしまえ」と声を高らかに言っていて、そのとおりだ。と私も思う。
でも、仕事が嫌いで職場環境もひどい場合の話がしょっちゅうだ。
私の場合は、激務ではあったけれど、一緒に働いている人は信頼出来て尊敬できる人たちだった。
(確かに、いやな人もいたけれど、一番密接に仕事で関わる人は、この人たちと一緒に働けて良かったと思えるぐらいの人たちだった。)
そのような良識ある人たちに恵まれたのは、私の人生で珍しいことだった。
大学時代のバイト生活では、冷酷なギャル・下半身の友達を探しているような男・ドタキャンするような誠実性に欠ける人が多かったし、高校時代は、道徳に欠けた陽キャばっかりがうじゃうじゃいる環境だった。
(大学の友達や、バイトで仲良くなった一人の友達とは、今でも仲良くしているくらい居心地のいい存在です)
ざっくりいうと、悪い意味で変な人ばかりに囲まれた環境だった。
そんな環境ばかり経験してきた私にとって、信頼出来て責任感があって暴力的でない穏やかな人たちと仕事をできることは、奇跡なんじゃないかと思えるくらい嬉しいことだった。
なので、この環境を手放すのが怖いと思う気持ちが強かった。
もし、転職したら、また変な人たちがうじゃうじゃいる環境にほうりこまれるんじゃないかとおもって怯えてしまった。
そうなるぐらいなら、激務でも人に恵まれている方がいいのではないか。
激務と、人に恵まれることを天秤にかけて、私はその会社に居続ける選択をした。
それが、結局は過労で鬱になって退職する結果になってしまった。
その人たちと仕事をするのは楽しかったから、その場所に居続けたかった。
その場所に居続けるためには、健康でかつ激務に耐え抜かないといけない。
でも、膨大な仕事量なので、お互い助け合ったうえでもやはり残業や休日出勤は不可避だった。
ある程度の残業にとどめて家に帰って、自分の健康を維持するにはどうすればよかったのか。
強引に〆切を守らなかったり、周囲に仕事を押し付ければよかったのか。
…自分が一緒に仕事をして楽しいと思える人たちに?そんなことを?
あらかじめ伝えておくが、私は自分で仕事を抱え込むタイプだというわけではない。
無理だと思ったら、〆切は伸ばせないか、誰かに頼めないか、ヘルプで人を増やせないか、などは毎回上司や先輩に相談していた。
それで、負荷分散できる時は思いっきり甘えた。
しかし、そんなことができないぐらいの業務量であった。
グループ会社内でおさまる仕事であれば、親会社に食い下がって〆切を伸ばしてもらうような交渉もした。
しかし、会社の外のお客様に影響する案件は、どうしても〆切厳守だった。
〆切を守らなければ、親会社の偉い人が、お客様の元へ行って謝罪しないといけないとかそういうえぐい状況になるような、そんな感じ。
そうすると、やはりシステム担当がふんばるしかないわけだ。
話がそれたので、元に戻す。
自分の健康を維持したまま、この膨大な業務量をこなすには、他の人に無理やり仕事をおしつけるとかそれぐらいしないと実現ができない状況だった。
別に、自分の嫌いな相手だったら、ちょっと強引に仕事を押し付けて、「お先に失礼します」ができたかもしれない。
いや、さすがにそれは嫌な相手でもやらないけれど。
そんなことを、自分が大切に思う先輩や後輩には、私はできない。
そうすると、やはり自分が無理するしかなくなる。
そして、私だけでなく、周りの先輩後輩も同じぐらいの業務量を抱えているので、みんな私みたいなことを考えている。
このことを考えるとぐるぐる堂々巡りしてしまう。
答えがでてこない。
答えが出ない出ないと考えているうちに、私は鬱病になった。
鬱病になったから、会社を辞めて、今やっと好きなことをyoutubeでやってはいるが、もし鬱病にならなかったら私はどういう人生を歩んでいたんだろう?
そう考えると、不謹慎だけれど、鬱病になって良かったと思う。
早かれ遅かれ、激務の仕事には耐えられなくなっていただろう。
鬱病が「これ以上やったら死ぬぞ!」と、私に教えてくれた、私を救ってくれた、と今は思える。
鬱病が、力業ではあるが、私にむりやり答えを押し付けてきたような気がしている。
「たとえ周囲が大切でも、自分を一番大切にしろ。当たり前だろう」
みたいな。
いや、本当に当たり前だと思う。
でも、どうでしょうか。
会社という組織に入って、「責任感」とか「〆切」とか「連帯感」とか…色々なことを考えていると、頭では「自分が一番大切」だということはわかっていても、薄れてしまうようなことはないだろうか?
私は「当たり前」を「ないがしろ」にしてしまっていたなぁ、と反省中。
健康についてもそう言える。
健康であるうちは、まだもっといける!と思って夜更かししたり、狂ったように残業したり、大量にお酒を飲んでみたり、自分を過信してしまう人が私を含めて沢山いると思う。
そして、風邪をひいたり、内臓疾患を抱えて、初めて健康の儚さとありがたさを痛感する。
健康だった時には、頭ではわかっていても、身に染みて理解をするところまではたどり着けない理解だった。
でも、調子がいいときはちょっと無理したくなる気持ちは私もいまだにある。
さじ加減が難しい…。
こういうことを考えると、生きるって難しくて精密作業だなーと思う。
※ちなみに、大切な先輩後輩とは、退職した今でも、家に遊びに行ったりランチに行ったりと、仲良くさせてもらっている。