見出し画像

「誰かに見られるから」って理由で生きることに、自分の大事なお金と時間をかけるのにはもう疲れた

誰も私のことなんか、見てないし、気にしてなんかない。

そんなことなんてわかっている。だってカフェに1人でいるときに話かけてくる人なんていない。歩いていて、知らない人が私に話しかけてくることなんてない。

私からも知らない他の人に話かけることなんてないし、関わりを持つことなんてわかってる。だけど、どうしても思ってしまう。

でも、わたし、最近、思うの。「誰かに見られるから」って理由で生きることに、自分の大事なお金と時間をかけるのにはもう疲れたよ。


物事はすべて自責に考えろ。と言われるのは、日常のほとんどの考え方が他責でできているから

画像4

見ず知らずの他人に見られるからって外で作業をするときにすっぴんでいるのが辛い。

外にいくには、ちゃんとしなきゃ。誰かに見られるかもしれないから可愛くしなきゃ。というか、化粧なしでは外に出られない。そう思うのはいつからなんだろう。

外にでるためにかける時間は少なくても1時間はかかる。昨日お風呂入ってないから入ってから出なきゃ。最低限の化粧をしなきゃ。って誰が決めたかわからないルールに知らないうちに縛られてる。

別に友達と会うわけでもない。ただ外の空気を吸いにカフェに行くだけなのに。だれかに見られるからって臆病になって、自分のしたいことをする前に他の時間に追われてる。

正直、女性は外に出る時は化粧をしないといけないみたいな風潮である社会にイラついたこともあるし、化粧をしないといけないと思っている自分にイラつくこともある。

でも、どんな価値観が私の周りにあったって、結局、選択しているのは自分。そう思えるようになったのは24歳になってからやっとのこと。

いつも自責に考えろと言われるけど、実際、日常のほとんどの考え方のほとんどは、他責である。

「雨が降ったから、今日の予定は変更したい。」って友達との予定を断るのも、天気のせいで気分が向かなくなった私が原因の一つでもあるはずなのに、天気の”せい”にする。

仕事でも「前の担当がうまく処理してなくて・・・・・」って理由で納期の前に苦しくなることを心の中で思ってる。他の人の前ではもちろん口にしないけど、仕事がうまくすすまない理由を、「自分のせいではない。」って本当は「前の人の作業の質の低さが原因だ」って決めつけるの。

私の体のコンプレックスでも、「私の体が私が悪いんじゃない。こうやって生まれた可哀想な私。」私は可哀想。私が悪くないのに。って思うことで、無理矢理自分を肯定しようとする。

結局は、私はいつも自分が悪いと思い込みたくない。


どんなことにも「良いこと」か「悪いこと」か決めつけたい

画像1

世の中は「いいこと」「悪いこと」ののほかに「その他」がある。

でも、自分ごとで物事を考えたとき、いつも自分の選択していることを「いいこと」=「正解」だと思い込みたい。

これはキャリアの話でいうとわかりやすい。

小さい頃に不登校をしていたある大人の話。その人は今社会でめちゃくちゃ活躍して、いろんな人の仕事の枠をつくることを仕事として、行っている。彼は不登校の過去を語るときにいつもいう「不登校があっても、それでも私は復活ができた。その過去があったからこそ今の優しさを感じとることができる。」って。不登校があったからこそ今の仕事が成立しているし、これからもその時の記憶を忘れることがない。って。

でも、最後に彼は教えてくれた。「自分の人生のどんな選択も失敗だと思いたくないし、自分が全てを正解にするんだ。」と。

彼はすごく素晴らしいと思うし、今もたくさん活躍しているからとてもいろんな人に愛されている存在であると思う。

だけど、私にはこう聞こえる。「不登校」を悪いと思ってる前提は変わらないけど、その過去を否定して生きるよりも実際、それを認めて生きる方が圧倒的楽だって。

その生き方は悪いことじゃないし、むしろよりよく聞こえる。ただ無理して自分の素直な感情を理性で抑えているようにも見える。


そうやって、私は人を判断する。人の行動を決めつける。


この人の行動は「自分にとって良いと思うかどうか。」を基準に物事を考える。自分だったらどう思うかっていうところまで他人の動向に関心がいく。

よの中には「いいこと」と「悪いこと」と「その他」があるって言ったけど、結局「良い」か「悪い」かでしか物事を見ない。

世の中には「その他」が存在すると言ったけど、私の価値観の根本には「その他」なんて存在しない。なぜなら私はいいものは取り入れる。悪いものは取り入れない。その二択でしかないからだ。

言っておきたいのだけど、私はここで「他者を受け入れない」と言ってるわけじゃない。ただ自分がやるかどうかは別。っていう選択をしてる。


わたしは他人を判断する。自分も他人から判断されているように思う。でも、本当はそうじゃない。

画像2

わたしは他人を判断する。

歩きタバコをしながら片手に缶ビールを持って疲れた顔をして歩いているサラリーマンを見ると、「こういう生き方をしたくないな。」と思う。

60代の夫婦のおじいちゃんおばあちゃんが手を繋ぎながら楽しそうに歩いていると。「私も彼らみたいに歳をとりたいな。」って思ったり。

車椅子の苦労している人が目の前にいれば、「かわいそうだな」って

私は人を見て常に何かを思う。極論を言ってしまうと、他者の人生を自分ごととして考え判断しているのだ。こういう決めつけって性格が悪いと思われがちだけど、私が思うに判断しない大人なんていないと思う。

だからこそ、(プライベートでも)自分も他人から判断されているように思う。でも、本当はそうじゃない。

でも、自分を他人が判断していたとしても、他人は自分を判断していないことが多い。もし、他人が自分を判断していたとしても、他人がどう思っていることなんてわかる機会なんて0.1パーセントもない。

そのうえ、日常のプライベート空間において、他人が自分を外見で判断して何か自分に害がおこることの方が0.00001パーセントより低い。

つまり、人はプライベートな時間において、通りすがりの他人に興味がないわけじゃない。だけど興味を持ったとしても、そこから何か影響を与えることはないし、何か思ったとしても声をかけることはない。もちろん、すれ違った人が少し雑な格好をしたって、関係は「通りすがりの他人」であることには変わらない。

なら、出会った人を大事にしよう。何も知らない他人より。出会った友達をい大事にしよう、少しでも関係がある人だけを大事にしよう。

通りすがりの知らない人にまで気を遣える人になれればいいけど、そんな余裕なんてない。だって、他人から判断されたって、自分のお金が減るわけじゃない。別に私に害があるわけじゃない。


私はもう気にしない。自分がどう思われたって好きなことをする

画像3

私は外見だけじゃない。全ての行動を他人にどう見られるかで決めてた。

学校で勉強するのも、「他人から優秀に見られたいから」
インターンをしていたのも「周りからすごい人って見られたいから」
就活をしていたのは「みんなと違うことをしたくないから」

でもそうやって生きていくには疲れた。というかいつも「不安」が頭の中にいて、その不安を打ち消すためだけに毎日を生きていたのだけど、別にそう生きなくても自分は満足できるし、不安ではない。と思えるようになった。

でもそう思えるには、ある程度、不安と戦った上で、承認欲求を満たしたり、たくさん恋愛したり、友人と話したり、そうやってやっと今思えるようになった。これを読んでくださっている方は「そんな言葉だけじゃ相手を気にしないなんてできないよ」って思うかもしれない。だけど、それはまたそういう時期なんだとお思うし、そういう思いがきっかけでいろんな出会いがあることもある。

正直、苦しいと思う。苦しいという言葉があってるかわからないけど、いろんなことにもやもやしたり納得できなかったりする。だから気疲れもよくする。だけど全てに悲観的にならなくても、前向きになっていれば大丈夫だし、頑張ってもやもやしてるからこそ得た経験もあるの。

あなたはもう大丈夫。私も大丈夫。


P.S.
最後まで読んでくれてありがとうございました。感情で書いてしまった部分が多いのですが、私のような人はすくなくてもいるのではないのでしょうか。そんな人のことをいろんな人にもっと知ってほしい。そんな思いで書きました。この記事を読んだ人に少しでも救われる人がいますように。読んだ感想をコメントで聞けると嬉しいです。

#エッセイ #コラム #日記 #自分 #わたし #好きになりたい #友達 #恋人 #他人軸 #自分軸 #女子大生 #大学生 #生き方 #努力 #頑張る #生き方

もしよければ、この記事にも目を通していただければ嬉しいです。
よろしくお願いいたします。


いいなと思ったら応援しよう!

RINKO@女子大生のん
サポートしていただいたお金は、今後の生活費や活動費として大事に使わせていただきます。一生懸命に感情を言葉にして行きたいと思っています。よろしくお願いします。