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私は”気を使う人”になりたいわけじゃなくて、”気が利く人”になりたいの

自分の人生どう生きるかは、自分の日々の意志で決まると思う。

でも人間って小さな短期的欲求がたくさんあって、その欲求に流されたり、いろんな個性が集まっている集団の中でもまれたり、して他人との生き方を少しずつまなぶようになってくる。

それでも、いつも向き合いたくない自分の考え方の問題。でもそんなことを言ったって自分の人生は一度しかないし、今日この時は今しかないからゆっくりでいいからちゃんと向き合ってみようと思った。

自分のことが一番好きで一番大事。自分本位な正確なのかもしれないけど、それでも私は自分でありたい。だけど、少しずついい方に変わっていける自分に近づいていきたい。

「いつも自分本位だよね。悪い意味じゃなくて。」って言われてから自分が一番好きなんだって気が付いた

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私は、対人関係が上手じゃない。

小さい頃はおせっかいをしてた。おせっかいをしている自分が好きだった。だって「ありがとう」と言われるたびに「~してあげている」自分を感じられたから。

正直、いい行動をしている自分に酔いまくっていた。今も全然そうやって自分に酔うことは普通に存在する。

でも、そんな生き方をしてるとたまに言われる。

「いつも自分本位だよね。悪い意味じゃなくて。」って。

そう言ってくれる友達は性格が反対だからこそ私の性格に対して思ったことを言ってくれる。でもそういわれたとき、私にはその言葉を言われたことがなさけなく悲しいものだと思った。

それは彼女に言われたからじゃない。

自分が自分のことを自分本位だと分かっているし、それをダメだな。と心のどこかでずっと思っているからなんだ。

正直、今の自分の性格を変わることも怖い。でも、変わらないことも不安と罪悪感が追いかけてくる。

どちらにしてもしんどいのは変わらないから行動するしかない。

20歳までは意識しなくても成長できる。でも20歳を超えていくと人間は日々老いていくわけで何もしないと現状維持でさえもできずダメになっていく。

そんなことを考えている私はもう23歳。

私は、少しずつ考え方を変えたいと思うようになった。

今の私は「気を使う人」じゃなくて「気が利く人」になりたい。そういう生き方をしたい。


”気を使っている”というのは、行動する目的がため他人のためじゃなくて自分だけのため

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「おかあさんに怒られたくないから掃除してる。」
「おかあさんに褒められたいから勉強してる。」

小さいころによく言ってた。その時の私は「自分の立場を守りたいから」だと思う。何かにつけて行動の理由を他人に押し付け、行動していた。

だから、本当にお母さんの喜ぶことなんて考えていなかったのかもしれない。ただ消去法としてお母さんが悲しむことやイライラしてしまう事を一生懸命避け続けるように努力してきた。

それは単に自分の承認欲求を埋めるだけの行動だったと思う。だから、母の疲れは軽減できていたのかもしれない。だけど、母の喜びはそんなに作れていなかった。

そんな性格に何も疑問を持たずに生きてきた20年間。自分が学生だから、自分が少し変わっているから社会と適合できなくて余裕がないから自分の努力を認めてほしい。

自分がかわいそうな子だから認めてほしい。

そんな感情をもってしまって生きてきた方がおおかったと思う。だから他人と衝突することもすごく多かった。

「私は自分が良かれと思って、他人に何かをしてあげてる。」

こんなスタンスだったから、本当にその行動が良かったものだったとしても行動そのものが”おせっかい”の域に入っていたり、よけいなことばかりしてる押し付けがましいものになっていたのだと思う。

それは、結局、自分が気持ちいい結果になるために他人に注力を注いでいた。だから、自分が一番大好きで自分に一番気を使っているだけだった。

だから、自分を気持ち良くなるために他者の立場や環境を利用していた人間だったのかもしれない。

私の考え方は所詮そんなものなのだ。というか人間みんなそんなものじゃないの?確かにマザーテレサみたいな感じの域まで行けば違うといえる。

でも、そういう人に出会うことがないし、私の知っている限りの人間に部類される人はそういう今までの私と同じような感情を一度は持ったことがあると思う。


私は”気を使う人”じゃなくて、”気が利く人”になりたい

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相手の状況を理解した上で、その人に必要なものを先回りして提供できるように何かをしたい。自分の欲求や快楽の為じゃなくて、その人の為を本当に思った上で何か行動をしたい。

それがたまにはお金が発生するのかもしれない。反対に無料でボランティア活動のようなものなのかもしれない。そんなのは関係なく、単純に相手のことを思って何かできる人になりたい。

気が利く人は相手に共感できる人。それは決して同情じゃない。

同情とは、相手と同じ気持ちになるということ。 共感とは、相手の感情を理解するということ。

もし仕事で相手のタスクが多い過ぎて忙しくてつらいと思っていたとする。同情は、忙しくてつらいね。って隣で言ってるってことなのだ。私がそんなときに隣で「つらいね~」って言われてたらぶちぎれると思う。

でも共感してくれるということは、私の苦手・得意分野を理解し、私の辛さの原因を理解してくれた上でそれが解決できるような何かをサポートできるという発想につながるということだ。

以前、同情と共感について書いたことがある。その同情と共感の違いを理解していないと人生においての対人関係ってやっぱり辛い。

共感って本当に難しい。

でも私は共感できる人。気が利く人になりたい。

もし、その相手のことについて何もしらなくても、良かれと思っていて行動できる人は、「あなたのことがまだわからない」という事実をきちんと伝えた人で行動できる人だと思う。

気が利く人って言うのは、全てのことを何もせず理解し、行動できる人のことじゃない。

私があなたのことを、あなたの仕事のことをこれだけ分かっていないんですよ。とはじめに伝えることができる人。そして、相手に今何が必要なのか理解したうえでその人をサポート出来る人。


他人のために行動することは自分のため。自分のために行動することは他人のため

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他人の為に行動できる人と、自分のために行動できる人は紙一重。

自分本位で生きていく人のことをここで悪いよって言ってるわけじゃない。


今まで正直、他人軸で生きてきた。

私と母の関係は、完全に「毒親」と言われる関係性なんだと思う。

親の喜ぶ顔が見たくて、褒められたくて勉強も頑張ってたし、他人との人間関係も親の望むものばかり。時にはそんな関係性が「経済的DVをうけてるよ」とか「親は過干渉すぎじゃない?おかしいよ」とか言われるまでの感じだった。でも私はその現状に気が付くこともなく、ただその世界が本当の世界だと思っていた。

はたから見たら「かわいそうな子」だったのかもしれない。

でも、そんな過去も今になっては嫌いじゃない。だって、母のおかげで日本人としてのマナーを知ってる。母のおかげでこうやって文章を書ける今がある。もちろん大学にも行かせてくれているし、ご飯にも困らなかった。

ただ、自分にとっての物事の判断をするのが少し苦手な人になってしまっただけ。それを一生懸命、改善しようと試みているけど20年にもわたり染みついた性格をそう簡単には変えられない。

でも、そう悩むおかげで気が付いた。

他人軸で生きていくことはダメだと思っていたけれど、他人軸を生きる選択肢をとった人は自分軸でいきているんだろうなって。

母のことばかりを気にしていた幼少期があったからこそ、いつもとは違う他人の行動には比較的早く気が付けることができるし、承認欲求を他人に得るために努力していた過去があるからこそ、他人が同じ悩みを持っていた時により近くの感覚をもつことができる。

そして今は、他人の役に立ちたいという自分のエゴのままに生きている。

子供教育ボランティア活動に参加するのだってそう。
デイケア施設に行っていろんな方とお話をするのだってそう。
誰かのために、お金を介して何かサービスを届けるのだってそう。

全て自分本位の行動であっておせっかいなのかもしれない。

でも、思う。

それがだれかの役に立っている事実があれば、自分本位の行動であったとしても他人を本当に思う行動であったとしても、行動することはやめたくないし。

やってみなければどれが自分本位か、そうじゃないかなんて分からない。

他人のために行動することは自分のため。
自分のために行動することは他人のため。


P.S.
最後まで読んでくれてありがとうございました。感情で書いてしまった部分が多いのですが、私のような人はすくなくてもいるのではないのでしょうか。そんな人のことをいろんな人にもっと知ってほしい。そんな思いで書きました。この記事を読んだ人に少しでも救われる人がいますように。読んだ感想をコメントで聞けると嬉しいです。

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RINKO@女子大生のん
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