「傾いたテミスの天秤」sideB
※できれば、sideAからお読みください※
【聡子の場合】
あまりの暑さにタオルで汗をぬぐう。
派遣切りにあって無職になってから1週間、久しぶりに母の墓参りに行ってこれた。最近忙しく仕事へのモチベーションも低下していたから、派遣切りはタイミングが良かったのかもしれない。経済的な心配はしばらく不要だ。40歳もこえて独身であるため、もしもの備えは十分なのだ。
「こういう慎重なところ、お母さんに似たのかもな」
歩きながら思う。早くに夫を亡くし女手ひとつで私を育ててくれた母だ。苦労があったからこその、慎重さだったのだろう。
「備えあれば憂いなし」母の口癖であった。
その精神は私に受け継がれ、おかげで無職になった今もしばらくは食うに困らない。母に感謝だな、と思う。
それにしても今年も暑いな、と首元をぬぐったとき
「痛っ」
タオルでピアスを引っ掛けてしまった。
あ! と思ったときには、もうピアスは耳からはずれて落下し、アスファルトをカチンと跳ねて、道端の草むらの中に消えた。
アパート裏手の敷地で、雑草がボウボウに生い茂っていた。
あぁ、お母さんにもらった大切なピアスなのに。
母の墓参りだからつけていったのだ。普段は、失くしたくないから大切にしまっている。申し訳ないけれど、探させてもらおう。
「失礼しまーす」
誰にともなく小声で謝罪しながらアパートの敷地内に入る。たぶんこのあたりに落ちたはず、と思われる場所をしゃがみながら探すが、小さなピアスは見つからない。
こんな草むらじゃ見つからないかな……と半ば諦めながら立ち上がり腰を伸ばす。ふと視線をずらした瞬間、あまりに驚いて大声をあげるところだった。
他人の家のベランダを覗き見る趣味などない。
でも、はっきりと見えてしまったのだ。
ゴミだらけのベランダに、女の子が座り込んで、私を見上げている。
こんな暑い日にベランダに放置されているなんておかしいと思った。
大人でも熱中症になりそうな気温だ。よく見ると、女の子の身なりは汚く、とても痩せている。
虐待だ。
警察を呼ぶべきなのか? 児童相談所に通報するべきなのか? どうすればいいのだろう。
でも、万が一警察などを呼んだとして、この子が自分から助けを求めたと親が誤解したら、この子への当たりはさらに強くなるかもしれない。警察や児童相談所から親が注意を受けた後にも悲惨な事件が起こることを、私はニュースで何度も見たことがある。
強い憤りを感じたが何ができるのかわからない。何が一番良いんだろう。私に何ができるだろうか。
とりあえず私は持っていたスポーツドリンクのペットボトルを女の子に渡した。女の子は躊躇なく、ごくごくと飲んだ。
その日から私は、人目につかぬよう気を付けながら、女の子にサンドイッチやスポーツドリンクなどを差し入れた。目立つことはできないが、慎重にすればできることはある、と思った。
しばらくたって、その家に住む女が死んだとニュースで知った。
ベランダで女児が保護され、命に別状はないこと。女は自殺の可能性が高いことが報じられた。
私は小さくガッツポーズをした。
女を殺すのは容易ではなかった。ただ、条件は悪くなかった。
女がいつも買い物に行くスーパーを特定し、いつも買う食品で女の子には与えないだろうという商品を探した。女がいつも同じ発泡酒を購入することは好都合だった。
母が生前飲んでいた糖尿病の薬が引き出しに残っていたことも好都合だった。
そして、レジ袋が有料化され、ほとんどの人がエコバッグを使うようになったことも、今回の計画には好都合だった。
事前に同じ発泡酒を購入し、プルタブから針を刺し、血糖降下剤を混入する。
炭酸がおさまってから穴を瞬間接着剤でふさぎ、エコバッグに忍ばせてスーパーに行った。
女はいつも通りに発泡酒を購入した。私は同じタイミングで会計を済ませ、運よく女の隣で荷物を詰めた。買った物を詰めながら、エコバッグに忍ばせてきた発泡酒の缶をそっと女の買い物の商品のほうに押しやるだけだった。女が「あぁ発泡酒もう一本しまい忘れた」そう思って持って帰ってくれることが理想だ。そしてその通りになった。
血糖降下剤の袋をベランダに投げ込んだ。
あとは何もしない。同じスーパーには行かない。アパートにも近付かない。
私と女の接点は何もない。だから動機もない。お互い名前も知らない。
私の行動は犯罪だろう。でも、私は自分の正義の天秤で善悪に妥協したくなかった。それだけのことだ。警察が私を探し出そうとしても、きっと辿り着けないだろう。きっと逃げ延びて見せる。
《おわり》