見出し画像

「黄昏スパナ」①/⑥

窓から差し込む春の温かい日差しにあたりながら、有はまだ俺のベッドで眠っている。
白いTシャツにグレーのスウェット。色の白い両手両足を揃えて真横に向け「ヒ」の字のような恰好で寝ている。

もうすぐ29歳になる男とは思えないほどきめ細かい肌。金髪に近い茶色い柔らかい髪を撫でると、「んー…」と小さく唸ったが、目は覚まさない。

有が俺のアパートに転がり込んでから3か月くらい経つ。

有は、俺が外勤で働いている望月眼科の患者だった。年末の忙しい頃だった。

俺は有との初対面を思い出す。



あの日。
診察室に男の患者が入ってきた。

「あの、先週ものもらいを診てもらったんですけど…」

そう言って患者は椅子に座った。

「はい。」

「ものもらいは治りました。」

「それは良かったです。それで、今日は?」

確かに、ものもらいは治っているようだ。ほかにパッと見ただけでは何の所見も見当たらない。患者は、ふふふと笑いながらモジモジしている。

たまに変わった患者も来るし、耳の遠い高齢の患者も来る。俺は辛抱強いほうだが、この男は何を言いたいのかよく分からないし、ひとりで笑って何だか気持ち悪いな、と思ったとき、サッと小さな紙切れを渡してきた。

「何ですか?」

と受け取ると患者は

「じゃ、待ってるね!」

と言って立ち上がり、診察室を出て行ってしまった。

背の高い、色の白い、若い男。

何だこれ?と思い、受け取った紙切れを開くと、携帯電話の番号だった。変な奴だったな、と思いながら紙切れを白衣のポケットにしまい、カルテに「ものもらい完治」と書き、次の患者を呼んだ。



その日の診察を終えて、例の変な男が少し気になったので渡された携帯電話の番号にかけてみた。

すると「わーい、かかってきた!」とさっきの男の声が喜んでいる。

「何の用ですか?」

「とりあえず、ご飯食べよう!今どこにいるの?」

と一方的に話を進め、待ち合わせ場所を指定してきた。

どちらにせよ夕飯は食べないといけない俺は、その場所へ向かった。



「わー!葉山せんせー!」

その男は、昔からの友人だったか、と錯覚するほど親し気に駆け寄ってきた。卑猥な英語の書いてあるTシャツにスキニージーンズ。明るい黄緑色のダウンを羽織っている。診察室では背が高いと思ったが、立って並んでみると俺より少し小さかった。

「ねえ、葉山先生って下の名前何ていうの?」

「英二だが。」

「じゃ、英二って呼ぶね!僕、有沢有。有って呼んで。」

と、にこにこしながら話を進める。

これは何かの詐欺か、宗教か?と思って有と名乗る男を眺める。

すらっと長い手足、柔らかそうなサラサラの茶色い髪、爽やかな顔立ち、人懐こい笑顔。女にモテそうだな、と思った。詐欺師に向いているかもしれない、とも。

「じゃ、ご飯食べよう。僕お腹空いてるんだ。英二は好き嫌いある?」

警戒心を全く持っていないような、無邪気な振る舞いが気になり、有が決めたチェーン店の居酒屋に一緒に入った。



有はよく喋り、よく飲み、よく食べた。

「僕ガソリンスタンドでバイトしてるんだけどね」

と言いながら、バイト先の同僚の話やおもしろい客の話などをし

「僕ほんとはね、ミステリー作家になりたかったの」

と言いながら、好きな作家の話や最近おもしろかった本の話をし

「英二は独身?独身だよね?」

と言いながら俺の仕事についてや年齢、血液型などを質問し

「牡羊座のAB型?いいね、相性いいよきっと!」

などとよく分からないことを言って、終始楽しそうで、ケラケラとよく笑った。

手羽先を食べながら細い長い指についた油を舐めている有を眺める。唇に鶏の脂が光る。

変な奴だな、と思った。
おもしろい奴だな、とも。
かわいい奴だな、とも。


「ところで」

俺は、ようやく食事にもお喋りにも満足したらしい有が煙草をくわえたときに切り出した。

「ところで、俺に何の用だ?」

すると有は、え?と煙草を落としそうになるほど驚いた顔をしたあと、ぶっと吹き出し、またケラケラと笑いだした。

「何がおかしい?」

「何の用?って、何だと思ってるの?ナンパだよ、ナンパ。決まってるじゃん。何だと思って一緒にご飯食べてたんだよ~」と言いながらケラケラ笑っている。

これは何かのドッキリか、やはり新手の詐欺か、と思ったが、有はナンパだと繰り返す。俺は気持ちを落ち着かせるために、ラッキーストライクをくわえ火をつける。

「先週ものもらい診てもらったときに、マジで超きゅーんってしたの。一目惚れだよ。少し伸びた前髪、無精ひげに細マッチョ、黒いTシャツに白衣!こんなにワイルドと知性が同居してる男なんて見たことなかったから、これは落とさなきゃ!って思ったよ。次の日行ったら別のおじいちゃん先生しかいなくて、受付の人に聞いたら、葉山先生は火曜日だけですよって教えてくれたから、今日また行ったってわけ。」

そう言ってアメリカンスピリットを浅く吸って吐く。呼気は煙と酒と甘い香のような匂い。

「それにしても、あのおじいちゃん先生、こっちが心配になるくらいヨボヨボだね。先生の目のほうが大丈夫ですか?って聞きたくなるくらいだったよ。あんなヨボヨボなのに眼科やってるってのも、ミステリーだよね。」

と言ってまたケラケラ笑う。

その先生というのは望月眼科の院長の望月先生なのだが、高齢なのは事実で、外勤で働いている俺が、来年の春から実質業務は全部任されることになった。院長の名前だけ残し、引退である。仕方あるまい。有が言うように、先生の目が見えにくくなっているのだ。


その後も、いつになっても「ところで神を信じていますか?」とも「買うと幸せになれる壺があります」とも言われずに、有が終始楽しそうに喋り、食事は終わった。


店を出ると、有は当たり前のように俺のあとに着いてきて、俺のアパートに入ってきて、当たり前のように俺のベッドに潜り込んできた。

「んん…」と猫のように喉を鳴らしながら俺の煙草臭い寝間着に鼻をこすりつけるから、俺はその柔らかい髪を撫で、有を抱いた。



翌朝、寝起きの有は当たり前のように俺のベッドでゴロゴロしていた。

「どうして俺が男も抱けるとわかったんだ?」と聞くと

「わからなかったよ。僕が英二と離れたくなくて着いていったら抱いてくれるから、びっくりしちゃった。ラッキー!だよね。人生って本当に何が起こるかわからない。ミステリーだね!」と笑うから、俺は苦笑するしかなかった。

「ねえ、英二はさ、男も抱ける、ってことは女も抱けるんでしょ?僕は男しか知らないからさ。なんか違う?」と聞かれた。

「うーん、生物学的に別の生き物だから体の構造が違う。性格や性癖は、男女差より個人差のほうが大きいな。」

「ふーん。」布団の中でグダグダしながら大きく伸びをする有。

「女は柔らかくて生臭い。男は硬くて脂臭い。」

俺が言うとバっとこっちを見る。

「何それ!」

「生物学的な違いだな。基本的に、女はどこも柔らかくて生臭い。男はどこも硬くて脂臭い。」

「えー、じゃ僕も臭かった?」と言って自分の体をスンスン嗅いでいる。

「あぁ、臭かった。」というと「英二のバカー!」と枕を投げつけてきた。

有の髪は柔らかかったな、と思いながら、やっぱりかわいい奴だな、と思った。



あの日から有は少しずつ自分の荷物を運びこみ、いつの間にか俺のアパートに引っ越してきた。そんなわけで、3か月たった今も、俺の狭いベッドで「ヒ」の字になって眠っている。

今日はバイトが休みだと言っていたから、寝かせておいてやろう。そう思って俺は仕事に出かけた。

《つづく》→②

いいなと思ったら応援しよう!

秋谷りんこ(あきや・りんこ)
おもしろいと思っていただけましたら、サポートしていただけると、ますますやる気が出ます!