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まだまだつづくよ、視点についての疑問

一人称なら書けるけど、三人称の書き方がわからない、という記事を前に書きました。たくさんお読みいただきありがとうございます。

一番の疑問は、三人称一元視点の視点って結局どこにあるの? ということです。誰がどこから見てるの? 何まで書けるの? という疑問でした。

デビュー後、先輩作家さんにお会いする機会がありましたので、さっそく質問してみました。そこで教えていただいたことを、私なりにまとめてみたいと思います。(私なりのまとめなので、正解というわけではないと理解したうえでお読みくださいね)

先輩作家さんいわく、三人称一元視点は、究極的には「作家による」というのがまず答えでした。
三人称絶対主義の作家さんは、視点はあくまでも外側にあるので、「秋谷は赤面した」が書ける。視点は秋谷の外にあるから、秋谷には見えていない秋谷本人の顔が視点からは見える。
でも、作家によりけりで、限りなく一人称に近い三人称一元視点を書く人も多い。一人称の「私は」を「秋谷は」にそのまま置き換えて書けるようなタイプ。
そういう人は、ずっと「秋谷は」で書いていたのに途中で「熱いなー」など、本人が体感している感覚が地の文がでてきたりする。これが、三人称絶対主義作家の場合は「秋谷は熱いと思った」まで書かなければ三人称ではないと思っている。絶対主義ではない作家は、作家によっては、シームレスに途中で「秋谷は」と「私は」の両方がでてきたりもする。ずっと「秋谷は」で書いていたのに、「私たちの思いは!」などが地の文で出てくる。

で、じゃその先輩作家さんはどうなの? と聞くと、「主人公の目の横くらいに視点カメラがついているイメージ」とのこと。限りなく一人称に近い三人称一元視点だそうです。

では、限りなく一人称に近い三人称の場合、一人称と三人称一元視点、どう使い分けるのか、気になりますよね。一人称に近いのにわざわざ三人称一元視点を使う理由。
それは、物語にあっているほうを選ぶ。ということでした。

例えば、主人公に強く感情移入してほしい作品、または主人公の主観や情緒を地の文でしっかり書いたほうが共感していただけるような作品。そういうものは一人称のほうが読みやすいし、読者さんが感情移入できるから良い。客観的に描写したい場合は三人称一元視点のほうが良い。例えば、企業ものなどで会社の歴史などを地の文で長く書く場合、一人称だと「この主人公こんなこと暗記してるの?」ということになってしまう。また、三人称一元視点では主人公の知らないことまで書けるので、例えば花の名前を知らなさそうな主人公でも「道端にスミレが咲いている」と書ける。でも、一人称で「スミレが咲いている」を言わせるのは違和感がある主人公もいる。三人称一元視点ならそれが書ける。逆に「何という名前かわからないけれど、薄紫のかわいらしい花が咲いているのが見えた」や「何というメニューか知らないがめちゃくちゃうまい肉だ」など、主人公の主観を大事にしたい場合は一人称のほうが伝わりやすい場面も多いし、キャラクターが立つ場合もある。

つまり、内容によって意図をもって使い分けられるかどうか、ということのようです。

わかったようなわからないような??でしたか??
私は使い分けに関しては理解したので、もしわからなかったら私の伝え方のせいなのでごめんなさい笑。

良くないのは、作品のなかで視点がブレること。
途中まで一人称なのに三人称になったり、三人称一元視点なはずなのにほかの人の視点がまじったりする。これは、読みにくいのであまり良くないようです。視点を変えるなら章を変えて、明確にここから別の人の視点です、ということが伝わったほうがいい。でも、視点を変えるメリットを意図的に理解して変えなければ良くない。作者が書きやすいから視点を変えるのではなく、あくまでもその視点が作品にとって必要かどうかで考えたほうが良さそうです。また、三人称多元視点(いわゆる神の視点)、主人公のいない部屋での出来事を書いたり、聞こえていないはずの会話を書いたりするのは、日本の小説では嫌われることが多いから、気をつけましょう。ということでした。

視点はまだまだ私の課題になりそうです。
引き続き、勉強に励みます~!

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秋谷りんこ(あきや りんこ)
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