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掌編小説:オーロラちゃん【6015文字】

「あー、引っ越しって疲れるなー。一人分でも、この荷物の量か……」

俺は、部屋に山積みにされた段ボール箱を見下ろし、思わずつぶやく。段ボール箱には引っ越し業者の名前が記載されており、その業者の人たちがようやく荷物を全て運び終え、今帰ったばかりなのだ。
もう夜の7時だ。

「腹へったなー」

そういえば昼めしはコンビニのおにぎりだけで済ませてしまった。
がっつり肉食いたいなー。

水道と電気は今日中に使えるようにしてもらえたが、ガスがまだ通っていない。
仕方なく俺は外へ出て、近くのコンビニまで歩いた。

新しい街。これから始まる大学生活。
心配もあるが、知らない土地で暮らし始めるのは新鮮な気持ちだ。

俺は、地元にもあった大手のコンビニがよそよそしく見える気がして、気持ちが浮ついてるなーと実感した。
でも大手コンビニのラインナップは地元と大して変わらず、俺は高校時代からお世話になっていた焼き肉カルビ弁当を買って、コンビニで温めてもらって、帰って食べた。



引っ越して3日目、ようやくガスが使えるようになった。
ガスが使えないとお湯が出ない。
春休み中で良かったと思った。シャワーも使えなかったのだ。
こんなに不便なのか、と当たり前の生活に感謝した。

湯船に湯をためる。

一人暮らしを始めるとき、物件探しで譲れなかったのが、風呂トイレ別という条件だった。
ワンルームはだいたいユニットバスだ。
俺は湯船に浸かるのが大好きだ。
何とかほかの条件を妥協し、風呂トイレ別で、大学にも近いアパートを見つけた。

湯がどぼどぼ流れ湯船にたまっていく。
風呂の湯というのは、なぜか良い匂いがする。

湯気に関係しているのか、湯の量に関係しているのかわからないが、この匂いも、風呂でリラックスできるひとつの要因ではないか、と俺は勝手に考えている。

湯がたまったので、さっそく浸かる。
さっと体を洗って、足からゆっくり浸かる。

「はぁーーー」

おっさんのような声が出てしまうのも仕方ないだろう。
引っ越して初めての風呂なのだ。本当に気持ちいい。
風呂の文化のある国に生まれて良かったなーなどと大げさなことを思いながら、風呂の湯を手ですくいばしゃっと顔を洗う。気持ちいい。

それはそうと、少し太ったかな、と浴槽に浸かる自分の体を見下ろしていたとき

「ん? なんだ?」

何か湯の中で一瞬光ったように見えた。

ゆらゆらと長い何か。

半透明の水色と紫、うすピンク。そんな色に見えた。

光の加減かな?

俺はそれ以上は気にせず、もう一度体をしっかり洗い、髪も洗い、もう一度湯に浸かって、その日の風呂を済ませた。



翌朝。

寝起きで喉が渇いていたので水を飲んだ。
グラスに水道水を一杯入れて、半分ほど飲んだ。
飲み残した水の入ったグラスをテーブルに置く。

引っ越しの荷物を片付けなくちゃいけないよなーと思いつつ、何から手をつけたらいいのかわからない。とりあえず大学で必要なものは出しておくか。その前に何か食おうかな。

そう思ってグラスに手を伸ばしたとき、何か光って見えた。

「あれ? なんだ?」

水の入ったグラスを横から見ると、明らかに光る何かがゆらゆらしている。

おい、今俺これ飲んじゃったよ。異物混入ってやつか?

困惑しながらも、その光る何かはあまりにも美しくて、魅入られた。
それは、グラスの端に行ってもぶつかるわけではなく、そのままグラスを突き抜けるように消えてしまう。そしてまたグラスの端から現れる。

つまり、それは水の中に入っているというより、水があることで可視化できる何か、であると思った。



俺はグラスに水を足してみた。
見える。水が増えると、見える範囲が増える。
やはり水があることで見える何かだ、と思った。そこで初めて昨日風呂で見たものを思い出した。

風呂の中で見たものに似ている。水色、紫、うすいピンク。それらの色がグラデーションになって、ゆらゆらと水の中に浮いているのだ。オーロラのような、虹のような、半透明のゆらゆらした何か。何だろう。



簡単な朝食をとり、引っ越しの片付けを少し進めて、久しぶりに地元の友達に電話をする。

「なんだよ、それ、気持ち悪いな」

水の中にオーロラみたいなものが見える、と話すと、第一声がそれだった。

「気持ち悪い感じじゃないんだよ。すげえきれいだし、思わず魅入っちゃう感じなんだよ」

「引っ越しで疲れてるんじゃねえの?まだ春休みで大学も始まってないから、家に引きこもってるんだろ?息抜きしろよ」

「引っ越しは疲れたけど、このきれいなオーロラのおかげで俺は逆に元気だぜ」

俺はガラス製のボウルに水を張りオーロラの見える範囲を増やし眺めていた。

「まじで心配なんだけど。見え続けるようなら一回病院行けよ。目の病気かもしれないし」

「あぁ、そうだな。ありがとう。でも、大丈夫そうだ」

「うん。まあ、あんま無理すんなよ。またなんかあれば電話くれよ。こっちは今んとこ暇だからよ」

大学へは行かず地元に残り実家の農家を継ぐと決めた友達は笑った。
俺は礼を言って電話を切った。

このオーロラは目の病気なんかじゃないと思うんだけどな。

俺は、見える範囲が広がって長く広く揺蕩うオーロラにますます魅了された。



俺はその日の風呂を楽しみにしていた。風呂に湯をため、さっそく眺めてみる。ある。やっぱりオーロラがある! 俺は急いで部屋へ戻り、ボウルを覗く。
ない! ボウルの中にはオーロラがない。
オーロラは同時多発的には発生しない。そのことがわかった。

俺はオーロラに遠慮しながら、その日も湯に浸かった。
オーロラは俺が浸かって狭くなった湯の中でゆらゆらと動いていた。



俺は毎日ボウルに水を張り、オーロラを観察することが日課となった。

「オーロラちゃん、今日もきれいだね」

話しかけたりしてみる。

何日かたって気付いた。よく見ると、帯状と思っていたが、細い線の集まりのようだ。

細い細い線。



何かに似ている。何だろう。これは。

既視感がある。



髪の毛?



そうだ、髪の毛だ。

色はオーロラのようだが、長い髪が水の中に揺蕩う光景に似ている。

体育の授業のとき、水泳キャップが脱げて、女子の長い髪が突然水中に放たれる光景は、俺をどきっとさせたものだ。

これが誰かの髪の毛だとしたら、その持ち主はきっときれいな人だろうな、と勝手に想像した。



俺はもっと広い範囲でオーロラが見たくなり、金魚を飼うような四角い水槽を買った。
水を入れて、ボウルから少し離して置いてみる。
ボウルに見えていたオーロラは消え、その瞬間水槽の中に現れた。

いつもより長く見える。

きれいだ。

色も心なしか濃くなっているように感じる。
水槽が広くなった分、動きも大きくなった。

右へ左へ、上へ下へ、ゆらゆらと揺蕩う。
水色、紫、うすピンク、光沢を伴う半透明の髪の毛のような何か。

きれいだ。

「オーロラちゃん、広くなって良かったね。気に入った?」

俺はすっかりオーロラのとりこだった。


ある日、俺はいつものようにオーロラを眺めていた。
オーロラが水槽の中でするっと回転するように動いたそのとき、オーロラの流れの真ん中に一瞬白っぽいものが見えた。

え?

目を疑った。

目の病気か?
俺はおかしくなってしまったのか。

でも、確かに見えた。
一瞬見えたのは、確かに……

美しい女性の横顔だった。

息を飲むような美しさだった。今まで出会ったことのないような、神々しい横顔。

見間違いだったのかもしれない。
目の病気どころか、もしかしたら、脳の病気かもしれない。

でも、俺は一瞬見えたその横顔が、脳裏に焼き付いて離れなかった。



その日以降、オーロラは見えるが、真っ白い横顔は一度も見えなかった。
やっぱり見間違いだったのか。
大学生活も始まって少しずつ忙しくなってきた。

でも、俺は水槽の中で揺蕩うオーロラを眺めて思う。
もう一度、もう一度見たい。
もう一度、あの横顔の人に会いたい。

その思いは強く胸を焦がすのだった。



あるとき、テレビをだらだら流し見していると『豪華芸能人のお宅拝見』というコーナーで、有名俳優の自宅が公開されていた。
俺は思わず画面にくぎ付けになった。
俳優が気になったのではない。

その俳優の部屋には、巨大な水槽が置いてあるのだ。

「それにしても、この水槽は立派ですね」

リポーターも水槽に注目している。

「高さ1m、横幅2m、奥行き60センチ。オーダーメイドなんですよ。ちょっとこだわっちゃってね」

「お値段どのくらいするんですか?」

「あはは。そこまで聞いちゃう?そんなに高くないよ、水槽だけなら30万くらいかな。浄水の装置いれるともっとするし、中で泳いでる魚ちゃんのほうがよっぽど高いけどね」

俳優は自慢げに笑っている。リポーターは魚の値段まで聞き出そうとしている。

でも俺は魚なんてどうでも良かった。

オーダーメイドであんなに大きな水槽が買えるのか。



30万。仕送りをしてもらっている大学生の俺には簡単に出せる金額ではない。

でも、あの大きさの水槽があれば、またあの横顔の女性に出会えるかもしれない。

俺は毎日この胸を焦がすあの横顔のために、何でもしよう、と決めた。



それからの俺は、大学にろくに顔も出さず、バイトにあけくれた。

昼間は日雇いの肉体労働、深夜はコンビニ、どちらも休みの日は食事のデリバリー配達。かけもちしてとにかく金をためた。大学で新しくできた友達が合コンに誘ってきたが、金が惜しくて行かなかった。地元の友達から「大学始まってどうだ? 元気か?」と連絡がきたが、適当に返事をして流した。



バイトの合間、巨大水槽のオーダーメイドを扱っている店に相談に行った。

俺は縦長の水槽がほしいと言った。

「縦長ですか、珍しいですね。安定性が不安なので、水槽を置く台を大きめにしたほうがいいですね」

「はい。よろしくお願いします」

「あと心配なのは、水槽に水を入れたときの重さですね。賃貸のアパートとなると、床がそこまで補強されていないので、重いものを常時置いておくことに耐えられるか」

そうか。水は重いのだ。

でも、常時水を入れておかなくても、オーロラは小さな水槽の中でも見える。
一時的に水を入れて、また水を出せばいいのだ。

俺は、アパートに置くのは一時的で、すぐに実家に運ぶつもりだ、と嘘をついて購入する方向で話を進めた。

水槽の高さ、土台の大きさなど話し合い、40万円ほどかかることになった。

俺は大学には全く行かず、バイトに精を出した。


ようやく金もたまり、水槽も完成し、納品されることになった。
この日のために引っ越しの段ボールに入っていた荷物たちは全て片付けた。

狭いワンルームに、高さ2m、幅1m、奥行き60センチの巨大水槽が設置される。

もはや、水槽とベッドだけに占拠された部屋となった。



俺は緊張しながら、ホースで水を入れ始めた。

少しずつたまっていく水。

下から10センチほどたまったとき、オーロラが見え始めた。

急いで小さな水槽を確認するとこっちのオーロラは消えている。

やはり大きな水槽にうつったようだ。

15センチほど水がたまったとき、オーロラの間に白いものがちらっと見えた。

俺はホースを固定して、オーロラの観察に集中する。



白いもの。

よく見ると



足の爪先だ。



俺はぞわっと鳥肌がたった。

俺の予想は的中したのだ。

この大きさの水槽なら、オーロラの全身が見られる!



水がたまるにしたがってオーロラはどんどん見えてきた。



半透明の細い白い足、脛、膝。体はオーロラ色の薄い布を纏っているようだ。腿、腰、胸、少しずつ見えてくる。俺は興奮と緊張でおかしくなりそうだ。

布を纏った肩、半透明の白い首、そしてあの日見てからずっと焦がれていた顔が見えた。



細い月のようなアーチの、黒目がちの瞳。

長めの鼻。薄い紅色の唇。

水槽内いっぱいにゆらゆらと揺蕩うオーロラ色の髪。

俺を見ている。

たしかに目が合ってる。

高さ2mの水槽の中に、美しい女性の全身が現われた。



恐る恐る近づいて、ガラスに右手をあててみる。

ひんやりと冷たい。

女性もゆっくりと手を伸ばし、ガラス越しに二人の手が合わさった。

俺は高揚していた。

俺は両手をガラスにあてた。

女性もゆっくりとガラス越しに俺と両手を合わせた。

じっと見つめあう。

「オーロラちゃん……」

勝手に呼んでいた名前をつぶやいたその瞬間、俺はオーロラちゃんを本気で好きになった。

オーロラちゃんも俺を愛してくれている。だから姿を見せてくれたんだ。

興奮と緊張と喜びで息があがる。

俺はもう我慢できなかった。

ガラスに唇を寄せた。

オーロラちゃんはその美しい半透明の頬を若干紅潮させたように見えた。

水槽の中で少しだけ体をくねらせて、輝く髪が揺れる。

あぁ、きれいだ。

少しの逡巡ののち、オーロラちゃんもガラスに唇を寄せ、二人はガラス越しに口づけを交わした。

俺は、もう水槽から水は抜けない。



俺は大学へも行かず、バイトもやめ、毎日オーロラちゃんと過ごした。

ガラス越しに手を合わせ、何度も口づけを交わした。

オーロラちゃんは水槽の中で美しい髪を揺らしながら自由に泳ぎまわり、ときどき纏っている布から真っ白い腿や胸元をのぞかせた。

もっと見たい。触れたい。あの美しい肌に触れたい。

俺の欲求は高まる一方だった。



あるとき、水槽の内側を掃除しようと手をいれると、そっと冷たい感触がした。

え?

見ると、オーロラちゃんが俺の手を遠慮がちに触れていた。

え、触れられるのか!

風呂に入ってオーロラちゃんを見つけたときから、一度も触れられたことはなかった。

髪の毛だけだったからか?

いや、でも今までも掃除をしたことはあったが、触れられたことはなかった。

もしかして、毎日一緒にいることで、オーロラちゃんが触らせてくれる許可を出してくれたということか!

俺は自分の愛情と、つのっていた欲望が内側で爆発する音を聞いた。



何も我慢する必要はなかった。

俺は掃除用の脚立の一番上に登り、ゆっくり水槽の水に足をつけた。

俺が水槽に入ろうとするのを見て、オーロラちゃんは水中でくるくる泳いで喜んでいる。

俺もだよ、俺も嬉しいよ。

ゆっくり足から浸かっていく。

水は冷たいが、それより喜びが勝っている。

水槽から水がダバーっと溢れ部屋が水浸しになる。

俺はゆっくり全身水に入ると、オーロラちゃんと向き合った。

オーロラちゃんははにかみながら、ゆっくり俺に体を寄せてきた。

俺はオーロラちゃんの体を抱き寄せ、初めてガラス越しでない口づけをした。

オーロラちゃんの冷たい唇は柔らかくて、気が変になりそうなくらい気持ちよかった。


俺はもう、水槽から出られない。

そう確信して、また強くオーロラちゃんを抱きしめた。






【昨夜、東京都○○区のアパートの一室で男性の遺体が発見されました。遺体はこの部屋に住む、大学生の片山右男さんとみられており、死因は溺死とみられています。片山さんの部屋には、高さ2m、幅1mほどの巨大な水槽があり、その中で遺体は発見されたということです。警察は、自殺や事故の可能性も視野に、詳しい状況を調べています。】


《おわり》

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秋谷りんこ(あきや りんこ)
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