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「黄昏スパナ」④/⑥
「んまぁ~!!」
有の母親はいつものエプロン姿ではなく、部屋着で出てきて、ルカを見るなり大きな声を出した。有の家族は店の2階に住んでいる。
開店前で悪いとも思ったが、3歳の女の子を独身の、それもわりといい加減なタイプの男ふたりで1日面倒を見られるはずもなく、俺たちは有の母親に助けを求めたのだ。
「かわいい子ね~!!え?葉山さんの連れ子なの?言われてみればちょっと似てるわね。え、違うの?どちらにしても、かわいいわ~!」
俺は事情を説明し、俺たちだけではどうしようもなく、ここに来るしかなかったことを伝えた。
「あらー。大変だったわね。あなたたちだけじゃ、そりゃ無理よね。」と笑われる。
有の母親はルカに目線を合わせるように屈み、話しかける。
「お名前、何ていうの?」
「ルカ。」
「あらーいい子ね。こっちおいで。」
ルカはゆっくり歩いて有の母親のほうへ近づいた。
有の母親はそっとルカの頭を撫で、「いい子ね。」と微笑んだ。
その瞬間からルカを纏っていた緊張感が緩んだ気がした。
母親の手というものは、不思議な力があるのだろう。優しく触れれば世界一穏やかな魔法になり、厳しく叩けば世界一残酷な仕打ちになる。有の母親は前者だ。母親の手と言葉には、不思議な力を感じる。
「ルカちゃん、朝ごはん食べた?」
有の母親が優しく聞く。そうか、俺は食事の心配すらできていなかった。
「まだ。」
ルカが首をふって答える。
「じゃ、お腹空いたね。今ごはん作ってあげるから、座って待っていてね。アレルギーはないのかしら。」
有の母親はルカを椅子に座らせ、「あなたたちも食べてないでしょ?」と言って有の頭をぐしゃっと撫でた。ルカにしたのと同じような、優しい手つきだ。
「食べてないよー。お腹すいた。」という有の言葉を聞いて、有の母親は「はいはい。じゃ、みんないい子して待っててね。」と言い、厨房へ入った。
「どうしたんだ?」
有の兄貴も店に降りてきた。事情を説明すると笑って「葉山さんは、なかなかプレイボーイなんですね。」と言われた。
「いや、お恥ずかしい。」
確かに俺は恋愛にだらしない男だ。恋愛に限らず、仕事以外はどうでもいいと思って生きてきた。他人に迷惑さえかけなければ、あとはどうでもいいと。
じゅーじゅーという音といい匂いが漂ってきて、俺は自分も腹が減っていたことに気付く。
「はい、できたわよ。子供用だからいつもより味薄いけど、我慢してね。」
有の母親がチャーハンを運んできた。
ひとくち頬張ると、いつもより脂が少なく、味が薄めでさっぱりしている。いつものチャーハンもうまいが、これはこれで朝食にはぴったりだ。
「うまい。」思わず口をつく。
テーブルの向かいに座っているルカがスプーンを器用に使ってチャーハンを口に運ぶ。
そして「おいしい」と笑った。ルカが初めて笑った。
「おいしいかい?よかった。ゆっくり食べるんだよ。」
そう言って有の母親はまたルカの頭を優しく撫でた。
有の兄貴が人数分の温かいほうじ茶を淹れてくれる。
俺は、美味しい食事の大切さを改めて感じる。温かい食事。人と食べる食事。美味しい食事。俺が最近まで知らなかったこと。
「それでさー、あの図々しい女がいうには、今日1日預かってほしいらしいんだけど、ママン、どうかな?店もあるから厳しい?」
有がチャーハンをペロッと平らげ、母親に尋ねる。
「何言ってるの、有ちゃん。あなたたちだけで大丈夫なわけないでしょ。今日は臨時休業よ。」
「え、店大丈夫なの?」
「いいのよ、たまには。孝ちゃんだってたまには休まないとね。」
孝というのは有の兄貴の名前だ。
「そうだ、ルカちゃん、今日はおばちゃんたちと、動物園行こうか?」
有の母親が、ゆっくりチャーハンを食べ進めているルカに言うと、ルカは驚いたような笑顔を見せた。
「ルカ、動物園、行きたい!」そう言ってスプーンを動かす手を速めるから、有の母親に「大丈夫よ、ゆっくり食べてから行こうね。」となだめられた。
「いいんですか?お店休んで、動物園まで連れていっていただいちゃって。」
俺はさすがに迷惑じゃないかと心配した。
「いいのよ。私、孫がいないから、こんな小さな女の子と1日遊べるなんて、嬉しくてたまらないわ。」有の母親は少し遠い目をして、微笑んだ。
朝ごはんを終え、さっそく出発する。
俺は行かないつもりだったのだが、有が「動物園久しぶりだなー!楽しみ!」と燥いでいるから、一緒に行くのか、と思い、そりゃ自分が連れてきた子供をたらいまわしみたいに人に預けるのは良くないよな、と自分の不人情具合を改めて感じた。有と一緒にいると、俺ばかりが冷たい人間のように感じるときがある。
電車でひとつ隣の駅に小さな動物園がある。あるのは知っていたが、来るのは初めてだ。
公益財団法人が管理している動物園で、入園料は無料だった。
ルカはすでにすっかり有の母親に懐いて、手をつないで歩いている。俺は本当に、有の母親に頼って良かったと思った。
動物園は小規模ながら、象やライオン、きりん、しまうま、ペンギンなどたくさんの動物を見ることができ、ふれあいコーナーではウサギやモルモットなどの小動物と触れ合えた。
ルカはウサギをそっと撫で、モルモットを膝に乗せ、楽しそうにしている。ルカは俺たちよりも有の兄貴に懐いて、有の兄貴もルカの写真を撮ったりして、とても可愛がってくれている。俺と有は少し離れたところからその光景を眺める。
ふと疑問に思ったことを有に聞く。
「有の兄貴は、結婚してないのか?すごくいい人そうだし、ノンケだろ?」
「あ、ああ、兄貴なら、結婚していたんだよ。」
「していた?」
「うん。お店も、奥さんも一緒にやってたの。けど、亡くなっちゃったんだ。病気で。あっという間だったよ。俺はもう再婚してもいいと思うんだけどね。兄貴が、嫌みたい。先に逝かれるのは、そうとう応えるからって。」
俺はしばし言葉が見つからなかった。
陽だまりの中、モルモットを膝に乗せて嬉しそうにそっと撫でているルカと、隣に座ってぴったりと身を寄せている有の母親、笑いながらルカの写真を撮る有の兄貴。どこから見ても家族のように見えた。
「私、孫がいないから」と言った有の母親の言葉が今になって俺に重く響いてくる。コロコロと笑い明るい有の母親。いつもにこやかで穏やかな有の兄貴。厨房で美味しい料理を作り、お客さんに愛され、家族から信頼されている優しい長男。
「ねえ、英二、三毛猫博士のこと知ってる?」
「え?なんだそれ。」
「知らない?うちらが住んでるあたりにいるらしいんだけど。」
「都市伝説の類か?」
「いや、本当にいるらしいよ。」
有の会話は飛び飛びで、急に話が変わるのはいつものことだが、三毛猫博士とはなんだ?
「三毛猫博士ってのはね、もともと研究所で働いてた博士がいてさ、結婚して、奥さんができるの。けど、奥さんが病気で死んじゃったんだよ。そんで、その奥さんが死ぬ前に『私が死んだらしっぽのきれいな三毛猫に生まれ変わるね』って言ったんだって。」
妻が亡くなる男の話として、繋がっていたようだ。
「そんで、その博士は、奥さんが亡くなっちゃった悲しみのあまり、しっぽのきれいな三毛猫探しを始めるの。」
「奥さんの生まれ変わりを探しているのか?」
「そう。非科学的な話でしょ?博士のくせに。でも、信じちゃってるんだよ。僕が聞いた話だけでも、100匹くらいの三毛猫飼ってるらしいよ。」
「100匹?!」
「そう。妻のことだからしっぽをきれいにし忘れるかもしれないって言って、普通のしっぽの三毛猫も全部、見つけたら保護しているんだって。もともとお金持ちで豪邸に住んでるらしくて、家中猫だらけ。まさに猫屋敷だって。」
「本当の話なのか?」
「僕の友達は猫屋敷に行ったことあるって言ってたよ。小学校のときだけどね。なんかさ、夫婦って不思議だよね。特別なんだろうね。うちのママンだって、蒸発したクソ親父のこと、今でも悪く言わないしさ。なんだかね。人生ってミステリーだよね。僕には一生わかんないんだろうな。」
そう言って有はルカたちのほうへ歩き出した。
俺はその輪には入るべきではないのだろう、と思い、ひとりで木陰から家族を眺めた。
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