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小説「世界を愛するには何もかもが足りなくて。」全文後編
19回にわけて投稿していた小説の全文です。加筆修正はしていません。
【カヨ】
今、直くんは確かに哀ちゃんの手を握った。
青く美しい沼を挟んで斜め左奥、狭い展望デッキに2人きりでいるのを見つけてから、私は目の前の真っ青な沼など全く見ていなかった。遠目で見ていてもはっきりわかった。今、直くんは確かに哀ちゃんの手を握った。
何を話しているか、会話までは聞こえない。読唇術の持ち主でも、この距離ではさすがに読めないだろう。でも、何か優しいことを話していることだけは、わかる。
いつだって、直くんは哀ちゃんにばっかり、優しいんだから。
2人を注視しながら思い出す。今朝の朝食のときのこと。バイキング会場の少し離れたところで、うーさんと哀ちゃんが2人で話しているのを、直くんは席からずっと見ていた。
片手にコーヒーカップを持ったまま、全く動かず、不自然なほどに見つめているのに、自分では無意識なのだろう。そういう私も不自然なほど直くんを見つめているのだから、まわりから見たら私たちは、おおよそ同じ時間軸を共有しているとは思えない、時間という概念を無視した2人に見えただろう。お互いの視線は常に一方通行で決して絡むことはない。
それでもやっぱりもう少しだけ、この人のことだけを想っていたい。そう思って、この体は今日も焦がれているのだ。
離れた展望デッキの2人は、手こそ放したものの、楽しそうに話しているように見える。大自然の中、きらきらした太陽に照らされた2人は、塔に閉じ込められた姫と、姫を助けにきた王子のようではないか。姫と王子はハッピーエンドと相場が決まっている。今から私が姫になるには、あと何をすればいいのだろう。自分の立つ多人数用の展望デッキの柵を握ると、朝露で濡れていて、じゅわっと手が湿った。
唯一の救いは、当の哀ちゃんに姫の自覚がないらしいことだけか。おそらく哀ちゃんは、直くんに好かれているなんて、全く気付いていない。誰かに愛されていると自覚しているとは、思えない。
昨日、哀ちゃんと2人で温泉に入った。並んで露天の岩風呂に浸かる。入浴客はなく、2人だけだった。
「ねえ、カヨちゃんはこの世に生まれてくるか来ないか、選べるとしたら、生まれてきた?」
哀ちゃんは頭にタオルを乗せ、肩に湯をかけながら聞いてきた。華奢な鎖骨を湯が流れる。
「うーん、どうだろう。生まれてきたかな。人生って大変なこともあるけど、生まれてこなきゃ・・・」
生まれてこなきゃ直くんと出会えなかった。私は絶対に生まれてきて、直くんと出会いたい。
「生まれてこなきゃ、こうして哀ちゃんと温泉にも入ってないからね。」
口に出せない思いは私のどこに溜まるのだろう。
「ふふ、そうだね。」
「哀ちゃんは?」
「うーん。私は、生まれてこなかったみたいなふりして、こっそり生きていきたい。」
メイクを落として中学生みたいな幼い顔になった哀ちゃんは、少し微笑んでから遠くを眺めて、またその痩せた肩に手ですくって湯をかけた。あの顔は、誰かに愛されていることに気付いている顔ではない。そんな自信のようなものを、哀ちゃんから感じたことは、一度もない。
哀ちゃんは痩せている。胸もお尻もぺたんこだ。美人だけど、色っぽくはないと思う。「そそる」体ではない。
体では負けてない。努力だって、惜しまない。
私は昔からふくよかだった。大人になってからは太らないように気を付けて、胸とお尻だけはふっくらするように、体形の維持に気を付けている。おやつは基本我慢。哀ちゃんのように、あんな勢いで鈴カステラなんて食べたらあっという間に体重が増える。
今回の旅行のためにジムのトレーニングメニューも増やして、体重を2kg落とした。この年になってからの2kgはそう簡単には落ちない。ただ痩せれば良いというのではない。見られたときにキレイに見える体でなくてはいけないのだ。ウエストまわりと足は細く、胸とお尻はふっくら感を保ちつつ垂れないように、筋トレと有酸素運動の両方が必要である。
旅行が決まってからエステにも行った。痩身エステと美顔エステ。美容院も行って、カラーとパーマを一番流行しているというものを選んでもらった。新しい旅行鞄も買った。服も下着も全て新調した。下着は本当に悩んだ。攻めすぎず、でもちゃんと欲情を掻き立てられるような色とデザイン。急に部屋のドアを開けられてしまったとき、などシチュエーションも想定して、後ろ姿もキレイに見えるように、家で1人姿見の前で何種類も買った服と下着の組み合わせを何度も着替えながら試着した。
この旅行のために、トータル何十万使ったのだろう。全てカードの分割払いだ。自分で働けばいいだけのことだ。そんな労働などなんてことない。いくらでも頑張れる。
私は、ただ1人の男の人の視線のためだけ頑張っているのだ。ただ1人にいつか触れられることだけを焦がれて、この豊かな胸も肌も髪も、もう何年も待っている。
真っ青な沼を撫でるように吹いた風が私の長い髪を揺らし、視線を遮る。「もう見ないほうがいいんじゃない?」そう言われているようで癪だ。
あの痩せた美人の友人を、今私の好きな人が手を握ったあの友人を、心底憎めたら私はもっと幸せなのだろうか。
「カヨ、あっちに沼が何で青いか書いてあるよ。」
私の胸中など知る由もないうーさんが、沼の成り立ちが書いてあるらしい看板を見つけたようだ。職場でもプライベートでも穏やかで少し呑気なうーさん。うーさんみたいな人を好きになっていたら、幸せになっていたのかな、とふと思う。穏やかな家庭、穏やかな結婚生活、穏やかな老後。
「うーさん、結婚って幸せですか?」
え?と振り向く呑気な私の上司。
「どうしたの、急に。カヨ、いいお相手見つかったの?」
「いや、そうじゃないんですけど。いつかは結婚したいなって願望はあるので。」
「そうね、結婚ね。幸せだよ。まあ、喧嘩もするし、1人の時間がないとか、お金が自由にならないとか、言い出したらいろいろあるけど、まあ、それ以上のものが得られるんじゃないかなあ。娘も可愛いし。」
「そうですか。うーさん、良い旦那さんぽいですもんね。奥さん幸せですね。」
そう言うと、うーさんは一瞬間を置いて「だといいな。」と笑った。
「結婚願望あるのはいいけど、カヨはお人好しだから、変な男に引っかからないように気を付けるんだよ。」
「え?」
何か、ずんと刺さる感覚がした。
「私、お人好しですか?」
「お人好しだよー。面倒見が良くて、自分のことよりまず人のことを考えるタイプでしょ?優しくてカヨの長所だと思うけど、そういうところにつけ込む悪い男もいるから気を付けてね。なんて、あんまり言うとセクハラとか言われちゃうから、私も気を付けないとな。」
笑ううーさんに合わせて笑顔を作ったが、お人好しという言葉は妙にぐっさりきた。
私はお人好しだから、波風を立てられない。丸く収まるのが好き。争い事は苦手。
そういうことを避けてきたから、私はもういい大人なのに、好きな人の心にさえ、何の波風も立てられない。私はお人好しじゃなくて、ただの臆病者だ。
看板には、この辺りの湧水に含まれるアルミニウムの微粒子が青い光を多く散乱させるため沼は青く見える、と書いてあった。意味はよくわからなかった。
展望デッキを出ようとしたとき、ようやく直くんと哀ちゃんがやってきた。
「あ、2人ともやっと来た。沼見ておいで、すごくきれいだったよ。」
うーさんが声をかける。やっぱりうーさんは狭い展望デッキに2人でいることには、気付いていなかったようだ。私は自分の勘の良さが嫌になる。見ない方がいいことも、この世にはきっとある。
「あっちにも展望デッキがあって、そこで見てたんです。」と直くん。
手、つないでたの、見えたよ。
今そう言ったら、少しは直くんの心に波風を立てられるのだろうか。
直くんはそんな私には全く気付かず「あっちに滝もあるんですよ。行きましょう。」と歩き出す。
私は、何か言いたそうな素振りすらできず、3人について滝へ向かった。
滝は30mくらいの高さから岩肌を削るような勢いで岩にぶつかりながら流れ落ちていた。白い飛沫を立てて、ざざーという大きな音とともに荒々しく、全てを飲み込むように滝つぼへ流れ落ちる水。もっと静かで優雅なものを想像していたから驚いた。自然は逞しく、ときに暴力的なまでに人間を圧倒する。その威厳は確かに美しい。
「おーなかなか見事だな。」
うーさんが滝の音に負けじと声を張る。
うーさん、哀ちゃん、直くん、私の順に並んでいるから、うーさんの声は少し聞きにくい。
「ほんま、パンフレットで見たよりすごいですわ。良かった。観光名所って、実物見たらガッカリってこと、たまにありますからね。これはすごいわ。」
直くんは旅行幹事として、ガッカリ名所にならなくて安心しているようだ。
「水のある景色って本当にきれいね。私、水って好きだわ。私、子供のころ、海で溺れたことあるのに、水泳得意なんだよ。」
滝の飛沫でうっすらと湿り艶を増した哀ちゃんの黒髪。直くんのほうへ向いて笑う。
「ねえ、いつか還るとしたら、土派?水派?」
「なんやその派閥。どういう意味?」
「いつか土に還るか、水に還るか。人間ってどっちかだと思うんだよね。」
哀ちゃんは独自の理論を語りだす。うーさんは聞こえていないのか、話に入ってこない。
「哀ちゃんは水ってこと?」
「うん。断然、水。」
そう言って哀ちゃんは滝を見つめる。私は考える。いつか還りたい場所なんて、考えたこともなかった。
「僕は、土だな。」
直くんが珍しく小さな声でつぶやいた。滝の轟音の中、そのつぶやきは繊細な心の奥底から微かに漏れてしまったように儚げで、私にしか聞こえてなければいいと思った。
いつか直くんが土に還るなら、私はそこに木を植えて、丁寧に育てよう。豊かな葉が茂り、香る花を咲かせ、紅葉し、落葉してまた新芽を芽吹かせる。私はその木を守り、永遠に巡る季節をその木とともに愛でていたい。
「私はどこにも還らない。」
誰にも聞こえないようにつぶやく。私はずっと直くんのそばを彷徨う。地縛霊のようだな、と自分でも不気味に思うけれど、本心だから仕方ない。直くんには届かない私の声。すぐ近くにいるのに、こんなに遠い。
「ねー直樹だったら、この滝でどんな小説書く?」
哀ちゃんが直くんに話しかける。これはこの2人がよくする会話で、この会話のおかげで、直くんが脳内でどんな小説を想像しているのか、知れるのは嬉しい。
「うーん。身分の違う2人が愛し合って、でも結ばれないから、駆け落ちするときに、この滝を通るとか。」
「うわー、ロマンチックというか古風というか。」苦笑する哀ちゃん。
素敵だよ、と私は思う。読んでみたいよ。
「身分の違う2人っていうのはちょっと時代錯誤かもしれないな。」
うーさんも笑う。
「哀ちゃんはどうすんねん?」
「うーん、私なら、ここで滝行している人がいて、修行頑張るぞっていう人は大丈夫だけど、修行つらいな、やめたいなって人は、この滝の中からものすごい数の手が出てきて、滝の中に引きずり込まれちゃう話にする。」
「らしいなー」と笑う直くん。
「夢に見そうだ。」とうーさん。
以前うーさんは「哀ちゃんの小説を読んだけど、不気味なだけで意味がわからなかった。」と私に言った。「哀ちゃんには言わないでね。」と笑いながら。でも、うーさんは全然わかってないと思う。哀ちゃんの小説は、ただ不気味なだけのダークファンタジーじゃない。
苦しいとか、怖いとか、痛いとか、人間の根本的な苦痛と、それから逃げたい、楽になりたい、苦痛を抱え込んででもやっぱり生きたい、とか、そういうたくさんのテーマが込められているんだ。
私は哀ちゃんの小説のファンだ。昔から読んでいたし、直くんが作家になって、親しくなってからも、やっぱり哀ちゃんの小説はおもしろいと思う。直くんの小説ほど有名にはならないかもしれないけれど、コアなファンは確実にいる。
私は、哀ちゃんの小説を読んでいなければ、もしかしたら哀ちゃんを嫌えたのかもしれないな、と思った。私の方が直くんと付き合い長いんだから、邪魔しないで。そう思えたのかもしれない。でも、哀ちゃんの小説の登場人物は、私自身が持つ悲哀を代弁してくるようなところがあって、それを書いているのが哀ちゃんだと思うと、やっぱり私はこの友人であり、尊敬する作家を、嫌いにはなれないのだ。
こういうところを、お人好しというのだろうか。
滝を見終えた私たちは駐車場に戻る。哀ちゃんはまたお土産店でトイレに行って、うーさんは少し離れたところで煙草を吸っていて、直くんは店先でスマートフォンを見ていた。私は直くんのそばに寄る。
「何見てるの?」
直くんに話しかけるときは、少し首をかしげ、髪を揺らし、少しだけ上目遣いになるようにしてきた。二十代ならまだしも、いい年してそんな癖の抜けない自分がふと恥ずかしくなる。
「この近くに美味しい蕎麦屋があるらしいんよ。このあたり、蕎麦が有名らしくて。やっぱり水がきれいなところはええな。カヨは蕎麦、大丈夫か?」
私、昨日の昼にサービスエリアでお蕎麦食べてたじゃん、哀ちゃんしか見てないから気付かないよね。そう言えたら私は前に進めるのか。
「大丈夫だよ。お蕎麦大好き。有名なら食べてみたいな。」
口を出る言葉は裏腹だ。
「そうやな。哀ちゃんも蕎麦好きやし、うーさんも好きやから、昼はやっぱり蕎麦にしよか。」
スマートフォンでお店の情報を調べている直くんの横顔を見つめてしまう。さらさらの前髪、くっきりした二重、丸い透き通った瞳、きれいな鼻筋、少しぽってりした唇、隆起した喉仏。この横顔の何もかもが完璧だ。完璧な私の好きな男。私の人生を占める男。私の思考を完全に飲み込む、完璧な男。
ふと店に目をやった直くんの表情の変化で、哀ちゃんがトイレから出てきたことを知る。哀ちゃんを見ているときにだけする、特別な直くんの顔。少し目を細めて、眩しいものを見るような顔をする。
哀ちゃんは見られていることに気付いていないようで、どこを見ているかわからない顔をしている。哀ちゃんはよくこの顔をする。心ここに在らず、と言った表情。心をどこに置いてきたのか、自分でも忘れてしまったような表情。空虚な表情。直くんはこういう顔の哀ちゃんも、かわいいと思うのだろうか。
「哀ちゃん、お昼、お蕎麦でええね?」
哀ちゃんはゆっくり直くんのほうを見ると、のろのろと近づいてくる。
「お蕎麦いいね。食べたい。」
哀ちゃんは上目遣いで直くんを見たりしない。髪を揺らすことも、体をしならせることもしない。ただぽつんと突っ立って、背の高い直くんを少し見上げるだけだ。私は、自分の好きな男と、嫌いになれない友人の、このツーショットをいつも外側から眺めている気がする。哀ちゃんがいる空間では、直くんは哀ちゃんしか見ていないから。
いつから哀ちゃんなしで直くんに会うことがなくなったのだろう。思い出す。直くんが作家デビューして、私が哀ちゃんのファンで、あの居酒屋で哀ちゃんを紹介された。あの日を境に、私は哀ちゃんのいないところで、直くんに会うことがなくなったのか。
私はハッとした。私は哀ちゃんがいないと直くんに会えないのか?
哀ちゃんを嫌えないのは、哀ちゃんが友人として好きだからでも、小説のファンだからでもなく、哀ちゃんなしでは直くんに会えないからか?
私は、好きな男に会えなくならないために、その男が好きな女を好きでい続けているということか。そんなのどうかしている。
直くんに振り向いてもらいたくて、その一心だけで私は自分磨きをしてきた。
今回の旅行への準備もそうだけれど、もっと昔から、直くんを好きになったときから、私は直くんのためだけに、自分を美しくする努力をしてきた。
過去には、おかしなダイエットサプリに手を出して、ひどく具合が悪くなったこともあった。蕁麻疹が出て、しばらく下痢も続いた。
バストアップのサプリメントや、乳首をピンク色に保つクリームなんてものも、ネット通販で買った。
いつか直くんに見せるかもしれない、と思いながら自分の乳首にクリームを塗る姿は、惨めさを通り越して滑稽味すらあって、悲劇と喜劇が表裏一体なのはこういうことか、と実感したあとに、いやそれは違うでしょ、と自分にツッコんだりして、私は風呂上りに何をしているのだろう、と笑いたいような泣きたいような気分になった。やっぱりこれは悲劇と喜劇の合わせ技だ、と思って、いや違う、とまた思って、ずっとそんな思考を繰り返して、今思えばあの思考の堂々巡りは、自分が乳首にクリームを塗る行為を冷静に客観視しないための、自己防衛だったのかもしれないな、と思う。
結局、乳首をピンクにしてくれるというクリームは、ピンクどころか肌がひどくかぶれて痒くなってしまい、すぐに使用を中止した。肌が汚いうちに直くんから告白されませんように、と半分本気で思っていたけれど、乳首のかぶれが治ってからもう何年も経った。
お蕎麦屋さんに向かう車内で考える。
私は自分磨きをしている、という蓑に隠れて、結局何もしていない。
お人好し、という言葉に逃げて、結局何も言えていない。
哀ちゃんを友人として好きだから。作家として尊敬するから。それを言い訳にして、私は自分が傷つかないようにしているだけだ。
直くんが電話で予約をしていてくれたおかげで、有名な蕎麦屋は大して待たずに入れた。蕎麦は角がしっかりしていてコシがあり、本当に美味しかった。一番おすすめという天ぷら蕎麦を4人とも注文し、4人ともよく食べた。
私は普段なら食べない天ぷらも全部食べた。私は何か変わらなければならない。いつまでも自分磨きという蓑に隠れて、上目遣いで好きな男にすり寄るだけの幻想は捨てて、現実を生きる一歩を踏み出さなくては。
【直樹】
「え?哀ちゃんと僕が?付き合ってへんよ。」
帰りの高速、うーさんと哀ちゃんの煙草休憩のために寄ったサービスエリアでカヨに突然言われて驚いた。
高く晴れた空が少しずつ暮れていく。水色とオレンジが混ざり合っていく時間。淡い白群色の空気越し、喫煙所で煙草を吸っているうーさんと哀ちゃんが見えた。
「付き合ってるように見える?」
わけないやろ、と思う。哀ちゃんは僕にそっけない。というか、基本的に誰にでもあまり愛想がない。
「いや、付き合ってるように見えたわけじゃないんだけど。」
信じられないほど真顔のカヨ。
「そうやろ。2人だけでご飯食べたことはあるけど、そんな雰囲気になったこと、1回もないわ。」
事実である。何を急に言い出すんやろ、と首をかしげる。遠くで何かの鳥の声がした。
「でも、直くんは、哀ちゃんのこと、好きでしょ?」
「え?」
思わずカヨを見つめてしまった。数秒の間、どうすればいいか考え、僕は情報番組の収録で見せるような笑顔を作って見せた。
「ご想像にお任せします。」
真顔だったカヨはここで、はあーっとため息をついてから少し笑って「そうきたか」とつぶやいた。
「何でそう思った?その、僕が哀ちゃんを好きって。そう見える?」
「うん。直くんの態度は、そう見える。前から思ってたけど、昨日今日で確信した。直くん、哀ちゃんばっかりに優しいし、哀ちゃんのことばっかり目で追ってる。」
そう思われないように気を付けているつもりだが、態度に出ていたなら無意識だ。
「そうか?僕は世の中全ての女性に優しくするのがモットーやで。それで世間の好感度保ってんねんから、変なこと言わんといて。」
笑い飛ばせているだろうか。
「カヨの考えすぎと思うで。だって、そんなにあからさまに態度に出てたら、哀ちゃん本人がそう思うはずやろ。哀ちゃんは僕に恋愛として好かれてるなんて、1mmも思ってへんで。」
ちょっと饒舌すぎるな、と自嘲する。
喫煙所のほうを見ると、まだ煙草を吸っている2人が見えた。やたら平和なその景色。遠目でも、どんな表情をしているか想像のつく哀ちゃんのその横顔。
カヨもつられて喫煙所のほうを見て「直くんと付き合ってないなら、哀ちゃんって彼氏いるのかな。」と言った。
「おらんと思うよ。けっこう前やけど、哀ちゃん好きな人おらんの?って聞いたら、いるけど誰かは絶対に教えてあげない、って言われて、なんやマジな顔してたからそれ以来聞いてへんけど。」
それも情けない話だが、僕は自分と哀ちゃんの今の関係を壊したくないだけだ。一番親しい男友達。その位置が哀ちゃんにとって心地いいなら、僕はそれが一番いい。
「まあ、僕は哀ちゃんの好きな人が誰であろうと、友達としてずっと近くで見守っていたい存在ではあるかな。そういう意味では、友達として、好きってことやな。なんていうか、哀ちゃんってちょっと危なっかしいやろ。何しでかすかわからんっていうか。」
「あーそれはすごくわかる。守ってあげたいとかじゃなくて、逆に強烈な起爆剤抱えてるから、爆発しないようにしてあげたい感じね。」
「そうそう、そっか。その感覚が似てるから、僕もカヨも哀ちゃんと友達やってられるのかもな。哀ちゃんって友達少ないやろ。愛想もないし。」
ふふっと笑ってからカヨは「でも」という。
「でも、友達として見守ってるだけじゃ、守り切れないこともあるんじゃないの?ちゃんと言葉で伝えないと、伝わらないこともあるよね。まあ、私も自分のことは棚上げですけどね。」と笑って言ってからカヨは、空に向かって「やっぱり私には無理だ」とつぶやいた。
棚上げとか、私には無理とか、何の話やろ?と考えて、ふと思い当ることがあった。
「そうや、カヨ、例の彼氏と結婚せえへんのか?棚上げって、そのことやろ?」
「例の彼氏?」
カヨのものすごく怪訝な顔。そんなに変なことを言ったか。
「ずっと付き合ってる人いるやろ?新人のときから。」
入社したときから付き合っている彼氏がいるはずだ。
「はぁー!?」
カヨにしては珍しく大きな声に驚く。その声は喫煙所まで届いたようで、喫煙中の2人もこっちを見ている。
「何でかい声だしてん。」
「もう直くん、何言ってんの?入社したとき付き合ってた人なんて、あのあと半年もしないで別れたよ!」
「え!知らんかった。ずっと付き合ってるんかと思ってたわ。」
カヨは天を仰いで「もぉー」と珍しく足をバタバタと踏み鳴らし「直くんのバカ」と言った。
「何大きな声出してるんだ、カヨ。」
喫煙を終えた2人が近付いてきた。
「ひどいんですよ、うーさん聞いて下さいよ!直くんが、私に彼氏と結婚しないのか?っていきなり。」
「あれ?カヨちゃん今彼氏いるんだっけ?」と哀ちゃん。
「いないよ!入社したときに付き合ってた人と、まだ付き合ってると思ってたんだって。半年もしないで別れたのに。」
「直樹、それはひどいな。さすがの私でも、カヨが当時別れたらしいというのは、部下たちの噂で聞いていたよ。」
うーさんは苦笑している。
「直樹ったらデリカシーないなあ。売れっ子恋愛小説家が聞いてあきれるね!」と哀ちゃんは笑いながら、カヨの頭をヨシヨシと慰める仕草をする。カヨも一緒になって「えーん」と泣くふりをして僕を責める。
「直樹、女性にいきなり結婚のことを聞くなんてセクハラだぞ。いいか、人生というのはな、女性の地雷をいかに上手に避けていくか。これが穏やかに生きるコツなんだ。」
うーさんは堂々と語るが、その発言こそ地雷なのでは?と思ったとき案の定カヨが「ちょっとうーさん、それどういう意味ですかー!」と睨むから僕は思わず笑ってしまう。
水色よりオレンジのほうが増えて、その奥に夜を含んでいる空、ゆっくり雲が流れていく。
「直樹もひどいですけど、今のうーさんはもっとひどいですね。」と哀ちゃんが笑う。
普段愛想のない哀ちゃんは、笑うとこんなにも可愛くて愛らしい。少しハの字になる眉、丸い黒い目をへにゃっとさせて、インディアンえくぼのできる笑顔。
あぁ、この笑顔を夕暮れの空気ごと額に入れて永久に保存しておきたい、と思った。
こういうときの僕の表情で、カヨにはバレたのかもしれないな、と思った。
「無神経な男たちは放っておいてお土産見に行こう。」と哀ちゃんがカヨの手を引いてサービスエリアに入っていった。取り残された無神経な男2人は、顔を見合わせて苦笑する。
「女性ってのはデリケートなものだね。」
うーさんは頭をかく。
「でも、うーさん、結婚して奥さんとも仲良いですよね。何か秘訣ってあるんですか?」
「うーん。秘訣ねえ。妻の地雷はだいたい把握しているからなあ。それでも、ときどき踏んでしまうがな。」
地雷かぁ。哀ちゃんは、地雷だらけで、足の踏み場がないように思える。
「それにしても、君たちは本当に3人とも兄妹のようだね。」
のんびりしたうーさんの横顔。
「え、そう見えますか?」
「うん。仲の良い兄妹に見えるよ。」
カヨには哀ちゃんのことが好きなのか?と聞かれて、うーさんには兄妹のようだと言われて、哀ちゃんからは、いったいどう見えているのだろうか。
高速道路の渋滞。静かな車内。
後部座席のうーさんとカヨは眠っていて、哀ちゃんは助手席で外を見たままずっと喋らない。
長く続くテールランプ。並ぶ橙色は、ふいに、いつか家族で行った近所の神社の縁日を思い出させた。母はキャラクターのお面を頭に斜めにつけ、りんご飴を舐め、僕と金魚すくいで競争し、とても燥いでいた。父はそれをにこやかに眺め、僕にとってはその無邪気な姿が当たり前の母の姿だった。僕の当たり前の家族だった。
でも、まわりの大人たちは母をあまり良く言わなかった。特に父の親戚は母を悪く言った。それでも母は毎日楽しそうだったし、そんな母を父も僕も愛していた。
母は奔放な人だった。何にも縛られたくない人。奔放で自由でとても繊細だった。母は一度入院を勧められたことがあったが、父が断った。母の希望を聞いたのだ。そして母は自由に生きて1人で死んだ。
複数人の救助隊員に抱えられて水から引き上げられる母は、白いブラウスが肌蹴て顔に張り付いていた。
僕は「ルネ・マグリットかよ。」と呟いた。悲しみもあったが、いつかこんな日が来るんじゃないか、と予想していたような気さえした。水を含んでしっとりした母のもう動かない四肢は細く、ぐったりと変な方向に垂れ下がっていた。
「見るんやない。」
集まった野次馬に混じった近所の知り合いのおじさんが僕の腕を強く引いて人だかりの後ろに連れて行ったが、僕はあの光景を忘れることはない。
僕が高校を卒業するとすぐ、父は1人京都の山奥へ引っ込んで、隠居のように暮らし始めた。今でも仕事の合間、半年に一度は顔を見に行くようにしているが、会うたび驚くほど老いていく父の姿が僕を無言にさせる。
父は自分の妻の死を、自分の責任だと感じているのだろうか。そんな重い十字架を背負ったまま生きるということの苦しさを、僕は想像もできない。慰めることも、労うこともできない。ただ、決して誰のせいでもなかったんだ、という風に僕が思っているということが、父に伝わっていればいいと思うが、それも僕には計り知れない。
シュルレアリスムの画家、ルネ・マグリットは、母親が自死した際に、白い布が顔に張り付いていたのを見て、顔を白い布で覆うモチーフの絵を描いた、と聞いたことがあった。
僕はマグリットじゃないから、作品に布で顔を覆った人物を登場させたりはしない。でもある意味では、同じなのかもしれない。僕は小説の中で死体の描写ができない。どうしても、書けないのだ。サスペンスやミステリはもちろん、ファンタジーでも人を死なせられない。だから、何と言われようと、ベタな恋愛小説しか書けないのだ。
幸い、それが評価してもらっているから良かったが、僕にはそれ以外書けないだけなのだ。
それでも、不思議と水のある景色が好きなのは何かの執着なのか。今回の旅行の青沼も滝も、画像を見たときから吸い寄せられるように魅せられた。忘れられない母の白い四肢と、妙にリンクして、悲しいというより、魅了されてしまう。畏怖と恐怖と悲しみと魅惑。
今日哀ちゃんが青沼を見て「死体を浮かべる」と言った瞬間、母の姿がフラッシュバックした。でも、そのとき沼に浮かんでいたのは、母ではなく哀ちゃんの姿だった。
「体の中が青で満タン」と言った哀ちゃんが青沼に浮いたら、それはきっと身震いするほど美しいだろう。艶やかな黒髪は水面に漂い、指でそっと梳けば絹のように滑らかだ。黒いワンピースは揺蕩い、その色は月明りも星も出ていない漆黒の夜空、解放的な闇だ。肌は青白く、冷たく水を含んで柔らかい。表情はない。真顔で虚空を見つめる瞳は、黒瑪瑙。
哀ちゃんの中の青と沼の青藍が混ざり合って、ゆらゆらと溶け合っていく。美しいが悲しすぎるその光景に、僕はゆっくり丁寧に哀ちゃんの体と沼の境目を探す。哀ちゃんにまだ形が残っていれば僕は掬うことができる。もしくは、哀ちゃんの体の中を、青一色ではなく、色彩豊かにできれば、僕は哀ちゃんを沼から引き上げられるだろう。果たして、僕にそれができるのだろうか。
カヨに言われたから、というわけでもないが、僕がただの男友達でいいと思っているうちは、哀ちゃんの色を変えることなんて到底できないのだろう。
哀ちゃんに初めて出会ったのは、作家デビューしてすぐの頃だった。
打ち合わせのために訪れた編集社の廊下で、たまたますれ違ったのだ。
哀ちゃんは、オーバーサイズの黒いパーカーに黒いデニム姿。今より少し長い髪。愛想のない表情で1人廊下を歩いていた。
「今の人、どなた?」
思わず一緒にいた担当編集者に聞いた。
「あぁ、作家の哀さんです。彼女も最近デビューしたばかりですよ。あれ?もしかして、好みですか?彼女、美人ですよね。」
「あぁ、いや、そういうわけじゃなくて。まあ、きれいな人だな、とは思いましたけど。」
「ファンタジー書いてる人ですよ。今担当してるのが知り合いだから、セッティングしましょうか?」担当者はからかい気味に言った。
「いや、そんなつもりで聞いたわけじゃないですって。でも、どんな小説書くのか興味ありますね。」
担当編集者はにやにやしている。僕の気持ちを見透かすように。そう。担当編集者に言われるまでもなく、僕は一目惚れしたのだった。
僕はその日のうちに、本屋で哀という作家の本をいくつか買ってすぐに読んだ。
僕には書けない。
それが一番の印象だった。僕は生々しい現実から目を逸らして、きれいなことしか書かない。書けない。でも哀という作家は違った。人間の恐怖や不安、生きにくさに、正面から向き合っていた。真っ向勝負。恐怖に対する宣戦布告のような小説だった。
余計に彼女のことが気になった。真っ黒な丸い瞳で、無表情にしていた彼女の内面から紡ぎだされる戦士のような文章。会ってみたい。そう思った。
結局担当編集者が取り持ってくれて、食事をすることになった。哀という作家は、終始つまらなさそうにしていて、僕の質問には答えてくれるけれど、あまり盛り上がらなかった。僕は、彼女ともっと話したいと思ったが、この感じでは無理かなと感じた。でも帰り際、彼女の担当編集者に「あんなに喋る哀さん初めて見ました。」と言われて驚いた。彼女なりに、楽しんでくれていたらしいのだ。
それから何度か食事をして、連絡先も交換して、2人で会うこともできるようになった。でも、そこまでだった。一緒に食事をして、楽しい時間を過ごして、僕と一緒にいる哀ちゃんは他の人といるより少し饒舌になる。そのことだけが、僕の喜びだった。僕が一番仲の良い友達。僕といるときは少し、戦士の仮面を外せる。そんな存在でいたかった。それ以上を求めることは、哀ちゃんの居心地を悪くさせる。そう思って、僕はいつまでもこのままでいいと思った。
でも、それは言い訳で、本当は僕に勇気がなかっただけだ。
出会って何年も経った今になって考える。本当にこのままでいいのか。哀ちゃんの居心地の良さを言い訳にして、僕は本当に知りたいことを聞かずに来た気がする。哀ちゃんのことを、本当のところ、何も知らないのではないか。僕は今の関係を壊してまで、哀ちゃんの心の中に入って行けるだろうか。
ちらっと助手席を見ると、哀ちゃんはまだ外を眺めている。
「ねえ哀ちゃん。」
「ん?」とゆっくり僕を見る。
「今日言ってた、哀ちゃんの中が青いって、どういう意味?」
「意味?意味なんてないよ、ただの実感。」
「その、哀ちゃんの体の中はさ、カラフルなほうがええの?」
「わかんない。でも、カラフルなほうが、楽しいんじゃない?なったことなからわかんないけど。」
「そっか。」
しばしの沈黙。
「哀ちゃん、前に好きな人いるって言うたやん?」
「言ったっけ。」
「言うた。」
「そうだっけ?」
「うん。言うた。」
「言ってないよね。」
「いや、言うた。」
少し黙る哀ちゃん。
「しつこいね。らしくないじゃん。」
らしくなくても、僕はこの人を水面に引き上げられるか知りたい。
「その人が誰なのかは教えてくれへんでええんのやけど、その人は哀ちゃんの中をカラフルにできる人なんか?」
しばらくフロントガラスを見つめてから哀ちゃんは「できない。」とはっきり言った。
「カラフルにしてくれへん人を好きなんか?」
そう言うと哀ちゃんはゆっくり僕を見て
「だって、自分のこと幸せにしてくれそうな人を選んで好きになるの?違うでしょ。そんなこと関係なく、好きになっちゃった人が、好きな人でしょ。」
静かにそう言ってまた外を見た。
「それに」窓の外を見たまま続ける。
「それに、前に、好きな人いるって、私言ったのかもしれないけど、今はいないよ。」
そう言ったきり、哀ちゃんは黙った。
レンタカー屋で車を返し、旅行代金の清算をする。
「運転まかせてすまなかったね。疲れただろう。帰りは寝てしまったし、直樹に世話になりっぱなしだったな。」
うーさんはまだ眠そうな顔で言う。
「いいんです。僕が幹事ですし、なかなかゆっくり会えてなかったんで、楽しかったです。」
「私も、直くんにすっごい昔の恋をほじくり返されて、楽しかったわ。」
カヨがふざけて睨んでくる。平和な時間。
最寄りの横浜駅まで4人で歩く。人が多くて、賑やかだ。
「じゃ、私こっちだから。」
哀ちゃんだけ乗る電車が違って、改札が少し離れている。
「旅行楽しかった。さようなら。」
敬礼みたいなポーズをしてから、去っていく哀ちゃん。
「じゃ、哀ちゃん、またね!」とカヨが手を振り「気を付けて。」とうーさんが見送る。
小さくなっていく後姿。
青沼に浮かぶ、黒いワンピースの哀ちゃん。
見守ってるだけじゃだめなんじゃない?
カヨに言われた言葉がよみがえる。
「あ、僕、改札まで送ってきますわ。」
僕は2人の返事を待たず、小さくなっていく哀ちゃんを背中を追いかけた。
「哀ちゃん。」
背中に声をかけると、哀ちゃんはゆっくり振り返った。ぼーっとした顔をしている。哀ちゃんが1人でいるときにする顔だ。
「どうしたの?」
「いや、ほら、哀ちゃん方向音痴だから。」
「横浜駅くらい迷わないよ。いつも使ってるんだから。」
「まあ、そうやろうけど。でも、改札まで送るよ。迷子になったら困る。」
「ならないって。」
話しながら、並んで歩き出す。
「まあ、子供の頃に迷子になったことはあるけどね。」
「そうなん?」
「うん。迷子っていうか、親と買い物行って、ショッピングモールではぐれたんだけど、駐車場に行ったら車がなかったの。置いてけぼり。笑っちゃうよね。歩いて家まで帰ったんだよ。小学生で。すごくない?」
淡々と話す哀ちゃん。
「よく帰れたね。」
「本当だよ。途中は、ほとんど迷子。陸橋の上からさ、暮れていく空を見て、あーひとりぼっちだなーって思ったよ。でもそれから1人で帰れたし、30年以上生きてこれたんだもん。もう今更、迷子になんか、ならないよ。」
哀ちゃんはそう言って、ふっと少し笑った。
改札へ向かう道は混んでいて、1人1人は無言に見えるのに、雑踏は騒がしい。
「ねえ、直樹は、生まれてくる前に、生まれてくるかどうか自分で決められるとしたら、生まれてきた?」
「え?」
「人間として、これから人生が始まります。生まれますか?辞めますか?って、選べるとしたら。どうする?」
「僕は、絶対生まれてきた。」
即答した。
「えー絶対?すごいね。迷わない?」
「うん。迷わん。」
もう僕は迷わない。
やっぱり僕はこのまま、哀ちゃんのただの男友達で終わりたくはない。こうして眺めているだけで、見守っているつもりでいたけれど、それは間違っている。
僕は哀ちゃんの人生をカラフルなものにしたい。
ちゃんと真剣に言おう。
「だって、生まれてこなかったら、哀ちゃんと出会えなかったやろ?」
僕の口調が真面目だったから哀ちゃんは驚いたのか、立ち止まって僕を見た。今まで見たことないほど、哀ちゃんも真剣な顔をしている。しばらく黙って僕を見てから無愛想に「何それ」と言った。
ここでごまかしてはいけない。深追いしないと、伝わらないこともあるんだ。
「何それって、言葉のままだよ。出会えて良かった。出会った瞬間から、毎日、今も、これからもずっと。」
立ち止まって向かい合う2人の横を人々が足早に行き過ぎていく。
「哀ちゃんはひとりぼっちやない。僕は哀ちゃんのそばにいたい。」
自分の心臓の音が聞こえる。
緊張している。
雑踏が聞こえなくなる。
「頼りないかもしれへんけど、僕は哀ちゃんのことが・・・」
言おうとした瞬間、哀ちゃんは、人差し指を立ててすっと差し出し僕の口元に当て、真顔のまま「しー」と言った。もう黙って、というように。
「ありがとう。私も直樹に会えて良かったって思ってるよ。改札まで送ってくれてありがとう。でも、もう大丈夫。」といって差し出した指をひっこめた。
「じゃあね、直樹、アデュー。」と手を振り、軽やかに歩き出した。
改札に向かおうとする哀ちゃんを何とか引き留めたくて、僕は精一杯手を伸ばした。
《おわり》
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