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小説:あるクリスマスの朝

 きゃっきゃと笑う声で、目が覚めた。
 遮光カーテンの隙間からもれる薄淡い光を見つめ、まだ7時になってなさそう、と予想を立てる。枕元のスマホを見ると、6時50分。
 冷えた指先をこすり合わせながら、もぞもぞと布団を出た。休日だからもう少しゆっくりしたいけれど、4歳になったばかりの娘、奈々は、案の定となりにいない。今日だけは絶対に寝坊しないのだと張り切っていたから、本当にもう起きているらしい。

 今日はクリスマス。

 世界中の子どもたちが、待ち焦がれる朝なのだろう。奈々も、いつもはなかなか出られない布団から飛び出して、私が昨夜ツリーの足元に用意しておいたオモチャを発見したにちがいない。
 リビングから聞こえる笑い声にふっと頬が緩む。
 復職したばかりだからそんなに高級なものは買ってあげられなかったけれど、あの子は喜んでくれた……。胸にあたたかいものが満ちていく。

「おはよう、奈々。サンタさん、来てくれた?」
 声をかけながらリビングのドアを開ける。
「ママ! サンタさん、来たー!」
 奈々の大きな声とともに眼前に飛び込んできた光景に、私は言葉を失った。一瞬頭が真っ白になる。
 満面の笑顔でぴょんぴょん飛び跳ねる奈々の隣に、夫がいた。
「奈々ね、サンタさんにお手紙書いたの! パパに帰ってきてほしいって! そしたら、パパが本当にいた! やったー!」

 背筋がすっと冷えていく。
 足元から恐怖がせりあがって、全身に鳥肌が立つ。
 ぶるっと身震いがした。 
 どういうことだ? 
 夫がここにいるわけがない。
 だって、夫は、半月前に……

「おはよう。久しぶりだね。なかなか連絡しないで、心配かけてごめんね。ちょっと厄介な取材相手だったんだ。クリスマスに間に合って帰れて、ホッとしているよ」
 微笑みながら、当たり前みたいな顔で私に話しかける男は、まぎれもなく夫だった。
 
 夫は、フリーのノンフィクションライターで、わりと危険なニオイのする事象の裏を暴くことを好んでいた。半月前まで追っていたのは政治家と反社会勢力のお金の流れについてだったようで、懇意にしている雑誌記者にも「命があるうちにやめとけ」などと釘を刺されるような状況だったらしい。
 私は奈々を妊娠してすぐに仕事をやめて専業主婦だったから、本当のところ夫がどれほど危険なことに首を突っ込んでいたのかはわからない。でも、生易しい取材では満足しない人だから、リスキーな仕事ではあったのだろう。
 半月前のある日「ご主人と連絡つかないんですけど」と仕事関係の人から電話をもらったときに、「私も連絡がつきません。帰ってきてないんです」としか言いようがなかった。
 
 私は生活のために仕事を再開し、奈々には「パパはお仕事で忙しいからしばらく帰れない」と伝えた。以前から取材で何日も帰ってこないことは普通だったから、奈々も納得していた。
 でも、さすがに半月は長かったのか。
 奈々は、サンタにお願いするほど、さみしかったということか……。
 
「コーヒー飲もうかな」
 夫の声でびくりと我に返る。
「あ、はい……」
 声がかすれてしまう。
 動悸がするのを、深呼吸をして耐える。
 ちらりと顔を盗み見た。たしかに、あの人だ。
 考えられるとしたら、夫に双子がいた場合か。
 でも、結婚してから何度も夫の実家へ行くことはあったけれど、そんな話は聞いたことがない。それに、40歳にもなれば、いくら双子でも多少は違いが出るのではないだろうか。こんなにも、瓜二つなんてことがあるか?
 それに、もし双子だとしても、当たり前のように我が家にいる意味はわからない。
 本当にサンタが、奈々の願いを聞いたということ?
 もしそうなら、私の願いは聞き入れられなかったということか。
 
 夫と私の関係は、世間的な普通とはかけ離れていたと思う。
 私の行く場所は制限され、自宅から出られるのは奈々の幼稚園の迎えのときだけ。買い物はネットで済ませ、夫のカードの請求から何を買ったかチェックされる。現金の利用は許可されていなかったから、自動販売機も使えなかった。
 友達との連絡も禁止。取材などで家をあけるときはペット見守りカメラで監視された。実家の母からくる電話だけ受け取りができるのだけれど、通話時間は三十分以内とされていて、それを越えると背中をベルトで叩かれた。
「お前は思慮が浅い」
「短絡的な役立たず」
 毎日そう言われているうちに、本当に自分がどうしようもない人間だと思い込むようになっていた。
 思考が麻痺していた。抜け出せるはずなど、あるわけがなかった。
 あの記事を見るまでは。
 
 夫は常に複数の大小さまざまなネタを追っていた。
 政治に関連したものが多く、記事になると自慢気に見せてきた。スキャンダラスなものも珍しくなかった。
 ある有名な官僚が児童ポルノに関わっているという噂が流れた。夫は、そのネタを深堀りしたかったらしい。そこで、撒き餌をしたのだ。大人の女性関係でやるところのハニートラップ。その写真に、奈々を使った。
 
 あのときの怒りを、どう表現したらいいのだろう。
 自分のことなら何でも耐えられたし、もはや避けようという意識すらなかった。でも、奈々の写真を見た瞬間、スパン! と脳神経に喝を入れられたように、人格が覚醒した。囮のように使われている奈々を、私が守らなければ。そうして、私は機会をうかがった。
 
 あの日は、奈々が幼稚園のお泊り保育の日で、絶好の決行日だった。
 力ではかなわない。一瞬で決めなければ、こちらがやられる。
 躊躇する間もなかった。ふりあげた花瓶は、想像以上に大きな音をたてて割れた。
 
 脱力した大人というのは、こんなに重いのか……。
 推理小説や刑事ドラマでよく
「あなたは、夜中、ひとりで死体を車にのせて運び、山に埋めたんですね?」
 なんてセリフが出てくるから、油断していたのかもしれない。
 夫は信じられないほど重く運びにくかった。奈々が使っていたベビーカーに引きずりあげるようにして何とか乗せ、車まで運ぶ。車のトランクの高さになんて絶対に持ち上げられなかった。シーツでくるんで、どうにか後部座席の足元に乗せた。
 山の土がどれほど掘りにくいか、私は知らなかった。
 木々の根がはり、ゴロゴロと石が出てくる。大人ひとりを埋められる穴なんて、ひとりで掘れるはずがなかった。それに、冬の山はとにかく寒い。作業しているうちにかいた汗が、どんどん冷えていく。
 しかたなく、崖の上から転がした。山道からは見えないところまで転がっていったから、ハイカーにも発見されにくいだろう。
 そうして、私は疲労困憊して帰宅したのだ。
 
 あれから半月。今、目の前に、後頭部を殴りつけ山に放置したはずの夫がいる。
 
 キッチンへ行こうとする夫と、至近距離ですれ違う。少し体をずらすと
「コーヒーを淹れるのはお前の仕事だろ」
 ぼそりとした声に、全身がぎゅっと緊張した。
「笑っちゃうよな。とどめを刺さないなんて」
 息が止まる。
 やっぱり、本当に夫が帰ってきたのだ。
 あの日、夫は死んでいなかった。気を失っていただけだった……。
 どんなに大変でも、しっかり埋めるべきだったのだ。
「はやく、コーヒー」
 ぼそっと言って、奈々のほうにもどっていく夫。何も知らない、かわいい奈々。
「すぐ淹れます」
 私はコーヒーの粉をドリッパーにセットする。ティファールに伸ばしかけた手を、ハッとしてとめる。コーヒーは火で沸かした湯で淹れろ、という意味のわからない夫のルールを思い出したのだ。
 冷や汗をぬぐいながら、やかんに水をいれて火にかける。
 もはや、考える時間はない。
 同じ失敗はしない。
 
 コーヒーの香ばしい匂いがキッチンに充満している。
 私は、引き出しを開けて、半月前から処方されている睡眠薬を取り出した。OD錠という、水に溶けやすい薬だと薬局で説明を受けたのを覚えている。
 ひとつ、ふたつ……数えながら、五つ手にのせたら、角砂糖のように自分のカップに入れた。スプーンで数回混ぜる。
「奈々は、これね」
 大人がコーヒーを飲んでいるとうらやましがるので、私は牛乳にまぜる子供用コーヒースティックでカフェラテを作り、まず奈々に持っていった。
 それから、夫と自分のおそろいのコーヒーカップをテーブルに置く。
「朝ごはんはサンドイッチにしますね。ハムとレタスがあるので、先にコーヒーを飲んでまっていてください」
 そう伝えて、キッチンにもどる。
 冷蔵庫を開けて、なかをのぞきこむ。
 ことりとカップを置く音が聞こえた。
 コーヒーが冷めないうちに、手早くサンドイッチを作り、テーブルにつく。
「奈々もいただきます、しよう」
 夫が娘に声をかけるのを、唇を噛んで耐える。
「はーい」
 奈々は素直に椅子にかけ、三人で手をあわせた。
「いただきます」
 私は、そしらぬふりで自分のカップを手にとった。一口、飲む。香ばしい匂いのなかにフルーティな余韻。
 夫がじっと私を見つめている。
 大丈夫。
 私は知っている。
 夫は、疑り深い人間だ。それに、私には前科がある。夫がカップを入れ替えることくらい、予測している。
 大丈夫……。ほら、なんともないでしょう?
 私は、そっと微笑んで見せてから、夫がカップに口をつけるのを視界のはじで確認した。




アドベント企画に参加したときに、不穏な小説も書こうかな~と思っていまして、こんなものができていました笑。みなさまはどんなクリスマスの朝を迎えたでしょうか。こんな怖い朝を迎えた人がいませんように!

素敵な一日をお過ごしください✨
メリークリスマス!🎄✨🎅🫶


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秋谷りんこ(あきや りんこ)
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