掌編小説「クロニック デイズ」④/④ 最終回
僕の膝枕で横になっていたエミちゃんが「んん……」と声を出してもぞもぞと動いた。
「エミちゃん? 気が付いた? 大丈夫?」
「あ……木度く……木度くん!」
意識を戻したエミちゃんは、がばりと起き上がり、勢いよく立ち上がって、ガツンと半透明の箱に頭をぶつけた。
「痛い」
頭を抱えている。
「大丈夫?!」
エミちゃんは半透明の箱を撫でて「山矢さんの結界……」とぼそっと言い、「荒草は!?」と慌てたように僕のほうへ向き直った。
「今、山矢って人が闘ってる。何が起こったのか全くわからないんだけど、エミちゃんはあのアラクサってゴリラみたいな怪物を知っているの?」
「ゴリラって」
エミちゃんが言い終わらないうちに、境内のほうからドーンと大きな音がし、見ると真っ黒いゴリラの怪物みたいになったアラクサがイチョウの木に体当たりしていた。
全身を黒い毛で覆われたでかい怪物。でも顔だけは人間みたいだから気味が悪いし、恐ろしい。山矢がひゅっとジャンプし、アラクサをかわす。アラクサは長い鉤爪でイチョウの木をバリッと引っ掻く。イチョウはバリバリと音と立てて傷付き、大きく折れ曲がった。
その姿を見てエミちゃんが言う。
「全身変化(へんげ)……」
「ゼンシンヘンゲ?」
「私も荒草のあんな姿は見たことない。奴の正体は、あんな怪物だったんだ」
今僕たちに何が起きているのか、エミちゃんがあの怪物とどう関係があるのか、山矢とはいったい何者なのか、「ヘンゲ」とは何なのか、聞きたいことは山ほどあるけど、そんなこと今はどうでも良かった。今はとにかく早く、あの恐ろしい怪物を倒してほしい。僕たちは2人で並んで座って、山矢が勝つことを祈るしかできなかった。
ガァー! と大きな気色悪い声をあげてアラクサが山矢を鋭い鉤爪と剛腕で追い回す。山矢はかわしながら、ハイキックでアラクサの頭部に一撃を入れる。ズン! と重い音がして、一瞬揺らぐアラクサ。すぐに立て直してまた腕を振り上げ山矢に襲いかかる。山矢はアウトボクサーのような軽やかなステップで少し距離をとって、ジャケットを手荒く脱いだ。そしてシャツの袖をまくると、右手を勢いよく振りかざす。その瞬間、山矢の右腕がメタリックな長い刀になった。それは太陽を反射して煌めき、美しさすら感じる刀だった。
「部分変化(へんげ)!」
エミちゃんが声をあげる。
「山矢さんの変化、初めて見た。あんな武器を持っていたんだ……」
エミちゃんは隣で小さく震えている。恐怖からなのか興奮からなのか僕にはわからない。気付くと僕も震えている。それは恐怖の震えだった。僕は確実な恐怖を自覚し、エミちゃんの手をとった。エミちゃんも強く握り返してくる。僕らは今怖がっている。汗をかいた手を握り合って、山矢とアラクサの激闘を見つめていた。
アラクサが大きな腕を振りかざし山矢を仕留めにかかる。山矢はすっと横にかわし、アラクサの拳はドーン! と地面を揺らしながら土にめり込む。空振りになったアラクサは再び立ち上がり腕を振り上げる、その瞬間、山矢が後ろ回し蹴りでアラクサの顎を蹴り上げる。クリーンヒットした顎があがり後ろによろめく。倒れずに踏ん張ってアラクサが体を起こした瞬間、山矢が後ろ回しの要領で勢いよく回転し、右腕の刀を振り切った。
はっ!
エミちゃんと手を強く握って、2人で息を飲んだ。
ぐおぉぉぉぉぉぉ!!!
大きな咆哮とともに、アラクサの首が吹っ飛んだ。ビシャっと嫌な音をたてて鮮血が飛び散る。山矢の白いシャツが返り血で真っ赤に染まる。
ドサッと倒れたアラクサの大きな体。血に染まった刀をひゅっと一振りすると、山矢の刀はすっと普通の腕に戻った。
山矢はひとつ大きくため息をついて、天を仰いだ。
すると、転がっていたアラクサの頭と倒れていた体が、ガサっと小さな音をたてて崩れ、砂のようになって風に舞って飛んで行ってしまった。飛び散っていた血液も、山矢のシャツについた返り血も、全て砂と化し、消えて行った。そこには、ただ汗をかいてシャツを着崩した山矢がひとり、立っているだけだった。
僕たちはその光景を茫然と見ていた。
山矢が勝った。アラクサを倒した。
その実感がじわじわ湧いてきて、僕は安堵のあまり泣くんじゃないかと思った。エミちゃんを見ると、僕と同じ気持ちなのか、少し潤んだ目で僕を見てきた。
「怖かったね」
思わず僕は言った。声が思っていた以上に小さくて情けなかったが、怖かったんだ。仕方がない。
「うん。怖かった」
エミちゃんも言った。そして、アラクサの鉤爪にやられた僕の頬の傷に優しく触れ、「ごめんね、私のせいで」と言った。
「僕こそ、山矢さんが来てくれなかったら、エミちゃんを守れなかった」
「山矢さんが特別なのよ」
そう言って、エミちゃんは少しだけ笑った。
山矢は折れ曲がったイチョウの木をよいしょっと持ち上げ、元生えていた位置に戻した。そして、そこに手をあて、しばらくすると、イチョウの木は折れる前の状態に戻っていた。それは驚くべきことなのだが、超常現象的なものが目の前で起こりすぎて、僕の感覚は麻痺している。何に驚くべきか、脳が混乱しているようだ。
山矢は黒いジャケットを拾い上げ、ゆっくり歩いて近付いてきた。
僕たちを囲む半透明の箱に手をかざすと、それはパっと消えた。
「エミ、木度くん、もう出てきていいぞ」
山矢はシャツをズボンにきれいに入れ、緩んでいたネクタイを整えながら言った。
「あ、はい」
2人で返事はしたものの、安堵で腰が抜けたのか、足が痺れたのか、体がうまく動かなかった。それを見て山矢は「ゆっくりでいい」と言った。こんなときでも無表情で淡々としているんだな、と思った。
エミちゃんはゆっくり立ち上がって「山矢さん、すいませんでした」と言った。
「何を謝るんだ?」
「私、よく覚えてないんです。木度くんが荒草に人質にとられて、カッとなったら、もう訳が分からなくなって」
「あぁ、そうだろうな。感情のコントロールなんて、まだできなくて当然だ。謝ることじゃない」
「はい。ありがとうございます」
やはり何かの師弟関係なんだな。でも、寿司屋ではなさそうだ。
僕もようやく立ち上がる。足の裏がふわふわしていて、地に足がついていない。
「山矢さん、あの、僕、何が起こったのかまだよくわかっていませんが、助けてくださって、ありがとうございました」
「あぁ、木度くん、エミのそばにいてくれて助かった。大丈夫か?」
そう言って頬の傷を見る。
「はい。少し痛かったですけど、それより怖かったので、山矢さんが来てくれなかったらどうなっていたか」
「奴は俺のいないところで誰かを殺したりはしない。俺の前で痛めつけて見せて、俺を苦しめることが目的だからな」
わかるようなわからないような、きっと今は何を説明されても理解できない気がした。
「それで、木度くん、申し訳ないんだが、見なかったことにさせてもらう」
「え!?」
「あんな怪物や俺の変化を見た、という人間がいると、こちらも困るんだ」
殺されるのか……僕は鋭く美しい山矢の刀を思い浮かべた。
「いや、そんな怖がらなくていい」
山矢は小さく苦笑する。
「記憶を消させてもらうだけだ」
「え、記憶を?」
「そうだ。心配するな、エミとデートしていた記憶までは消さない。荒草に会ったところから、今この瞬間までだ。申し訳ないが、痛みも何もない、すぐに終わる」
そう言って山矢は人差し指を僕の額にすっと差し出した。
「嫌です!」
思いのほか、大きな声が出た。僕は後ずさりして、山矢の指をよける。
「あんな気色悪い奴の記憶を留めておきたいか? 珍しいな。普通は消してください、と言うんだが」
一般的にどうなのかなんて知らない。でも僕は忘れたくない。エミちゃんの怒りを、手を握り合って恐怖に耐えた時間を、終わったときの安堵を、僕は忘れたくない。
「嫌です。僕はエミちゃんと過ごした時間は、どんな時間でも覚えていたい。それがエミちゃんにとって重要な時間ならなおさらです!」
山矢は無表情で片眉を少しあげる。
「さっきの奴は荒草といって、俺を恨んで襲い続けている執念深い奴だ。今日は俺が倒したが、奴は3年経てば蘇る。そのとき君に奴の記憶が残っていると、また今日みたいなことに巻き込まれる可能性がある。君のためにも、記憶は消したほうがいんだが」
僕の気持ちは余計に強くなった。
「それならなおさらです。3年経ってあの怪物がまた現れたときに、僕は今日の記憶があったほうがいい。そのほうが、少しでもエミちゃんの役に立てるかもしれない。お願いします。消さないでください」
僕は大きく息を吸って言った。
「僕は……僕はエミちゃんのことが好きなんです!」
山矢は鋭い目で僕を見つめたあと、手に持っていたジャケットの内ポケットから煙草を出して1本くわえた。
火をつけると顔を背けて煙をふっと吐き「エミが決めろ」と言った。
エミちゃんを見ると、アルファベットのOの字みたいな口をして、僕を見ていた。
あぁ、僕は今、告白してしまったんだ。突然実感して、赤面した。
「エミちゃん、僕はエミちゃんのことが好きです。まだ何が起こっているのか僕にはわからないけど、今日のことは、エミちゃんにも関係があることなんでしょ? その、今後も今日みたいな怖いことがあるとき、僕はエミちゃんのそばにいたい。役には立たないかもしれないけど、エミちゃんが怖い思いをして闘っているのを、忘れることなんてできないよ」
僕は今想っている最大限の気持ちを伝えた。
エミちゃんはOの口をゆっくり閉じて、ふーっと息を吐いて地面を見た。
「私と一緒にいるせいで、今日みたいなことに巻き込まれる。それは今後も一緒だよ。山矢さんが言う通り、荒草はまた蘇ってくるし、私の結界だって見たでしょ。普通じゃないんだよ、私。バケモノって言われて育ってきたんだから」
そう言ってうつむいた。エミちゃんがバケモノ。誰がそんなことを言ったのだ。今日のエミちゃんは確かに普通じゃなかった。でも、一瞬もバケモノなんて思わなかった。
「エミちゃんは特殊な能力があるのかもしれないけど、僕は一瞬もバケモノなんて思わなかった」
エミちゃんは僕を見たあと、また地面をじっと見ている。ブーツで土をこすっている。かわいいベージュのムートンブーツは、さっき爆発させたコーヒーでシミになっている。
「本当にいいの?」
「うん。いい。僕は忘れたくない」
エミちゃんは、少し離れて煙草をふかしながら僕たちを眺めていた山矢に向き直って「このままでいいですか?」と言った。
「エミはそれでいいんだな?」
「はい。木度くんの記憶は、消さないで下さい」
山矢は煙草を携帯灰皿にもみ消しながら「木度くんもいいんだな?」と聞いた。
「はい。僕もこのままにしてほしいです」と断言した。
「わかった。そのかわり、他言無用だ」
と静かに言った。
「はい。絶対誰にも言いません」
言ったところで、誰にも信じてもらえないだろう。
山矢は腕時計をちらっと見て「壊れたな」とボソっと言い、エミちゃんに「何時だ?」と聞く。
エミちゃんはポシェットから携帯電話を出して「えっと、13時です」と答える。
「あぁ、腹が減るわけだ」
「ですね。お腹すきました」
エミちゃんも笑って答える。
あんな怪物の首が吹っ飛ぶところを見たあとにお腹がすくとは、やっぱりエミちゃんは肝が据わっている。僕はエミちゃんと一緒にいる覚悟を決めたんだ。こういう現象に慣れていかなければならないんだろう。
「僕も……お腹すきました」
「ほんと~?」
からかうように僕の顔を覗きこむエミちゃんはやっぱり天使で、普通じゃなくても飛び切りかわいい女の子で、僕はこの人とずっと一緒にいたいと改めて思った。
「大将のとこ、ランチやってますかね?」
「行ってみるか。開いてなくても、今日くらいは開けてもらおう」
そう言って山矢が歩き出す。
黄色いイチョウの葉が1枚ゆらゆらと風に乗って、何事もなかったかのように地面に落ちた。それは底抜けに平和で、言葉にならないほど美しい日常だった。
「行こう」とエミちゃんが僕に手を出すから、僕はその手を強く握り返した。
《おわり》