小説:ナースの卯月に視えるもの 2
2 熊野さんとショートカットの女性
「ラジオで梅雨入りなんて聞いたけど、今日も天気良いみたいだね」
男性部屋の窓側のベッドから、熊野さんが声をかけてくる。日勤、朝一の挨拶に回ったときだった。ギャッチアップしたベッドの上で、窓の外を眺めている。皮膚も白目も全体的に黄色みがかっている。窓からは明るい光が注いでいて、眩しいほどだ。
「眩しいですか? カーテン閉めます?」
「いや、そのままでいいよ」
熊野さんは、意識があって疎通がとれる、この病棟では少ないほうの患者さんだ。体調を崩して病院に受診したときは、もう治療のしようがないほどの、末期の肝臓癌だった。それが去年の年末だったから、入院して半年、病状から考えればずいぶん持ちこたえているほうだと思う。腹水で膨れた腹部とむくんだ足が重そうだ。ウェルニッケ脳症からのコルサコフ症候群を発症しているため、認知症症状や作話などの症状はあるが、意思の疎通はとれる。
「血圧とお熱はかりますね」
朝一のバイタル測定を行う。マンシェットを巻くとき、浮腫の様子を観察する。悪化はしていないようだ。
「こんなに天気の良い日は、ビアガーデンでも行きたいねえ」
熊野さんが若干の自嘲をこめて言う。
「気持ち良さそうですね」
私は、自嘲には触れず返事をする。熊野さんがこんな状態になったのは、お酒の飲みすぎによるものだからだ。
十六歳から飲み始めて、現在四十二歳。毎日のように、ビール、焼酎、日本酒、ワイン、などアルコールの入っているものなら何でも好んで飲んだそうだ。ハッピーライフという無添加食材を扱った宅配のドライバーの仕事をしていたが、飲酒運転が原因でクビになり、そのあとは食事配達サービスのアルバイトでなんとか働いていたらしい。仕事が不安定になったあたりから奥さんと喧嘩が増え、三年前に離婚。それからは、何日かに一度アルバイトをしつつ、いわゆるお酒に溺れた日々だったそうだ。
飲酒運転でハッピーライフをクビになった時点で、おそらくアルコール依存症だったのだと思う。仕事や運転に支障があるとわかっていても飲んでしまうのだから、精神科を受診していれば依存症の診断はついただろう。その時点で医療につながっていれば、今ほど悪くならずに済んだのではないかと思うと、もう仕方のないこととはいえ、悔やまれる。医療にかからないまま、アルコール性肝炎、肝硬変、肝臓癌と進行してしまった結果が、今なのだ。
「失礼しますね」
私は声をかけながらぼってりと重いむくんだ足を少し持ち上げて、皮膚を観察する。同じ個所がシーツに当たっていると赤くなったり皮膚に負担がかかったりするから、足首の下にクッションを入れて浮かす。褥瘡になったら大変だし、感染のリスクも高い。皮膚に赤みなどがないことを確認し、保湿のための軟膏を塗る。
「痛くないですか?」
「うん、大丈夫」
「何かありましたら呼んでくださいね」
ナースコールのボタンを手元に置いて退室しようとしたとき、ベッドの下から何か少しだけ白っぽい布が出ているのが見えた。何だろう、とかがんでベッドの下をのぞいた私は、思わず「っあ」と声を出してしまった。
「大丈夫?」
熊野さんがベッドの上から声をかけてくれる。私はゆっくり体を起こしながら「ああ、はい。大丈夫です。すみません、ボールペン落としちゃって」と取り繕った。
ベッドの下に、白いワンピースを着たショートカットの女性が横になっていた。手足は折れそうなほどに細く、白い。ワンピースは土のようなもので汚れていて、ぐったりとしていた。そんなところに女性が入り込むはずはなく、体は薄く透けていた。熊野さんの「思い残し」だ。
別れた奥さんかな、と思い、床頭台に飾ってある写真をちらりと見る。奥さんと旅行に行ったときに撮影したらしい写真が飾られている。ふくよかな、活発な印象の女性で、ベッドの下の女性とは違うようだった。それなら恋人だろうか。もう離婚しているのだから恋人がいてもおかしくはない、と思ったけれど、それなら一度くらいは面会に来ても良さそうだ。でも、熊野さんの面会には誰も来たことがない。それに、離婚してからもし恋人ができていたとしたら、元奥さんとの写真を床頭台に飾るのはおかしいか。
ベッドから少しはみだした女性の白いワンピースを踏まないようにしながら、私はベッドサイドを離れた。
日勤の間中、ベッドの下に女性はいた。仕事に集中するように気をつけながら、女性を少し観察する。改めて見るとかなり若いように見えた。二十代か、下手をしたら十代かもしれない。それなら娘かもしれない、という可能性も考えたが、熊野さんには子供がいない。女性は、目を閉じてまるで眠っているようだ。
少し残業はあったが無事に日勤を終えて、帰宅する。少し湿った風の強い夕方。帰ると千波がソファで寝ていた。相変わらずチリチリパーマの髪を頭のてっぺんでお団子にして、ゆるゆるのTシャツを着ている。寝顔は穏やかで、そばかすの多い頬に触れようと思ったが、起こしてはいけないと思って手を引っ込める。
千波を起こさないように気を付けながら夕飯の支度をする。残業で疲れたから、何か作るのは面倒くさい。仕事中は何かを面倒に思うことは少ないのに、白衣を脱いだ途端、スイッチが切れるみたいにいろんなことが面倒になるのはどういうことなのだろう。白衣にはそれだけの力があると思う。着れば自然と背筋がシャキッとするし、脱げば力が抜ける。本当に、スイッチみたい。
レトルトのカレーにしてしまおう。冷凍庫からラップで包んだごはんを取り出してレンジに入れる。最近のレトルトカレーは湯煎しなくてもいいものが多いから楽だ。買い置きしておいたレトルトカレーの箱を開ける。このままレンジにかければ食べられる。便利な世の中だ。温まったごはんを取り出して、カレーを箱ごと入れる。500wで1分半。その間にごはんを皿にうつしておく。温まったカレーをごはんにかければ出来上がり。簡単なものだ。
「いただきます」
小さく声に出して言ってから、カレーライスを食べる。ごはんはまだ少し冷たいところが残っていた。
休みを一日はさんで日勤に行く。熊野さんの看護記録を見ると、昨日は一日排便がなかったようだ。肝機能の悪い人は、排便コントロールがとても大切だ。便がたまるとアンモニアが発生し、脳へ悪さをするのだ。私は嫌な予感を抱えながら朝の申し送りをもらい、朝一の挨拶に回る。
「熊野さん、おはようございます。日勤の卯月です」
ギャッチアップした状態の熊野さんは私のほうは見ずに、意識が朦朧としているようだった。
「熊野さん、大丈夫ですかー?」
「虫が、虫が……」
うわごとのように熊野さんがつぶやく。私の嫌な予感は当たったらしい。ナースコールを押す。
「熊野さん、ちょっと腕をいいですか?」
腕を、前へならえのように前に出してもらうと、案の定、手がパタパタと揺れた。羽ばたき振戦だ。
『どうされました~?』
ナースコールから呑気な返事がくる。二年目の後輩、山吹だ。
「卯月です。熊野さん、肝性脳症で朦朧としてる。ドクターコールして。あと、GEあっためといて」
『っ、はい』
慌てた様子の山吹の返事がきてナースコールが切れる。
毎日排便の確認しろって看護計画に書いてあんだろ、昨日の日勤誰だよ……と心の中で毒づきながらベッドを平にし、体とベッド柵の間にクッションを挟む。錯乱を起こして柵に体をぶつけたら危ない。血圧を測る。反抗的な態度はなく、協力してくれる。ピピっと音が鳴る。血圧は、大丈夫。
「失礼しますね」
サーっとベッドまわりのカーテンを閉めて声をかけながらオムツをのぞく。失禁もしていない。
担当医が部屋にくる。若い勤務医だが、熱心で良い先生だ。
「熊野さーん、ご気分いかがですか?」
「虫が……」
「僕のこと覚えています? この前、一緒に食事に行きましたよね」
「ああ、あの店は美味しかったね」
朦朧としながら会話に応じる。作話だ。作話とは、完全な作り話をしたり、まったくの嘘の会話をしてもその話に当たり前のように話をあわせてきたりする症状で、コルサコフ症候群というアルコール性の認知症にある症状だ。熊野さんは先生と食事に行ったことなどないのに、作り話に話をあわせてきた。先生はそれを確認するためにわざと作り話をしたのだ。
「意識が朦朧としていて、虫の幻視もあったようです。あと羽ばたき振戦がありました。血圧は120/70。失禁はないです。昨日排便がなかったみたいなんですけど、GEの指示もらっていいですか?」
先生は熊野さんの状態を診察してから「GEやってください。排便あったか、また連絡ください」といって戻っていった。
「卯月さーん、GE準備しました~」
山吹が、トレイにGEとワセリンを乗せて熊野さんのベッドサイドへ来る。おっとりしているが、ちゃんと患者さんに向き合うタイプの真面目な子だ。
「ありがとう。今手伝ってもらえそう?」
「はい。大丈夫です~」
「熊野さん、昨日お通じ出てないので、浣腸しますよ」
熊野さんをゆっくり側臥位にし、山吹に支えてもらいながら、私はGEをかける。最初、透明なGE液だけが出てきた。腹水がたまっているから腹圧はかけられないが、ゆっくりお腹をさすると、すぐに軟便があった。
「良かった」
「出ましたね~」
血圧の低下なし。陰部洗浄を行い、一段落ついた。
「熊野さん、お疲れさまです。終わりましたよ」
熊野さんはまだ少しぼーっとしているようだった。排便があったことでアンモニアの上昇がおさえられ、肝性脳症の症状が落ち着くことを願うしかない。
「あれはやっぱり見間違いじゃなかったのかなあ」
GEの片づけをしていると、熊野さんがひとり言のようにつぶやいた。
「何がです?」
「けやき森のところで、女の人を見たんだ。白い服の……見間違いじゃなかったのかなあ」
私は、鳥肌が立った。白い服の女の人。まさか、ショートカットの女性か?
「作話、ですかね」
山吹がこそっと私に話かける。
「どうだろう。わかんないね」
「飲酒運転だったから、警察に言えなかった。悪いことしたなあ」
熊野さんのひとり言は続いていた。朦朧としているのか、作話なのか、事実なのか、わからなかった。私は、そっと足元に目をやる。ベッドの下からはみ出している白い布は、まだそこにあった。
「熊野さん、ご気分いかがですか?」
「ああ、悪くないよ」
熊野さんは、排便があったおかげか、意識レベルが戻ってきた。私は少しほっとする。
「日勤終わりなので帰りますね。すぐに夜勤の者がきますから」
「ありがとう。また明日」
「はい、また明日。失礼します」
また明日。あと何回こう言えるのだろう。また明日、と挨拶した人に永遠に会えなくなったことを、私は何度も経験している。コルサコフ症候群は不可逆的なものだし、一日排便がなかっただけで肝性脳症を起こし意識レベルが落ちるなら、近いうちに「また明日」と言えなくなる日がくるのだ、と一人で静かに覚悟を決めた。
自転車で「けやき森」に来ている。熊野さんが、女性を見たといったような発言をした場所だ。地域の人たちから通称「けやき森」と呼ばれているが、県道沿いの特に名前のない雑木林で、けやきに限らずいろんな種類の木が鬱蒼としている。駅前にあるレンタサイクルで自転車を借りて、県道をずっと走ってきた。県道は、左側が法面でコンクリートに覆われていて、右側が「けやき森」と呼ばれている雑木林だ。降水確率40%の空は重く、そろそろ本当に梅雨入りするのかもしれない。
私は自転車で走りながら、自分でも何をしているのかわからなかった。何のために来たのだろう。「けやき森」と熊野さんの「思い残し」であるショートカットの女性が関係あるのかどうかもわからない。意識が朦朧としていたときのうわごとだったのかもしれないし、作話の可能性もある。でも、「思い残し」を視てしまった以上、何もしないという気持ちにはなれなかった。
熊野さんがこの県道を走っていたのは、ハッピーライフ時代だろうか。それとも、アルバイト時代だろうか。通り過ぎていく景色は代わり映えがなく、延々と法面と雑木林が続いている。車を運転していたら眠くなるかもしれない、と思った。そのとき、カーブの法面の一部に薄い緑色の塗料を見つけた。事故の痕跡、というほど激しくはないが、誰かが車のミラーでも擦ったのかもしれない。塗料のところで一度自転車を止める。ふっと思いつく。熊野さんがアルバイトをしていた配達サービスのバイクってこの色じゃなかったか。私はスマートフォンを取り出し検索する。
「やっぱり……」
その配達サービスのバイクは薄い緑色で、法面のコンクリートについている色と似ていた。熊野さんがアルバイト時代にここを通って、バイクを擦ったのか。塗料をそっと撫でてから、雑木林のほうを見る。
「まさか、ね」
私は、自転車を手で押して県道を渡る。ガードレールに立てかけるように自転車を止めて、雑木林を眺める。私はガードレールをまたいで、雑木林に入る。
雑木林に入ってみると、ひんやりとした空気の中、鬱蒼とした木々は圧倒されるほど大きかった。植物は太古の昔からほとんど姿を変えずに生きながらえている稀有な生き物の一つだと思う。私たち人間なんかよりもずっと長生きで、大きくて、古くから生きている。そう思うと私は、植物に対して畏怖の念を感じるのだ。これだけ大きい植物が密集していると、少し怖いと感じることもある。
少し歩くと、覆いかぶさるように生い茂る木々の下に、明らかにこんもりとした場所を見つけた。土が盛られている。
「嘘、でしょう」
思わずひとり言が口をつく。そうでもしないと、怖い予感に負けて逃げだしそうだった。一度両手で顔を覆って深く息を吐く。ここまで来たら確認しないわけにはいかない。すぐ横に落ちていた平たい石で土を掘ってみる。土は硬くない。すいすい掘れてしまうことが恐ろしい。予感が次第に確信へ変わっていく。
「あっ……」
ほんの10センチほど掘ったときだった。白い布が見えた。土で汚れた白い布。布に沿って土を掘っていく。硬いものにぶつかる。手で土を避けると、それは骨に見えた。汚れた手を払って、ゆっくり立ち上がる。ああ、と小さく唸りながら空を見上げると、薄暗い雲から木々の間を抜けて細かい雨がサラサラと降りだした。
「熊野さん、けやき森のことですけど」
翌日の夜勤勤務の最後、熊野さんに声をかけた。今日は排便もあったし、朦朧状態ではなさそうだ。
「けやき森?」
「あそこで、若い女性のご遺体が発見されたそうです」
熊野さんは、ひゅっと息を吸って目を見開いた。窓の外ではしっとりと雨が降っている。
「若い、女性……」
「はい。土に埋められていたそうです。死後半年以上たっていて、一部が白骨化していたそうです」
「そう……」
「それで、ここからが大事なことなんですけど」
熊野さんは少し身構えるような顔をしていた。
「女性は、亡くなってから埋められたそうです」
「え?」
「埋められたときは、もう亡くなっていたそうです」
私は女性の遺体を発見して、警察に通報した。「SNSに載せる映え写真を撮影するために雑木林に入った」という私の嘘は疑われなかった。若い女が一人で雑木林に入る理由なんて、ほかに思い浮かばなかった。警察の事情聴取を受けたときに、女性は何ものかに殺害されてから埋められたらしい、と聞いたのだ。犯人はすぐに捕まった。付き合っていた男だった。
熊野さんは、私の言っている意味を理解したのか、ふーっと長い息を吐いた。熊野さんは、おそらく埋められる直前の彼女を見たのだろう。でも、飲酒運転中だったし、見間違いかもしれない、と思って警察に言わなかった。そのことを、ずっと気に病んでいたのだろう。でも、熊野さんが見たときにすぐに通報していても、彼女はもう亡くなっていた。そのことだけでも、熊野さんの罪悪感は少し軽減させられるのではないかと思う。
「卯月さんは、どうしてそんなことを僕に?」
熊野さんが静かに言う。
「わかりません。なんとなくです」
熊野さんはすっと目を細めて「怖いね」と言った。私は、心臓を細かい棘で覆われたように胸にじんわりと痛みを覚えた。「怖い」。その通りだ。私自身が一番怖いのだ。人の「思い残し」なんて、視えないほうがいい。知らないほうがいい。知ってしまったら、どうにか解消しようと画策してしまう自分がいることはわかっているし、解消できなかったら深い後悔が残る。自分でもどうしようもないのだ。
「じゃ、帰りますね。もう日勤の者が来ますから」
「うん。また明日ね」
「はい。また明日」
熊野さんとの「また明日」は、あと何回残されているのだろう。残り少ないと思われる「また明日」を噛み締めながら、私は病室を出た。
つづく→
3笹山さんと青年