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小説:黄昏スパナ【18141文字】

全6回に分けて投稿した「黄昏スパナ」全文まとめです。加筆修正していません。


窓から差し込む春の温かい日差しにあたりながら、有はまだ俺のベッドで眠っている。
白いTシャツにグレーのスウェット。色の白い両手両足を揃えて真横に向け「ヒ」の字のような恰好で寝ている。

もうすぐ29歳になる男とは思えないほどきめ細かい肌。金髪に近い茶色い柔らかい髪を撫でると、「んー……」と小さく唸ったが、目は覚まさない。

有が俺のアパートに転がり込んでから3か月くらい経つ。

有は、俺が外勤で働いている望月眼科の患者だった。年末の忙しい頃だった。

俺は有との初対面を思い出す。



あの日。
診察室に男の患者が入ってきた。

「あの、先週ものもらいを診てもらったんですけど……」

そう言って患者は椅子に座った。

「はい」

「ものもらいは治りました」

「それは良かったです。それで、今日は?」

確かに、ものもらいは治っているようだ。ほかにパッと見ただけでは何の所見も見当たらない。患者は、ふふふと笑いながらモジモジしている。

たまに変わった患者も来るし、耳の遠い高齢の患者も来る。俺は辛抱強いほうだが、この男は何を言いたいのかよく分からないし、ひとりで笑って何だか気持ち悪いな、と思ったとき、サッと小さな紙切れを渡してきた。

「何ですか?」

と受け取ると患者は

「じゃ、待ってるね!」

と言って立ち上がり、診察室を出て行ってしまった。

背の高い、色の白い、若い男。

何だこれ?と思い、受け取った紙切れを開くと、携帯電話の番号だった。変な奴だったな、と思いながら紙切れを白衣のポケットにしまい、カルテに「ものもらい完治」と書き、次の患者を呼んだ。



その日の診察を終えて、例の変な男が少し気になったので渡された携帯電話の番号にかけてみた。

すると「わーい、かかってきた!」とさっきの男の声が喜んでいる。

「何の用ですか?」

「とりあえず、ご飯食べよう! 今どこにいるの?」

と一方的に話を進め、待ち合わせ場所を指定してきた。

どちらにせよ夕飯は食べないといけない俺は、その場所へ向かった。



「わー! 葉山せんせー!」

その男は、昔からの友人だったか、と錯覚するほど親し気に駆け寄ってきた。卑猥な英語の書いてあるTシャツにスキニージーンズ。明るい黄緑色のダウンを羽織っている。診察室では背が高いと思ったが、立って並んでみると俺より少し小さかった。

「ねえ、葉山先生って下の名前何ていうの?」

「英二だが」

「じゃ、英二って呼ぶね!僕、有沢有。有って呼んで」

と、にこにこしながら話を進める。

これは何かの詐欺か、宗教か?と思って有と名乗る男を眺める。

すらっと長い手足、柔らかそうなサラサラの茶色い髪、爽やかな顔立ち、人懐こい笑顔。女にモテそうだな、と思った。詐欺師に向いているかもしれない、とも。

「じゃ、ご飯食べよう。僕お腹空いてるんだ。英二は好き嫌いある?」

警戒心を全く持っていないような、無邪気な振る舞いが気になり、有が決めたチェーン店の居酒屋に一緒に入った。



有はよく喋り、よく飲み、よく食べた。

「僕ガソリンスタンドでバイトしてるんだけどね」

と言いながら、バイト先の同僚の話やおもしろい客の話などをし

「僕ほんとはね、ミステリー作家になりたかったの」

と言いながら、好きな作家の話や最近おもしろかった本の話をし

「英二は独身? 独身だよね?」

と言いながら俺の仕事についてや年齢、血液型などを質問し

「牡羊座のAB型? いいね、相性いいよきっと!」

などとよく分からないことを言って、終始楽しそうで、ケラケラとよく笑った。

手羽先を食べながら細い長い指についた油を舐めている有を眺める。唇に鶏の脂が光る。

変な奴だな、と思った。
おもしろい奴だな、とも。
かわいい奴だな、とも。


「ところで」

俺は、ようやく食事にもお喋りにも満足したらしい有が煙草をくわえたときに切り出した。

「ところで、俺に何の用だ?」

すると有は、え? と煙草を落としそうになるほど驚いた顔をしたあと、ぶっと吹き出し、またケラケラと笑いだした。

「何がおかしい?」

「何の用? って、何だと思ってるの? ナンパだよ、ナンパ。決まってるじゃん。何だと思って一緒にご飯食べてたんだよ~」と言いながらケラケラ笑っている。

これは何かのドッキリか、やはり新手の詐欺か、と思ったが、有はナンパだと繰り返す。俺は気持ちを落ち着かせるために、ラッキーストライクをくわえ火をつける。

「先週ものもらい診てもらったときに、マジで超きゅーんってしたの。一目惚れだよ。少し伸びた前髪、無精ひげに細マッチョ、黒いTシャツに白衣! こんなにワイルドと知性が同居してる男なんて見たことなかったから、これは落とさなきゃ! って思ったよ。次の日行ったら別のおじいちゃん先生しかいなくて、受付の人に聞いたら、葉山先生は火曜日だけですよって教えてくれたから、今日また行ったってわけ。」

そう言ってアメリカンスピリットを浅く吸って吐く。呼気は煙と酒と甘い香のような匂い。

「それにしても、あのおじいちゃん先生、こっちが心配になるくらいヨボヨボだね。先生の目のほうが大丈夫ですか? って聞きたくなるくらいだったよ。あんなヨボヨボなのに眼科やってるってのも、ミステリーだよね」

と言ってまたケラケラ笑う。

その先生というのは望月眼科の院長の望月先生なのだが、高齢なのは事実で、外勤で働いている俺が、来年の春から実質業務は全部任されることになった。院長の名前だけ残し、引退である。仕方あるまい。有が言うように、先生の目が見えにくくなっているのだ。


その後も、いつになっても「ところで神を信じていますか?」とも「買うと幸せになれる壺があります」とも言われずに、有が終始楽しそうに喋り、食事は終わった。


店を出ると、有は当たり前のように俺のあとに着いてきて、俺のアパートに入ってきて、当たり前のように俺のベッドに潜り込んできた。

「んん……」と猫のように喉を鳴らしながら俺の煙草臭い寝間着に鼻をこすりつけるから、俺はその柔らかい髪を撫で、有を抱いた。



翌朝、寝起きの有は当たり前のように俺のベッドでゴロゴロしていた。

「どうして俺が男も抱けるとわかったんだ?」と聞くと

「わからなかったよ。僕が英二と離れたくなくて着いていったら抱いてくれるから、びっくりしちゃった。ラッキー! だよね。人生って本当に何が起こるかわからない。ミステリーだね!」と笑うから、俺は苦笑するしかなかった。

「ねえ、英二はさ、男も抱ける、ってことは女も抱けるんでしょ? 僕は男しか知らないからさ。なんか違う?」と聞かれた。

「うーん、生物学的に別の生き物だから体の構造が違う。性格や性癖は、男女差より個人差のほうが大きいな」

「ふーん」布団の中でグダグダしながら大きく伸びをする有。

「女は柔らかくて生臭い。男は硬くて脂臭い」

俺が言うとバっとこっちを見る。

「何それ!」

「生物学的な違いだな。基本的に、女はどこも柔らかくて生臭い。男はどこも硬くて脂臭い」

「えー、じゃ僕も臭かった?」と言って自分の体をスンスン嗅いでいる。

「あぁ、臭かった」というと「英二のバカー!」と枕を投げつけてきた。

有の髪は柔らかかったな、と思いながら、やっぱりかわいい奴だな、と思った。



あの日から有は少しずつ自分の荷物を運びこみ、いつの間にか俺のアパートに引っ越してきた。そんなわけで、3か月たった今も、俺の狭いベッドで「ヒ」の字になって眠っている。

今日はバイトが休みだと言っていたから、寝かせておいてやろう。そう思って俺は仕事に出かけた。



今日は午前中の診療だけである。

昼に帰ると有がアパートの玄関の外で何か作業をしていた。ドアを薄く開けたまま、中を覗いたり、しゃがんだり、手に何か持って、何かしている。

「何やってんだ」

「あ、英二。おかえり。これ、うまくいかないんだよね」

言いながらまたしゃがみこんで、文庫本を開いて首をひねっている。

「こうかな」と呟きながら、ドアの隙間にテグスのような細いひも状のものを入れたり出したり引っ張ったりしながら「だめだなぁ」とまた文庫本を開く。

「何をしているんだ?」

「これさ、この方法でやると、外からチェーンだけかけられるはずなんだけど、うまくできないんだよね。作者の人は、実際に試してるらしいから、絶対にできるはずなんだけど」と首をかしげている。

どうやら、ミステリー小説を読みながら実際に試しているらしい。

俺は当然の疑問をぶつけてやる。

「それで、外からチェーンがかかったとして、俺たちはどうやって家の中に入るんだ?」

有は手を止め、ゆっくり俺を振り向き「あっぶねー!」と言って笑った。どうやら、本当に何も考えてなかったらしい。

「ありがとう、英二。言われなきゃ気付かなかったわ。あぶねー。誰もいないのに締め出されるところだったね」と笑う。

「中で事件が起きてないのにチェーンだけかけちゃダメだよね。これじゃ密室殺人じゃなくてただの密室だよ。いや待てよ、密室になってるから中で事件が起こっていると思わせておいて、実は何も起きてません! ではなぜ犯人は現場を密室にする必要があったのでしょう! ていう推理か? そこで探偵が呟くんだよ、これはミステリーですね」

俺は有の頭にぽんと手を乗せ、「俺にはお前の頭の中がミステリーだよ」と言ってやった。


家に入ると有は使っていたテグスを丸めてポイっとテーブルに投げ、そのままベッドにばたんと倒れ込んだ。

「あーお腹空いたー。頭使ったからお腹空いたー」

枕に顔を埋めながら大きな声を出している。

すると突然がばりと起き上がり「ママンのチャーハン食べたい」と言った。

ママンのチャーハン?

「英二、ママンのチャーハン食べに行こう」と立ち上がるなり、玄関に向かう。

「ママンのチャーハンって何だ。マ・マーのパスタみたいなもんか?」

「違うよー。ママンだよ。僕のママン。ママ。お母さん。母親。僕のママンが商店街で中華料理屋やってるって言わなかったっけ?」

聞いていない。

「有沢飯店って知らない?お好み焼き屋の向かいの」

「あ、知ってるな。入ったことはない」

「そこ、僕の実家なの。行こう。ママンと兄貴がやってんだ」

「兄貴がいるのか?」

「うん。僕と違って、超頭いいし、超優しいし、店も継いで、最高の兄貴だよ」

「パパンはいないのか?」

「あのくそオヤジはどっか行ったよ。蒸発だよ、蒸発。個体なんだから蒸発なんかするなよな、水じゃねーんだから」

ぶつぶつ言いながら有は玄関を出ていくから、俺は財布と煙草をポケットに突っ込んであとを追った。


「んまぁ~!!」と有のママンは目を丸くして大きな声で出迎えてくれた。

ごま油とニンニクのような良い匂いの充満した賑わう店内。ほかの客に水を運んでいたママンは有を見るなり駆け寄ってきた。

「有ちゃん、久しぶりに顔見せに来たと思ったら、こーんなにいい男連れてきて。どこでつかまえたの? もーあんたが面食いなのは知ってるけど、ほんと素敵な人! あ! ごめんなさいね。席あちらの奥でいいかしら?」

喋りながらママンは奥のテーブル席に案内してくれた。有の人懐こさとお喋りはママン譲りらしい。

清潔で活気のある店内。テーブル席のほかに、カウンターと、奥に座敷もあるようだ。繁盛しているのがわかる。カウンターの中の厨房で、有の兄貴なのか、男性がジャージャーと何か炒めている音が食欲をそそる。

ママンはふたり分の水を運んできた。

「こんにちは、はじめまして。有の母です」

ふくよかで色白で、中華料理店の店主というより小学校の給食員さんという感じだな、と思う。目元が有に似ている。

「はじめまして。葉山英二です」

「あら、声まで素敵! もーうちの有が彼氏連れてくるなんて珍しいから、嬉しくなっちゃうわー。この子、空想みたいなことばっかり言ってちょっと変わってるでしょ?でも根はとーっても優しくていい子だから、どうぞよろしくお願いしますね」

ママンは有の髪をグチャグチャに撫でさすりながらコロコロと笑う。有は「やめろよ。ママン、早くチャーハンくれよ。腹減ってんだよ」と身をよじりながら抵抗している。まるで、過保護な母と思春期の男子のようだ。

「はいはい。チャーハンね。葉山さんは何になさいますか?」

返事をする前に有が「チャーハンとらーめんとレバニラにして!」と、ママンを飛び越えて厨房へ大声を出す。兄貴らしき男性から「あいよー」と返事が飛んできた。


俺は有の母親が何の躊躇もなく、俺を有の彼氏と認識したことに驚いていた。そもそも有は俺のことを家族に何と説明するのだろう、と思いながら店に向かっていたのだが、そんなことは杞憂に終わった。しかも、有の母親は、それを自分の店の店内で大声で言うのだから、驚く。

昨今は日本でも性的マイノリティに関する理解が深まっているのはわかるが、ここまでスムーズに受け入れられたのは初めてだ。

しかも自分の息子のことである。頭では理解できたとしても、感情が追いつかないこともあるだろう。でも、有の母親からは、そのような葛藤のようなものは全く感じられなかった。悩んだ時期もあったのか。それは本人にしかわからないし、他人である俺には到底計り知れないことだが、そんな些末なことよりも、うちの有ちゃんが可愛くて仕方ない。そんな母親のようにも見えた。

「はい、おまちどうさま」

にこやかに食事を運んでくる有の母親を見て、いろんな家庭があるものだな、と思った。


飯はどれも本当にうまかった。有のおすすめであるチャーハンはもちろん、らーめんもレバニラもうまい。

「すっごいうまい。」

俺が言うと「だろー!うちの兄貴はマジですごいんだって!」と有が自慢げに言った。

カウンターの中から有の兄貴が顔をのぞかせ、柔和な笑顔で「ありがとうございます」と、ぺこっと頭を下げた。


「お、有ちゃん、久しぶりじゃないか。ちゃんとバイト続いてるのか?」

入ってきた客がカウンターに座り、有に話しかけてきた。

「おー、片桐のおっちゃん、久しぶり。うん、今のバイトちゃんと続いてるよ!」

どうやら常連さんのようだ。日に焼けて、年齢にしては逞しい腕をしている。

「えらいじゃねえか。お、新しい彼氏か? イケメンだな! こりゃ、ちゃんと働いて、フラれないようにしねえと、母ちゃんが悲しむぞ」

「わかってるって」

俺は、家族だけでなく常連の客にも自分がゲイであることを隠すことなく、ありのままで過ごしている有を眩しく眺める。俺は、自分がバイセクシャルであることを、隠したことはなかったか。


会計をしようとすると有のママンが

「お代はいらないですよ。また来てくださいね」

とにこやかに見送ってくれたから、お言葉に甘えることにした。

今度、職場の人たちにも、有沢飯店はうまいと宣伝しておこう。



桜が終わり、少しずつ初夏の陽気が漂う季節。
アパートのドアを叩く音で目が覚める。
時計を見るとまだ朝の7時である。今日は珍しく俺も有も休みだ。
休みの日くらいゆっくり寝かせてほしい。


ドンドン、ドンドン。

誰だよ、うるせえな。

ドンドン、ドンドン。

「えいじー! えいじー! いるんでしょ! 開けて!」

俺は耳を疑う。俺を呼ぶ声。はるか昔に聞いたことのある声だ。

嫌な予感がする。

ドンドン!

「えーいーじー!」

俺は有を起こさないように気を付けながらベッドを出て、玄関へ向かう。覗き穴を見ると、嫌な予感は当たっていた。

5年前に少しだけ付き合って、それから2年ほどストーカーされた女、リカだ。ストーカー行為は止んで、新しい彼氏と仲良くしていると聞いたのだが、今更何の用だ。

ドアを叩く音と大声。近所迷惑になりそうだから仕方なく俺はドアを開ける。

金髪にでかい輪っかのピアス、濃い化粧にジャラジャラしたアクセサリー。久しぶりに見たが、相変わらず昔のヤンキーみたいな女だな、と思う。

「何の用だ」

「あ、英二、久しぶり。おはよ」

化粧と香水の匂いがきつい。

「あぁ、久しぶりだな。彼氏と仲良くやってるんじゃなかったのかよ」

「そんな話しに来たんじゃないの。真剣に聞いたほうが、身のためよ」

にやっと笑う表情を見て面倒な話になりそうだな、と思い、玄関にあげようとしたそのとき、リカの後ろに小さな女の子がいるのが見えた。

「あ、気付いた? この子。ルカ。あんたの子よ」

「はあ?」

何を言ってるんだ?

「だーかーらー、あんたの子。別れてすぐに妊娠に気付いたの。私とあんたの子、ルカ。今日1日預かってくれない? じゃ、そういうわけで、夜には迎えに来るから!」

手をひらひらさせて、カツンカツンとヒールを鳴らして走っていく。

「おいっ! 待て!」

「じゃーねー」

リカは女の子を置いて行ってしまった。追いかけようとするが、タクシーを待たせていたようで、走り去ってしまう。

どういうつもりだ。この子、どうしろっていうんだよ!

目の前に置いて行かれた女の子を見る。
ツヤツヤの黒髪をきれいな三つ編みにして、ベージュ色のブラウスに紺色のカーディガン、紺色のプリーツスカート。ピンクのかわいいポシェットを下げて、俺を見上げている。
リカに似ていなくもないが、服装は少なくともリカの趣味ではないな、と思いながら、いつまでも幼児を外に置いておくわけにもいかない。とりあえず、家にあげたそのとき、俺は背後から殺気を感じた。

「英二。今の女、誰?」

有が起きてきたのである。「今の女、誰?」ということは、リカのことも見ていたし、話も聞いていたのか。嫌な予感No.2である。ここは変に隠しても仕方ない。

「あぁ、有。おはよう。今の女はな……」

「この子、英二の子なの?」

いや、話は最後まで聞いてくれ。

「違う。それは違うんだ」

「だって、そう言ってたじゃん、さっきの派手な女が!」

「違うんだ。ちゃんと話を聞いて……」

「だって、そう言ってたじゃん。もう知らないよ。子供がいたなんて聞いてないよ。僕じゃ子供産めないから? 僕が女じゃないから? だからさっきの女と子供作っておいたわけ? 隠し子がいたわけ?」

有は半泣きになりながら、ベッドに戻っていじけてしまった。「もう英二なんて知らない!」と喚いているが、完全に論理が破綻している。

女の子も気になるが、まずは有を落ち着かせたほうがいいな、と思い、俺はまず女の子、ルカをソファに座らせ、有が酒のつまみに食べているチョコレートを渡した。ルカは大人しく座り、静かにしている。

「おい、有。ちゃんと話を聞いてくれ」

俺はベッドに行って有の横に座る。

有は枕を抱えて顔を伏せていたが、俺が耳の穴に指を入れてくすぐると「やめろよ」と言って顔を上げた。

「さっきの女のことを説明するから、ちゃんと聞いてくれよな」

「うん……わかった」しぶしぶ頷く。

「さっきの派手なあの女はリカといって、確かに俺が5年前に数か月付き合っていた女だ」

「うえー、英二、女の趣味わりー」

「あぁ、まあ、そこはそうかもしれんが」

「どうやって知り合ったの?」

「どうやって? あぁ、それは、ひとりで酒を飲んでいたら逆ナンされた。そのまま一緒に飲んでいたら、家に着いてきて、そのままいつの間にか荷物を運びこんで、いつの間にか一緒に住むことになった」

「なんだよ、すっげえ図々しい女だな」

お前との出会いもそんな感じだったぞ? と言いたかったが、やめた。

「まあ、でも数か月で別れたんだ。俺も好きになって付き合ったわけじゃなかったし、いつの間にか同棲していた曖昧な関係だったんだ」

「僕のことはちゃんと好きだよね?」

「え? あ、あぁ。もちろんだ」

子供の前で何を言わせるんだ。

「ならいいけど」

まだふてくされた顔をしている。

「まぁ、それで別れたわけだが、そのあと2年程付きまとわれた」

「ストーカーかよ! 逮捕しろよ!」

「いや、何かされたというわけじゃないんだ。復縁を仄めかされたり、行く先々に現れたりはしたが、実害はなかったから放っておいたんだ」

「十分実害あるじゃねーか」

「うん、そうかもしれないが、まあ、俺は関わるのも面倒だったし、放っておいたんだ。そしたらあるときパッタリとストーカーが終わったんだ。どうやら、新しい男ができたらしい。それで、俺のことなんて気にならなくなったんだと」

「なんだよ、英二よりいい男がいるわけないだろ!」

何に怒っているのか、有は感情的だな、と思いながら、頭を撫でる。柔らかい髪に寝癖がついている。

「それで、本題なんだが、あの女の子、ルカというらしい」

「英二の子なんだろ?」

頭を撫でられながらも俺を睨んでくる。

「違う。有、あの子、何歳くらいだと思う?」

「え?」

有は首を伸ばし、ソファで大人しくしているルカを眺める。

「うーん、3歳くらいかな。片桐のおっちゃんの孫と同じくらいに見える。たまに店に連れてくるんだ。この前会ったばっかりだけど、3歳って言ってた」

「だろ? 俺もそう思う。眼科っていうのは子供もよく来るんだが、俺も、あの子、ルカは3歳くらいだと思うんだ」

「うん。それで?」

「計算、合わなくないか?」

しばらく首をかしげて考えていた有は「計算、合わない」と言った。

「だろ? 俺は5年前にリカと別れている。そのあと2年ストーカーされたが、体の関係は一度もないどころか、食事なども一切していない。ただ遠目に一方的に見られていただけなんだ。それで妊娠するか?」

「しない」

「だろ? それにストーカーされていたときに、リカのお腹は全然大きくなっていなかった。リカは嘘をついているんだよ。あの子、ルカは俺の子じゃない」

有はもぞもぞと体を起こし、ベッドに座った。

「じゃあ、あの子、ルカちゃんは誰の子なんだろ? なんで英二に押し付けて、あの女はどっか行っちゃったの?」

「わからん。夜には帰る、と言ってはいたが……」

ふたりでルカを眺める。大人しくソファに座る3歳くらいの女の子。

「なんか、さっきは感情的になっちゃったけど、急にひとりで知らない男の人の家に置いて行かれて、ルカちゃん、かわいそうだね」

本当にその通りである。冷静さを取り戻し、いつもの優しい有に戻ってくれてほっとしたが、それ以上に大きな問題がある。誰の子であろうと、1日預からないといけないらしいのだ。

「俺たちふたりで、1日預かれると思うか?」

「……無理じゃね?」

「だよな……」

男ふたりは顔を見合わせて途方に暮れた。



「んまぁ~!!」

有の母親はいつものエプロン姿ではなく、部屋着で出てきて、ルカを見るなり大きな声を出した。有の家族は店の2階に住んでいる。

開店前で悪いとも思ったが、3歳の女の子を独身の、それもわりといい加減なタイプの男ふたりで1日面倒を見られるはずもなく、俺たちは有の母親に助けを求めたのだ。

「かわいい子ね~! え? 葉山さんの連れ子なの? 言われてみればちょっと似てるわね。え、違うの? どちらにしても、かわいいわ~!」

俺は事情を説明し、俺たちだけではどうしようもなく、ここに来るしかなかったことを伝えた。

「あらー。大変だったわね。あなたたちだけじゃ、そりゃ無理よね」と笑われる。

有の母親はルカに目線を合わせるように屈み、話しかける。

「お名前、何ていうの?」

「ルカ」

「あらーいい子ね。こっちおいで」

ルカはゆっくり歩いて有の母親のほうへ近づいた。

有の母親はそっとルカの頭を撫で、「いい子ね」と微笑んだ。

その瞬間からルカを纏っていた緊張感が緩んだ気がした。

母親の手というものは、不思議な力があるのだろう。優しく触れれば世界一穏やかな魔法になり、厳しく叩けば世界一残酷な仕打ちになる。有の母親は前者だ。母親の手と言葉には、不思議な力を感じる。

「ルカちゃん、朝ごはん食べた?」

有の母親が優しく聞く。そうか、俺は食事の心配すらできていなかった。

「まだ」

ルカが首をふって答える。

「じゃ、お腹空いたね。今ごはん作ってあげるから、座って待っていてね。アレルギーはないのかしら」

有の母親はルカを椅子に座らせ、「あなたたちも食べてないでしょ?」と言って有の頭をぐしゃっと撫でた。ルカにしたのと同じような、優しい手つきだ。

「食べてないよー。お腹すいた」という有の言葉を聞いて、有の母親は「はいはい。じゃ、みんないい子して待っててね」と言い、厨房へ入った。



「どうしたんだ?」

有の兄貴も店に降りてきた。事情を説明すると笑って「葉山さんは、なかなかプレイボーイなんですね」と言われた。

「いや、お恥ずかしい」

確かに俺は恋愛にだらしない男だ。恋愛に限らず、仕事以外はどうでもいいと思って生きてきた。他人に迷惑さえかけなければ、あとはどうでもいいと。



じゅーじゅーという音といい匂いが漂ってきて、俺は自分も腹が減っていたことに気付く。

「はい、できたわよ。子供用だからいつもより味薄いけど、我慢してね」

有の母親がチャーハンを運んできた。

ひとくち頬張ると、いつもより脂が少なく、味が薄めでさっぱりしている。いつものチャーハンもうまいが、これはこれで朝食にはぴったりだ。

「うまい」思わず口をつく。

テーブルの向かいに座っているルカがスプーンを器用に使ってチャーハンを口に運ぶ。

そして「おいしい」と笑った。ルカが初めて笑った。

「おいしいかい? よかった。ゆっくり食べるんだよ」

そう言って有の母親はまたルカの頭を優しく撫でた。

有の兄貴が人数分の温かいほうじ茶を淹れてくれる。

俺は、美味しい食事の大切さを改めて感じる。温かい食事。人と食べる食事。美味しい食事。俺が最近まで知らなかったこと。



「それでさー、あの図々しい女がいうには、今日1日預かってほしいらしいんだけど、ママン、どうかな? 店もあるから厳しい?」

有がチャーハンをペロッと平らげ、母親に尋ねる。

「何言ってるの、有ちゃん。あなたたちだけで大丈夫なわけないでしょ。今日は臨時休業よ」

「え、店大丈夫なの?」

「いいのよ、たまには。孝ちゃんだってたまには休まないとね」

孝というのは有の兄貴の名前だ。

「そうだ、ルカちゃん、今日はおばちゃんたちと、動物園行こうか?」

有の母親が、ゆっくりチャーハンを食べ進めているルカに言うと、ルカは驚いたような笑顔を見せた。

「ルカ、動物園、行きたい!」そう言ってスプーンを動かす手を速めるから、有の母親に「大丈夫よ、ゆっくり食べてから行こうね」となだめられた。

「いいんですか?お店休んで、動物園まで連れていっていただいちゃって」

俺はさすがに迷惑じゃないかと心配した。

「いいのよ。私、孫がいないから、こんな小さな女の子と1日遊べるなんて、嬉しくてたまらないわ」有の母親は少し遠い目をして、微笑んだ。



朝ごはんを終え、さっそく出発する。

俺は行かないつもりだったのだが、有が「動物園久しぶりだなー! 楽しみ!」と燥いでいるから、一緒に行くのか、と思い、そりゃ自分が連れてきた子供をたらいまわしみたいに人に預けるのは良くないよな、と自分の不人情具合を改めて感じた。有と一緒にいると、俺ばかりが冷たい人間のように感じるときがある。



電車でひとつ隣の駅に小さな動物園がある。あるのは知っていたが、来るのは初めてだ。

公益財団法人が管理している動物園で、入園料は無料だった。

ルカはすでにすっかり有の母親に懐いて、手をつないで歩いている。俺は本当に、有の母親に頼って良かったと思った。

動物園は小規模ながら、象やライオン、きりん、しまうま、ペンギンなどたくさんの動物を見ることができ、ふれあいコーナーではウサギやモルモットなどの小動物と触れ合えた。
ルカはウサギをそっと撫で、モルモットを膝に乗せ、楽しそうにしている。ルカは俺たちよりも有の兄貴に懐いて、有の兄貴もルカの写真を撮ったりして、とても可愛がってくれている。俺と有は少し離れたところからその光景を眺める。



ふと疑問に思ったことを有に聞く。

「有の兄貴は、結婚してないのか? すごくいい人そうだし、ノンケだろ?」

「あ、ああ、兄貴なら、結婚していたんだよ」

「していた?」

「うん。お店も、奥さんも一緒にやってたの。けど、亡くなっちゃったんだ。病気で。あっという間だったよ。俺はもう再婚してもいいと思うんだけどね。兄貴が、嫌みたい。先に逝かれるのは、そうとう応えるからって」

俺はしばし言葉が見つからなかった。

陽だまりの中、モルモットを膝に乗せて嬉しそうにそっと撫でているルカと、隣に座ってぴったりと身を寄せている有の母親、笑いながらルカの写真を撮る有の兄貴。どこから見ても家族のように見えた。

「私、孫がいないから」と言った有の母親の言葉が今になって俺に重く響いてくる。コロコロと笑い明るい有の母親。いつもにこやかで穏やかな有の兄貴。厨房で美味しい料理を作り、お客さんに愛され、家族から信頼されている優しい長男。



「ねえ、英二、三毛猫博士のこと知ってる?」

「え?なんだそれ」

「知らない? うちらが住んでるあたりにいるらしいんだけど」

「都市伝説の類か?」

「いや、本当にいるらしいよ」

有の会話は飛び飛びで、急に話が変わるのはいつものことだが、三毛猫博士とはなんだ?

「三毛猫博士ってのはね、もともと研究所で働いてた博士がいてさ、結婚して、奥さんができるの。けど、奥さんが病気で死んじゃったんだよ。そんで、その奥さんが死ぬ前に『私が死んだらしっぽのきれいな三毛猫に生まれ変わるね』って言ったんだって」

妻が亡くなる男の話として、繋がっていたようだ。

「そんで、その博士は、奥さんが亡くなっちゃった悲しみのあまり、しっぽのきれいな三毛猫探しを始めるの」

「奥さんの生まれ変わりを探しているのか?」

「そう。非科学的な話でしょ? 博士のくせに。でも、信じちゃってるんだよ。僕が聞いた話だけでも、100匹くらいの三毛猫飼ってるらしいよ」

「100匹?!」

「そう。妻のことだからしっぽをきれいにし忘れるかもしれないって言って、普通のしっぽの三毛猫も全部、見つけたら保護しているんだって。もともとお金持ちで豪邸に住んでるらしくて、家中猫だらけ。まさに猫屋敷だって」

「本当の話なのか?」

「僕の友達は猫屋敷に行ったことあるって言ってたよ。小学校のときだけどね。なんかさ、夫婦って不思議だよね。特別なんだろうね。うちのママンだって、蒸発したクソ親父のこと、今でも悪く言わないしさ。なんだかね。人生ってミステリーだよね。僕には一生わかんないんだろうな」



そう言って有はルカたちのほうへ歩き出した。

俺はその輪には入るべきではないのだろう、と思い、ひとりで木陰から家族を眺めた。


動物園の近くにあるファミリーレストランで昼食をとり、また動物園へ戻り、十分に動物たちを眺め、飽きるまでモルモットを撫で、ルカはさすがに疲れたのか、帰りの電車で居眠りをしていた。家の最寄り駅になっても起きず、結局有の兄貴がおんぶして歩いた。

有の実家にもどり、店の座敷にルカを寝かせる。有の母親が薄手のタオルケットを持ってきて、ルカにそっと掛けた。寝ている子供は無防備だ。クプークプーと寝息をたてて、熟睡している。


「夜になったら迎えにくるって言ってたけど、何時に来るんだろ?」

有が俺に聞いてくる。今は16時過ぎ。さすがに夜中ということはないだろうが、あの女の連絡先なんて疾うに消してしまっている。

「わからんな。いい加減なやつだから」

「でも、ルカちゃんを見ている限り、あの女の子供には見えないね」

「あぁ、俺もそう思っていた。あいつがこんなにかわいい素直な子供を育てられる気がしない」

「謎は深まるばかり。この世はミステリーだからねー」

有が店のグラスに水を淹れて持ってきてくれる。ありがとう、と受け取ろうとしたとき、俺のスマートフォンが振動した。

「──はい、葉山です。え? サエキさん? あ、はい。はい。あ、リカのことですよね。知っています。え、え? あ、はい。ルカちゃん、預かっています。はい、今寝ています。はい。商店街わかりますか? はい。有沢飯店です。中華料理屋の、有沢飯店です。はい。わかりました。待ってます」

「誰?」

「ルカの母親という女から電話だ。リカじゃない。とりあえず、今からルカを迎えにくるらしい。詳しいことは来てから話すって」

「え、じゃやっぱり、例の派手な女性のお子さんじゃなかったの?」

有の母親も驚いている。

「そうみたいです。とりあえず本当の母親が来るみたいなので、とりあえずは良かったです」

「そうね。とりあえず、待ちましょう」

有の母親が温かいお茶を淹れてくれて、俺たちはルカの母親を待つことにした。

10分ほどしたとき、店のドアがそっと開いた。

「失礼します」

女性の声だ。少し警戒している感じがする。

店の前には「本日は臨時休業」の張り紙をしているから、客ではないのだろう。

全員が一斉に注目する。開いたドアから入ってきたのは、30代くらいの女性だった。黒い髪を後ろで結び、膝丈の紺色のタイトスカートにベージュ色のスプリングトレンチコート。大人4人の一斉の注目に出迎えられて、驚いている。

「あの、さっき葉山さんにお電話した佐伯と申しますが、ルカはいますか?」

「あ、ルカちゃんのお母さんですか?」有の母親が聞く。

「はい」

すると座敷で眠っていたルカが目を覚ました。

「あ! ママ!」

寝起きで母親がいたものだから驚いたのか、座敷から裸足のまま飛び降りて、走って母親の足に抱き付いた。

「ママ! おかえり!」

「ルカー、ごめんね。ママが急にお仕事だったから。寂しくなかった?」

佐伯と名乗る女性も屈み、ルカを大きく抱きしめた。

「うん!あのね、モルモットさわったの! モルモット!」

「え、モルモット?」

「うん!」



「まあ、立ち話もなんですから、どうぞ、お掛けになってください」

有の母親が佐伯と名乗る女性にもお茶を出す。

「すみません。突然娘を預かってくださって、本当にありがとうございました。リカが、妹が大変ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」

佐伯さんが、我々4人に深く頭を下げる。

「え! あ、リカのお姉さんですか?」

俺は驚く。外見も、態度も、全く似ていない。

「はい。リカは私の妹です」

そういって佐伯さんはルカを膝に乗せ、失礼しますと言いながら椅子に掛けた。

ルカは、「ママ、モルモットのね、モルモットの毛を触ったんだよ。あとペンギンとね」と動物園の話をしたくて仕方がないらしい。

「ルカ、ちょっと待っててね。ママ先にお話ししなきゃいけないから。ごめんね」

そう言って我々に向き直る。

「すみません。私はリカの姉で佐伯ミカと申します。ルカの母親です。私は、去年離婚して、ルカをひとりで育てています。普段は保育園に預けているのですが、今日は職場で急な体調不良の職員が出て、急に仕事に行かなければならなくなって。それで、妹が近所に住んでいますので、1日だけルカを預かってくれないか、とお願いしたんです。そしたら、いいよって言ってくれたので、朝からルカを預けました。私も甘かったんですが、妹はいい加減な子ですが優しい子なので、まさか他人の方に預けてしまうなんて思ってもいなくて。本当にご迷惑おかけしました。妹のことは強く叱っておきますので」

「いや、私たちは迷惑ではなかったですよ。それより、心配したでしょ、見ず知らずの男に預けたなんて言われて。自分の子供だったらって思ったら、誘拐されたような気分だわ」有の母親が言う。

「ご迷惑をおかけしておいて失礼な話なんですが、さっきルカに会うまで、本当に心配しました。葉山さんがどんな方か知らなかったですし。でも、ルカが元気にしていて、本当に安心しました」そう言って佐伯さんはルカを抱きしめた。

「すみません。こちらの自己紹介がまだでしたね。俺が電話に出た葉山です。それで、彼が俺の恋人の有で、こちらが有のお母さんとお兄さんです」

「あ、恋人、ですか。あれ、リカとお付き合いしていたんですよね?」

「はい。あの、男女どっちでも付き合えるタイプなんで」

「そうなんですね」佐伯さんは少し困ったような顔で笑った。

「ママ、ルカね、動物園いったの」

「え? 動物園?」

「すみません。葉山さんと有が、自分たちだけじゃ1日面倒をみられない、って言って私たちのところに来まして、それで、私も孫がいないもので、つい可愛くなってしまって。余計なことかもしれないんですが、一緒に動物園に遊びに行ってきました」有の母親が話す。

「そうでしたか。だから、さっきからモルモットとかペンギンとか言ってるんですね。この子、動物大好きなんです。重ね重ね、ありがとうございます。なんだか、こんなに楽しそうに話すルカは久しぶりに見ました。私が普段忙しいから、あまり構ってあげられてないんです。今日1日楽しかったようで、本当にありがとうございました」

佐伯さんはまた深く頭を下げて、ルカを抱きしめた。

「ママー、お腹空いた」

ルカが突然言う。

「あら、そうね。何食べようかしらね。今日はママが急にお仕事になっちゃったから、何でもルカの食べたいもの作ってあげるよ」

「ルカ、おばちゃんのチャーハン食べたい!」

「え?」

「ねえ、おばちゃん、チャーハンがいい!」

ルカはそう言って有の母親を見た。

「朝、食べたあれかい?」

「そお! あれ! チャーハン!」

「よし、じゃ、夕飯もみんなでチャーハンにしようかね」

「え、チャーハンって、ここでですか?」佐伯さんは驚いている。

「だって、ルカちゃんが食べたいってい言うならね」

「ルカ、食べたい!」そう言って笑いながらルカちゃんは佐伯さんの膝から降り、有の母親の足元に抱き付く。「あらあら、ルカちゃん。チャーハン気に入ったんだね」有の母親は嬉しそうに笑う。

「もうルカったら。すいません」佐伯さんも笑う。

「ママン、僕レバニラもつけてー!」

「それは孝ちゃんに言って」

「兄貴、レバニラ~!」

「よし、まかせろ」

そうして佐伯さんとルカも一緒に、賑やかな夕飯となった。結局、チャーハンとレバニラだけでなく、餃子や麻婆豆腐も出てきて、テーブルの上は豪華な中華三昧になった。店を急遽閉めた分、材料が余っていたようだ。

やっぱりうまい。どの料理もうまい。ルカがいるから辛さ控えめにしてあるが、麻婆豆腐もうまい。いつも有が「レバニラとらーめん」と言うからそればかり食べていたが、次は麻婆豆腐を頼もうと決めた。

「ところで、リカって人は何で英二にルカちゃんを預けちゃったの?」

有が佐伯さんに聞く。

「あぁ、それは、昔捨てられた男にドッキリをしてやりたかった、なんて言っていました。葉山さんなら医者だから子供の扱いにも慣れているだろう、という安心もあったらしいです。私が、どうして見ず知らずの人に預けたりするの! って怒ったら、英二は絶対に悪いことはしないから、私なんかが預かるよりずっとルカのためだ、なんて言っていました。本当に申し訳ないです」

「英二、信頼されてんじゃん」

有が睨んでくる。

「もう関係ないんだ。本当に信じてくれ」

「有さん、それは私からも、お願いします。本当に、あの、リカはいい加減な子ですけど、今はちゃんと好きな人がいて、葉山さんに未練はないって言っていましたので、ご心配なさらずに」

「ならいいけどね」

有がふてくされて頬を膨らすから指で突いてやると、口からブーと空気が漏れて変な音が鳴り、それをルカがおもしろがってケラケラ笑った。ルカが笑うとみんなが笑う。子供というのは、そういう存在であることが正しいのだろう。つられて笑っている自分に気付いて、子供の力は大きいなと実感した。


「派手で図々しい女に振り回された1日だったけど、なんだかんだ言って、楽しかったね」

有が「なんか悔しいけど」と言いながら話す。

有沢飯店で豪華な夕飯をごちそうになり、俺たちは家まで歩いている。

「そうだな。有の家族に助けられたな。感謝しないと」

俺はルカがいる間中ずっと我慢していたラッキーストライクに火をつける。久しぶりに吸うと煙草は濃い。煙を深く吸うと、肺の奥にずんと響くから不思議だ。ちゃんとニコチンもタールも、肺の端まで届いているのだ。有もアメリカンスピリットをくわえる。

「ママンも兄貴も楽しそうだったから、結果オーライなんじゃない? ルカちゃんもまた遊びに来たいって言ってたし、今度から急に佐伯さんが仕事になったら、ママンのところに預けに来たりしてね」

「そうかもしれないな」

もうすぐ日没の時間。薄暗くなってきた商店街が黄昏色に染まる。

歩きながら煙草を吸うのはきっと行儀が悪いのだろうけれど、俺は行儀が悪いから仕方がない。

「英二の隠し子疑惑も晴れて、マジで良かったよ。今朝、聞いたときは、一瞬殺しちゃうかと思ったよ」

「怖いことを言うなよ」

「ふふふ、マジだって。僕はさ、英二を殺したって、ちゃんとトリック使って密室にして、逃げちゃうんだから」

「あの、テグスのチェーンもできないお前がか?お前が密室トリックで苦戦しているうちに、俺がダイイングメッセージ書いてやるよ」

「えー、そんなのずるいよ。じゃ、密室は諦めて、凶器のないトリックってやつでいこうかな」

「どうやるんだ?」

「紙で凶器を作って、ヤギに食べさせるんだよ! 今日動物園にヤギいたでしょ? あいつ、紙食べてくれるかなー?」

「ふはっは」思わず笑ってしまう。

「ヤギが食べてくれるかどうかも問題だが、紙でどうやって俺を殺すんだ?」

「うーん、尖らせて刺す!」

「俺は結構鍛えてるぜ」

「うーん、じゃ、スパナで殴る!」

「おい、紙どこ行ったんだよ」

「小説の中で撲殺するなら、凶器は絶対にスパナなんだよ。もう決めてるの!」

「そうかそうか、じゃ、スパナが事件現場にあったら、有の仕業だと思うから捕まえてくれ、って今から遺書を残して、ママンに預けておくかな」

俺はくわえ煙草で有の頭をモシャモシャにする。有は「ママンに預けるのはズルだ!」と言いながら俺の腕に腕を巻き付けてきた。

「有、三毛猫博士の話をしただろ、今日」

「うん。このへんの近所での噂だよ」

「そのとき、有は、僕には一生わからないかもしれないと言ったな」

「え、うん。だって結婚したことないし」

「俺も結婚したことはないんだが、なんとなく、わかる気がするんだ」

「何が?」

「もし、もし有が俺より先に死んだとして、猫なり犬なり、生まれ変わったとするよ。そしたら、俺はそれが有だとわかる気がする」

「え、本当?」

「あぁ。だから、確信が持てるまで三毛猫を探して保護し続けてる三毛猫博士が本当にいるのなら、俺には少し、気持ちがわかるな」

「英二はそんな話、信じないタイプかと思ってた」

俺は煙を深く吸って吐く。

「俺も、自分はこんなタイプじゃないと思っていたよ。でも、今日、動物園で有の家族を見ていて、思ったんだよ。今、有と俺は一緒に暮らしてるだろ」

「うん」

「まだ数か月だけど、これから何年、何十年と一緒に暮らすとする」

「うん」

「そしたら、それってもう家族なんじゃないかなって、思ったんだ」

「何それ。英二、ロマンチックじゃん」

有が腕にぶらさがるようにくっついてくる。

「な。ロマンチックだよな。自分でもよくわからんよ。お前と一緒にいると、だんだん自分が優しくなっていくようで、不思議だ」

「いいんじゃない? ロマンチックで優しいワイルドなイケメンなんて大歓迎だよ!」

「そうか。それならいいが」

俺は、有に認められればそれでいい、と思えている自分にも、驚いている。こんな風に人を想ったことはなかった。俺はこんな人間じゃなかった。

「じゃ、次は僕がロマンチックな話する番ね」

「おう」

「黄昏っていうじゃん? こういう、夕暮れ時のこと。なんでか知ってる?」

「誰ぞ彼? だろ?」

「なんだー、知ってたの?」

黄昏というのは、薄暗くなってきて「誰ぞ彼?(たれぞかれ)」「あなたは誰ですか?」と問いかけるするような、お互いの顔が見えにくくなってくる時間帯を指す、という語源があるのだ。「たれぞかれ」が縮まって「たそがれ」になったのだ。

「知ってたよ。偶然だけどな。どれ、有の顔は見えるかな?」

腕にしがみつく有の顔を覗き込んだ途端、両手で頬を挟まれて、チュッとキスをされた。

「なっ!」

「ふふふ! 僕の勝ち~!」

「煙草危ねえだろ。まったく、外でそういうことをするな。男女の問題じゃないぞ。大人としての問題だ」

「ふふふ~、もうしちゃったもんね~」

楽しそうに笑う有を見て、苦笑しながらも、相変わらずかわいい奴だな、と思った。俺は吸い終えた煙草を携帯灰皿に捨てる。

こんなかわいい奴と何年も何十年も一緒に暮らして、いつか家族になれるなら、長生きするのも悪くないなと思った。

早く帰って、風呂に入って、早く一緒に布団に入りたい。

そう思って、思わず速足になる俺。

同じ気持ちだったのか、有もニヤニヤしながら速足でくっついてくるから、俺は立ち止まって、黄昏色の空気の中、驚いた顔をする有の頬を両手で包んでさっきより長いキスをしてやった。



《おわり》

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秋谷りんこ(あきや・りんこ)
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