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掌編小説「マテリアライズ ブラック」①/④
それは、突然訪れた。
高校の授業が終わってから直行して働いているコンビニバイトの帰り、21時を過ぎた頃。沙理は、妹の理奈のお弁当用のパンをバイト先でもらい、急いで店を後にした。21時までのシフトの日は、帰りが遅くなるからお腹がすくし、帰り道が暗いからちょっと怖い。
速足で帰路を急ぐ。自宅まであと100mほどの直線道路。昼まで降っていた雨のせいで、濡れたアスファルトや車や電柱は、つややかにくっきりと輪郭を持っていた。半袖が少し肌寒いくらいの外気。あまりに静かな雨上がりの夜。
街灯の下に大きな水溜まりがあった。直径1mほど。避けて通り過ぎようとしたとき、沙理はふと小さな違和感を持った。背中がすうっと冷たくなるような、不安に似た違和感。
何がおかしいのだろう。怖い気持ちと確かめたい気持ちが半分半分。恐る恐る水溜まりをちらっと見て、違和感の正体に気付いた瞬間、沙理は激しく後悔した。
見なければ良かった。どくんと心臓が跳ねる。
その水溜まりには、街灯の灯りが反射していないのだ。
濃い墨汁のような透明感のない濁った黒い水面。鏡面のようになるはずの水溜まりに、何も映っていない。
これは見てはいけないやつだ。覗いてはいけないやつ。
「夜、水溜まりを覗き込んではいけないよ。魔物に引きずり込まれて、二度と戻ってこられないから。」
小さいとき祖母に聞いた話を思い出す。これが、その魔物なのか。
見てはいけない。そう思っていても、異様なほど暗い水面から目が離せない。次の瞬間、風もないのにゆらりと水面が波打った。
沙理は驚き、走り出した。やっぱり見てはいけないものだったのだ。危ない。魔物に捕まってしまう。通学バッグを強く抱きしめながら夢中で走った。
家に辿り着いても、鍵を開ける手が震える。背後から魔物が迫っているのではないか、今にも覆い尽くされるのではないか、焦って鍵を落としそうになる。やっとの思いで鍵を開け、家に入り、急いで鍵を閉め、もたつきながらチェーンをかける。沙理はそこでやっとひとつ大きく息を吐いた。
「お姉ちゃん?おかえり。今日カレーおいしくできたよ。」
リビングから妹の理奈が呑気な顔をのぞかせる。
「ただいま。ありがとう。」
かろうじて返事をし、笑顔を返す。
強く抱きしめていた通学バッグの中で、理奈の明日のお弁当、クリームパンがつぶれていないといいな、と沙理は思った。
翌日、また雨のバイト帰り。
沙理は昨日の水溜まりのことを思い出していた。考えすぎだ。見間違いだ。祖母から聞いた迷信が印象深くて、怖いと思い込んでいたから変に見えただけで、きっと普通の水溜まりだったんだ。沙理はそう思いながら家の近くまで来た。
そこで沙理は、そのものを見つけ、あまりの恐怖に声も出なかった。
それは、家の前の電柱にいた。
異国の熱帯雨林のジャングルに住む巨大な猿のように、電柱にしがみつき、ぶらさがっていた。ドロっとした、乾ききらぬコールタールの塊のようでもあった。漆黒よりもさらに深い黒。雨に濡れてじっとりと重みを含んだ喪服のような黒。まさに闇そのものが、電柱からぶらさがっていた。
沙理の背中に冷や汗が流れる。これは、見間違いなんかじゃない。確かに、あそこに何かいる。あれがきっと、魔物。
恐ろしいが、目を逸らした瞬間に飲み込まれそうな気がして、見つめたまま動けなかった。
何分くらいそこに立っていたのだろう。
真っ黒な闇は電柱からどろりと剥がれ、ずるずると流れ落ち、地面の水溜まりの中にどろんと流れ込んでいった。静かな水面にゆるりと波紋が広がり、そのあとは雨の音だけが残った。
沙理は恐怖で口がカラカラだった。
翌日のバイト中、沙理は仕事に身が入らなかった。あんな恐ろしい物を見てしまったというのに、また今日も同じ道を通って帰らなければならない。心配をかけたくないから、妹の理奈にも相談できずにいた。今日も雨。
「おつかれ、沙理ちゃん。」
話しかけてきたのは常連客のエミである。小さなきっかけがあって会話するようになり、今では来るたび話しかけてくれる。
沙理は、こんな姉がいたらいいな、といつも思っていた。優しくて快活で明るいさっぱりした女性。自分にないものを全部持っているように見えた。憧れの存在。
「あ、エミさん。いらっしゃいませ。」
「あれ、どうしたの?顔色悪いよ、大丈夫?体調悪いの?」
昨夜はほとんど眠れなかった沙理は、本当に顔色が悪いのだ。
「体調は悪くないんですけど、ちょっと悩み事?というわけでもないんですけど。」
「何何?どうしたの、相談ならいくらでも聞くよー!」
エミは後ろで束ねた長い髪を揺らして微笑む。この人のように笑いたいと沙理は思っていた。あんな話をしたら、自分が変だと思われて嫌われてしまうかもしれないと思ったが、誰かに相談したい気持ちが勝った。
「実は、変なものを見たんです。」
「変なもの?」
「はい。真っ黒で、ドロドロしていて、大きな、何かです。」
沙理はここ数日にあったことをエミに話して聞かせた。レジに客がいないことをいいことに、細かく説明した。
エミに嫌われてしまったかもしれない。沙理は思ったが、話を聞き終えたエミは予想に反して「じゃ、今日は家まで一緒に帰ってあげる。」と言い出した。
「いや、さすがに悪いですよ。そんなつもりで話したわけじゃないですし。ミキちゃんもいますし、夜9時ですよ。悪いですって。」
ミキとは、今エミが押しているベビーカーに乗っている赤ちゃんだ。
「でも、ひとりじゃ怖いでしょ?雨だし、その変なのが出る条件揃っちゃってるじゃん。」
「まあ、それはそうなんですけど。」
「大丈夫、大丈夫。旦那とミキと夜の散歩だよ。」
「本当にいいんですか?」
「うん。バイト夜9時まででしょ?9時までに店に来るよ。」
「すいません。図々しいこと頼んじゃって。」
「いいって、いいって。大丈夫よ。じゃ、またあとでね。」
エミは会計を済ませると「じゃーね」と帰って行った。
本当に一緒に帰ってくれるんだろうか。それなら確かに心強い。でも、こんなことに付き合わせて、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
21時、バイトを終えて、理奈のお弁当用の菓子パンをもらって店を出ると、本当にエミがベビーカーを押して、エミの旦那と待っていた。
「お、沙理ちゃんおつかれ。」
「本当に来てくれたんですね。本当にすみません。ご主人もすみません。」
「大丈夫ですよ。ミキが寝ないときなど、たまに散歩しますから。」
「すみません。」
優しくて余計申し訳ない気持ちになる。あんな変な黒いドロドロ、見間違いかもしれないのに。自分の気のせいかもしれないのに。そんな沙理の気持ちは気にしていないのか、エミはさっさと歩きだす。
「こっちだよね?」
「あ、はい。そうです。」
沙理は自分が道案内をしなければ、と思い、先頭にたった。
自宅まで100mほどのところ、ここで沙理は気味の悪い水溜まりを見た。
「最初の水溜まりはこのあたりで見たんです。」
沙理は、今は何もない普通の濡れたアスファルトを指す。エミは興味深そうに地面を見つめ、そのまわりも見渡す。特に変わったところはない。それから少し歩く。
「ここがうちなんですけど、その反対側の、あそこの電柱に、変な黒い大きなものがいたんです。ドロっとしてて、気持ち悪くて、ずるずる動いて水溜まりに潜っていきました。」
思い出しても鳥肌が立つ沙理は、半袖の両腕をさする。
「うーん。」
エミは道路を見て、電柱を見て、沙理の自宅を見た。
「すみません。何も起こらないですよね。本当にお手数かけました。私の見間違いだったんだと思います。送っていただいて、ありがとうございました。」
沙理は頭を下げて言った。エミはまだ周囲を見渡して「うーん」などと言いながら首をかしげている。そして沙理に向き直り
「あのさ、沙理ちゃん。私だけじゃ力になれないかもしれないけど、解決してくれそうな人、紹介することならできるけど、どーする?」と言った。
「え?」
「たぶん、沙理ちゃんが視たもの、見間違いじゃない気がする。」
「本当ですか?」
「うん。けど、私じゃ無理かも。」
無理、とは何のことなのか、沙理はわからなかったが、見間違いじゃないなら、あれは何なのだろう。
「次、バイトない日っていつ?」
「明日です。16時には帰れます。」
「明日、16時ね。ちょっと待ってね。」
そう言うとエミは携帯電話を取り出し、誰かに電話を始めた。
「あ、もしもし、エミです。夜分にすいません。明日16時すぎって空いてますか?はい。そうです。依頼です。高校生の子なので、私一緒に行きます。はい。詳しいことは明日話しますけど、山矢さんにしか頼めない感じです。はい。じゃ、よろしくお願いします。」
電話をきるエミ。
「明日、私の職場の人に相談に行こう。」
「職場って、エミさん働いてるんですか?」
「うん。今は育休中なんだけど。その人なら、解決できると思う。」
「っていうことは、やっぱり何か起こってるんですか?」
「たぶん。詳しくは明日、その人に相談して、説明してもらおう。見た目ちょっと怖いけど、いい人だし、腕は確かだから。」
話の流れはよくわからないが、どうやら誰かに相談できるらしい。
「じゃ、明日16時コンビニの前で待ち合わせでいい?」
「あ、はい。よろしくお願いします。」
エミの勢いに押される形になったが、宗教の勧誘とか高い壺を買わされるとかじゃないといいな、と沙理は少し心配した。
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