小説:クロニック デイズ【16065文字】
僕は恋をしている。
人生で初めての、本物の恋だ。今までも、ちょっと気になる女の子はいたけれど、今回の気持ちとは比較にならない。高校3年生にして、僕は初めて、本物の恋をしている。
相手は同じクラスの佐藤エミ。3年生になって初めて同じクラスになった。2年生のときまでは「他のクラスの金髪の派手な子」という印象しかなかった。でも、3年生になって同じクラスになってから、印象が大きく変わった。
派手に脱色していた金髪は辞めるつもりなのか、黒髪が根本から伸びてきても一向に染め直す気はないらしく、プリンみたいになった状態。身長は160センチくらい、細身。クラスメイトとにこやかに歓談していたりして、2年生のときに持っていた印象よりずっと柔らかい、明るい子なんだな、と思った。
そんなギャップを持ったのがきっかけだったのだが、やたら佐藤のことが気になりだした。
新しいクラスにも慣れ始めた頃。
授業が終わって帰ろうとしたとき、塾に遅れそうだった僕は、急いで教室から出ようとして、教室に入ってきた人物と思い切りぶつかった。少しよろけながら「ごめん!」と驚いて声をかけると、ぶつかった相手は佐藤だった。けっこうな勢いでぶつかったのに、佐藤はよろけも転びもせず「あ、こっちこそ、ごめん、大丈夫?」と言ってきた。これから部活らしく、ジャージ姿で、長い髪をポニーテールにして、少しよろけた僕に手を差しだした。「あぁ、僕は大丈夫だよ」そう言う僕に「良かった」と言って笑った。
僕は胸がぎゅっとした。なんだこの笑顔は。佐藤はこんなにかわいかったのか。落ち着け、落ち着け、僕。ギャップが気になっていただけじゃないのか? いや、違う。今の笑顔は、かわいすぎる。佐藤は笑うとあんなにかわいいのか。だめだ、ドキドキする。
早く帰らないと塾に遅れる僕は、ドキドキする自分に戸惑って、結局そのまま廊下でぼおーっとし、塾に遅刻した。
あまりにありきたりな恋の落ち方に自分でも驚く。教室でぶつかった相手を好きになるなんて。少女漫画じゃないんだから。
わかっていても、気持ちは抑えられない。
僕は斜め前の席の佐藤を授業中もチラチラ見ながら過ごし、塾のない日は何気ない風を装って佐藤が属している陸上部の練習を廊下から眺めた。長い髪のポニーテールを揺らして、佐藤は淡々と走った。長距離をひたすら、ストイックに走っていた。そのきれいなシルエットを、僕はただ眺めていた。
僕は大学受験のために塾に通っていて、学校の帰りに駅まで歩く。
前を歩く同じ高校の制服。見覚えのある後姿。学校指定の通学鞄をゆるく肩にかけて、ポニーテールを揺らして歩いている。佐藤だ。
僕は信じられないくらい緊張した。佐藤が1人で歩いている。話しかけるチャンスではないか。ゆっくり後ろを歩いているのも後をつけているようでおかしい。自然に声をかけたほうがいいだろう。少し速足にして佐藤に追いつき、声をかける。
「よ、佐藤」
「あ、木度くん」
振り向いたときに微笑んでくれた。かわいい。
「佐藤、家こっちだっけ?」
「いや、ちょっと行くとこあって」
「そうなんだ」
「木度くんは塾?」
「うん、そう。佐藤は塾行ってないの?」
「うん。私受験しないから」
そうなのか! 初めて知った。佐藤の情報がひとつ増えた。
「あのさ、私、自分の名字あんまり好きじゃないの。佐藤じゃなくて、エミって呼んでくれない?」
僕は驚いた。佐藤が誰にでも自分を下の名前で呼ばせていることはずいぶんあとになってから知ったのだけれど、このときは全く知らなかったから、僕だけ特別扱いされていると勘違いしてしまったんだ。
「エ……エミちゃんって呼べばいい?」
「あ? うん、エミでもエミちゃんでも何でもいいけど」
いつの間にか一緒に歩く恰好になった。何か話題をつながなくては。
「あの……エミちゃんはさ、受験しないでどうするの? 就職?」
「そう。もう就職先決まってるから」
「え、すごいね。就活してたの?」
「うん、もう去年から」
すごい。金髪の派手な子、なんて印象しかなかったけれど、将来のことをちゃんと考えて就職活動までしていたなんて、僕は外見で人を判断していた自分を恥じた。そして、そんなしっかりした考えを持って行動できているエミちゃんを尊敬し、また更に好きな気持ちが高まった。
「じゃ、私ここだから」
そう言ってエミちゃんが突然立ち止まったのは、寿司屋の前だった。ここ? 寿司屋に就職するのか? そんな僕の疑問を他所に、「じゃーね」と言ってエミちゃんはヒラっとスカートを揺らして寿司屋の横の階段を駆けて登っていった。階段の下から、引き締まった輝かんばかりにきれいな内腿が見えたが、僕は自分の持っている全ての理性をかき集めて、気合いを入れて目を逸らした。
夏休み。僕は塾の夏季講習で忙しい。
就職するから受験はしない、と言っていたエミちゃんは、何をしているのだろう。受験勉強に集中しなくてはならないのに、夏休みという会えない期間が僕の胸を焦がす。
せめて一学期中に連絡先の交換くらいしておくべきだった。授業の合間はあまり話しかけられない。放課後は、エミちゃんがさっさとジャージに着替えて部活に行ってしまう。見惚れるような美しいフォームで、ひたすら走っているエミちゃんに、声をかける隙はない。僕は塾があるから帰らなければならない。
夏休みも真ん中を過ぎた頃、模試に備えて図書館で勉強をしようと家を出た。
駅まで歩いていたら、なんと、エミちゃんらしき姿を見つけた。制服じゃない私服のエミちゃん。白いTシャツにデニム。長い髪はいつものポニーテール。心臓がどくんっと鳴る。真夏の晴れた空の下、Tシャツから伸びる細い腕が、陽に焼けていて弾けるように眩しい。こんな偶然はきっと偶然じゃない。神様が与えてくれたチャンスだ。
思い切って声をかけようとしたそのとき
「エミ、こっちだ」と声がした。
え? と思って声の方を見ると、道路を挟んで反対側、1人の大人の男が手をあげていた。真夏だというのに黒いジャケットを着て、細い黒いネクタイをきっちり締めている。暑くないのか? エミちゃんは「おつかれっす~」と言って笑いながらその男に駆け寄った。心なしか学校にいるエミちゃんより明るく見える。黒髪の渋い大人の男。鋭い目つき。鼻が高くて、塩顔。イケメンの部類。声も渋い。
父親? いや、親にしては若そうだ。30代くらいに見える。
寿司屋の職人? いや、寿司屋には見えない。
まさか、彼氏? だとすると、かなり年上の彼氏だ。
エミちゃんはどこか同年代の女子より大人っぽく見えるときがある。クラスメイトがキャッキャと話しているときも、どこかドライな、決して冷めた目ではなく、俯瞰して見ているような、悟っているような視線をするときがあるのだ。それは僕がエミちゃんばかりを目で追っているから初めて気付いたのだけれど、エミちゃんはクラスメイトたちとうまくやっているように見せて、実はあまり馴染んでいない。
あのジャケット男が彼氏だとすると、エミちゃんが大人っぽいのもわかる気がする。そうなると……僕の恋は告白しないままの失恋だ。
いつの間にか僕は、黒いジャケット男と並んで歩くエミちゃんを着けていた。気持ち悪いかもしれないが、気になって勉強どころではない。そっと気付かれないようにあとを着ける。
2人は近くのカフェに入ろうとしていた。店の入り口で男が「ほら、エミ」とエミちゃんをまた呼び捨てにして、ジャケットの内ポケットから金を出し、エミちゃんに渡した。エミちゃんは当たり前のようにその金を持ってカフェに入っていき、男はそのままテラスの席へ座り、煙草をくわえた。エミちゃんと金銭授受の関係にある男。彼氏か、もしくはいわゆる「パパ」というやつか? まさかエミちゃんに限ってそんなことあるわけがない。
店内から飲み物の乗ったトレイを持ってテラスに出てきたエミちゃん。男は煙草を消して、エミちゃんが運んできた飲み物を口にした。エミちゃんは冷たいドリンク(アイスティかな)をストローで飲みながら、何か喋っている。大きなオーニングで日陰のテラス席。風があるから気持ち良さそうだ。僕は男の背後側に回り、2人を監視する形になった。
背中を真夏の太陽が容赦なく焼く。木陰もない電柱に隠れて、僕は何をしているんだ。
すると男が少し顔を寄せ何かエミちゃんに話しかけ、エミちゃんが「え!?」と驚いた声を出した直後、すっと視線をずらし、思い切り僕と目が合った。
「木度くん!?」
うわ、見つかってしまった。最悪だ。でも、なんでわかったんだ!?
「木度くん、何してんの?」
エミちゃんが席を立って、長いポニーテールを揺らしてテラスの端まで駆け寄ってきた。道路の電柱に隠れて2人を見張っていた僕は、何の言い訳もないまま狼狽えた。
「あ、その、図書館に行くところだったんだ。そしたらエミちゃんがいたから、今声をかけようと思っていたんだけど……その、彼氏さんと一緒なのかな、と思って、はは、あの、その、ちょっと邪魔かなって思って、だから、今もう行こうと思っていたところだったんだよ」
しどろもどろで格好悪い。
完全に嫌われたな……と思ったらエミちゃんは「あはははは」と声をあげて笑った。
「ヤダ、彼氏じゃないよ」
「え? 彼氏じゃないの?」
「彼氏じゃないよ。ってか、彼氏に見える? ヤなんだけど」
と言ってまた笑った。彼氏じゃないならあの男は何者なのだろう。やっぱり学校で見るエミちゃんより明るく元気に見えて、僕は少し妬けた。
「ねえ、図書館って急ぎなの? 何か飲まない? 奢ってくれるよ」
暑い陽差しに耐えて監視していたから喉も乾いているし、エミちゃんがお茶に誘ってくれるなんて夢のような話だけれど……あの男が、奢ってくれる? やっぱり「パパ」みたいな存在なのだろうか。それを確かめたい気持ちもあって、僕はエミちゃんについてテラス席へあがっていった。
目つきの悪いジャケット男は、連れてこられた僕を見てエミちゃんに「エミの友達か?」と言った。
「そう。クラスメイトの木度くん」
「そうか。好きなものを頼んでいいぞ」
「だってさ、木度くん、飲み物見に行こう。私デザート食べたい」
いやいやいやいや、突然見ず知らずの他人に奢ってもらうなんて怖くてできない。しかも、この男、無表情でなんか異様な雰囲気がある。それに、エミちゃんの「パパ」なのかもしれない。僕には好きな人を前に、ちゃんと聞いておかなきゃいけないことがある。僕は立ったまま両手の拳を握りしめ、ジャケット男に向かって問いただした。
「あの、エミちゃんとどんなご関係ですか?」
突然真剣な声を出した僕にジャケット男は全く怯むことなく、無表情のまま見つめ返してくる。
「ん? どんなって? 上司だが」
「え?」
「エミ、説明しなかったのか? 俺はエミの職場の上司だ。山矢という」
就職が決まっているって言っていたけど、その職場の人だったのか!
なんて失礼なことを言ってしまったんだ。僕は焦った。早とちりもいいところだ。
「あ、す、すいません。ぼ、僕、エミちゃんのクラスメイトの木度です」
「そうか」
急に腰の低くなった僕にそう言ったきり、山矢と名乗った男は興味のないように自分のコーヒーに口をつけた。エミちゃんはそんなやりとりを見て首をかしげている。
「彼氏じゃないって言ったじゃん。どんな関係だと思ったの? ってか、木度くん、何か飲まないの? 私デザート食べたいんだけど」
エミちゃんに引っ張られて、僕は何か釈然としないまま店内に入った。
結局僕は山矢という男の金でアイスティを買い、エミちゃんはチョコレートケーキを買った。トレイを持って席に戻る。
「木度くんと言ったか。ちょうど良かった。ちょっとエミの話し相手をしていてくれるか?」
山矢という男はそういうと、僕の返事を待たずに席を立った。
「煙草でしょ」とエミちゃんは言う。トレイをテーブルに置いて山矢を目で追っていると、エミちゃんの言った通り、少し離れたテラス席で煙草を吸い始めた。
「ヘビースモーカーなのよ。私がまだ高校生だから私がいるところでは吸わないの。別にいいですよって言ってるんだけど、律儀っていうか、頑固っていうか」
ぶつぶつ言いながらエミちゃんは席につく。思いがけずエミちゃんと2人きりになってしまった。信じられないくらいドキドキする。
「そういえば、なんでさっき僕がいるのわかったの?」
気になっていたことを聞く。僕はうまく隠れていたはずだ。
「あぁ、それなら山矢さんが、『さっきからずっとこっちを見ている男がいるんだがエミの知り合いか?』って言うから。見たら木度くんがいたからびっくりしちゃった」
「え! そうなんだ。」
驚いた。僕はあの男の背後にいたんだ。一度も振り返らなかったのに、なんで気付いたのだ。
僕は山矢が座っていた席へ座り、アイスティを飲む。エミちゃんはさっそくチョコレートケーキにフォークを刺す。
「おいひい!」
口にいっぱいケーキを入れて無邪気に笑うエミちゃんを見て、僕は啜っているアイスティを吹きそうになった。かわいい。かわいすぎる。
オーニングの日陰は風が通って涼しく、目の前にはエミちゃんがいて、嬉しそうにケーキを食べていて、僕は人生の幸運をここで使い切ってしまって、受験に失敗するのではないかと思った。でも、それはそれで別に悪くない、とさえ今は思えた。
「あの山矢っていう人は、上司なのに、休みの日に一緒にカフェなんて来るんだね」
どんなに僕が幸せに浸っていても、視界の端にしっかりジャケット男は存在している。職場の上司と言っていたが、それ以上に親しそうに見えた。嫌味っぽく聞こえないように気を付けたが、どうしたって妬むような口調になってしまった。
「あぁ、山矢さんは上司なんだけど、恩人っていうか、恩師でもあるから」
エミちゃんはペロリとケーキを平らげて満足気にしている。
恩師? じゃ、やっぱり寿司屋の職人なのかな、あの人は。
「先生みたいな感じ?」
「あー、まあそうだね。人生の先生かな。私は日々修行の身」
ふふっと照れたように笑うエミちゃん。頑張って修行して、きっと立派な寿司職人になるんだろうな。僕はいつかエミちゃんの握る寿司が食べたいな、と思った。
「エミちゃんが将来のために頑張ってるなら、僕も勉強頑張らないとな」
「木度くんは、受験するんだもんね。大変だろうけど、頑張ってね」
僕は顔がボンっ! と音を立てたのではないかと不安になった。この陽差しの下じゃなければ赤面も隠せてはいない。
「うん、ありがとう」
なんとかアイスティを飲んで場をしのぐ。頭がパンクするかと思った。好きな女の子の「頑張ってね」はこんなに効果があるのか。
「エミ、そろそろ行くぞ」
煙草を終えた山矢がエミちゃんを呼んだ。
「はーい」振り向いて答えるエミちゃん。
「じゃ、木度くん、またね。受験勉強、頑張ってね」
僕はまた顔が爆発しそうになったが、どうにか堪え、今しかない! と勇気を出す。
「エミちゃん……その、良かったら、連絡先、交換しない?」
口がカラカラになった。緊張のあまり、一瞬世界が止まったかと思った。軽い男と思われたか、気持ち悪いと思われたか、断られたら気まずい、そんな考えが一瞬で脳内を行ったり来たりでぐるぐるする。めまいがしそうだ。
「あ、全然いいよ」
エミちゃんはニコっとして携帯電話を取り出す。
「あ、ありがとう」
僕は動揺を悟られないように格好つけて、自分も携帯電話を取り出した。電話番号とメールアドレスを交換し、「じゃーね」と去っていくエミちゃんとジャケット男を見送り、僕はテラスに1人残された。確かにエミちゃんの連絡先を記憶した僕の携帯電話は、いつも以上に熱を持っている気がした。
夏休みの間、エミちゃんからときどきメールが来た。受験勉強の邪魔しちゃいけないから、という理由で電話はかかってこないのだけれど、受験勉強がなければ電話をしてもいいということか? と僕は良い解釈をして勝手に喜ぶ。
エミちゃんからの連絡は邪魔どころか、修行を頑張っているエミちゃんに相応しい男でいたい、という気持ちから勉強に熱が入るし、受験に失敗して浪人したらエミちゃんと電話ができない期間が延びてしまう、という不純な動機も含まれていたが、僕のやる気を起こすには充分だった。
二学期が始まって学校で顔を合わせるようになって、エミちゃんの部活のない日、僕は塾へ行くための駅まで、エミちゃんは修行先の寿司屋まで、一緒に帰るようになった。最初は偶然会ったから一緒に帰ったのだが、それ以降は、学校を出たあたりでエミちゃんと合流できるように僕が少し時間調整をしている。バッグに荷物を入れるのをゆっくりにしたり、下駄箱で少しぼーっとしたり、それでもエミちゃんに会えれば、約束しているわけでもないのに寿司屋の階段を駆け上がるエミちゃんを見送るまで一緒に帰れるから、僕は大満足だ。エミちゃんが、偶然会ったからという理由だけで、たまたま一緒に帰っているのだとしても。
秋も深まり、いよいよ大学受験シーズンが迫ってきた頃、僕は思い切ってエミちゃんをデートに誘った。デートといっても、近所の神社にお参りに行くだけなのだけれど。
誘うメールをするだけなのに緊張で手汗がひどい。何回も何回もメールの文面を見直して、ダラダラ書いても気持ち悪いし、ここはサラッと友達感覚で、と思い「受験の合格祈願に近所の神社に行くんだけど、一緒に行かない?」とだけメールを送った。すると拍子抜けするほどあっさりと「いいよ」と返信がきた。
デート、というのは僕が勝手にそう思っているだけで、エミちゃんにデートとは言っていない。でも、それにしたってあまりにも簡単にOKをもらえて、僕は本当に受験に失敗するのかもしれないと思った。良いことが続きすぎている。僕は案外慎重な人間だ。おもしろくないかもしれないが、コツコツと地道に進むのが性に合っている。だから、浮かれていないで、このデートが終わったらまたしっかり勉強をしよう。そして、受験が終わったら、きちんとエミちゃんに告白しよう。そう思った。
近所の神社は小さくて、人も全然来なくて、寂れている。でも、住んでいる地域の神様を大切にするほうが良い、と家族に言われて育ってきたから、僕は大きな有名な神社はあまり行ったことがない。観光地としては良いのかもしれないけれど、自分のリアルなお願い事は、やっぱり家の近所の、小さな神社に来て手を合わせるほうがしっくりくる。
学校の近くで待ち合わせをすると、エミちゃんは私服では初めて見るスカートで現れた。グレーのセーターに紺色の膝丈スカート、ベージュのムートンブーツ。小さなポシェットみたいなバッグを斜めにかけている。学校にも着てきている紺色のコートは手に持っている。今日は11月にしては暖かい。緊張を悟られないよう、恰好つけている自分が恥ずかしい。
「エミちゃん、今日は来てくれてありがとう」
「こっちこそ、誘ってくれてありがとう。私もお願い事があったから、ちょうど良かった」
そう言って笑うエミちゃんは、控えめに言っても天使としか言いようがない。僕は自分の合格祈願ではなく「エミちゃんと両想いにさせて下さい」という私利私欲にまみれたお願いをしてしまいそうな自分を戒める。受験が終わってから、神様に頼らず、自分で気持ちを伝えるんだ。それまでは勉強。わかったな自分。
スカートを褒めたいが、変に思われるかな。
「珍しくスカートなんだね、かわいいね」
サラッとそう言えたらいいけれど、スカートじゃないエミちゃんももちろんかわいいから、なんて褒めればいいんだろう。それに学校の制服はスカートだし。女性を褒めるのって難しいな、と思う。
悩んでいる僕にはお構いなしに、「神社こっちでしょ?」と歩き始めるエミちゃん。エミちゃんのお願い事って何だろう。やっぱり寿司屋の修行のことかな。寿司屋の修行ってどんなことするんだろう。それは聞いてみてもいいだろう。あとあのジャケットの山矢という男のこと。本当に寿司屋の大将なのだろうか。
神社は少し高台にある。神社は高いところに建てられることが多いなと思う。境内までの階段は夏にあった台風で少し崩れかけていて、足場が悪かった。でも数段登れば、もう見晴らしの良い境内前の広場だ。広場には大きなイチョウの木があり、それ以外は何もない。イチョウは紅葉が見ごろで、秋の空に映える黄色は鮮やかできれいだ。
お賽銭を入れて、鈴を鳴らす。
パンパン。手を叩いてお願い事をする。大学に合格できますように。あと、エミちゃんの修行がうまくいきますように。
ふと横を見ると、エミちゃんは真剣な顔で手を合わせていた。思わず見つめてしまう。ドキドキする。受験が終わるまで、この気持ちは我慢しておかなければだめだ。受験に集中して、合格したら、ちゃんと告白するんだ。
神社の階段を下りる。
「足場が悪いから気を付けてね」
そう言ってみるが「うん、ありがとう」と言いながらエミちゃんは、僕よりも軽やかに危なげなく階段を下りる。陸上部で鍛えている体。毎日勉強三昧の僕なんかより、ずっと運動神経は良いだろう。階段を下りきったところにベンチがあった。
「なんか飲もうよ、奢ってあげる」
いたずらっぽく笑ってエミちゃんは、手に持っていたコートをベンチに置いて、少し離れた自動販売機に向かって行った。
僕はベンチのあるところから、エミちゃんを眺める。すらっとした足がスカートから伸びて、ムートンブーツがかわいい。
「もし、お兄さん」
突然話しかけられて、飛び上がりそうなほど驚いた。振り向くと、そこにはガリガリに痩せた背の低いおばあさんがいた。
「あ、はい、何でしょう」
「神社に行きたいのだけれど、ここの階段、足場が悪いけん、ちょっと手を貸してくれないかの」
しゃがれた声。僕はエミちゃんのほうを見るが、まだ自動販売機を見ている。ちょっと手を貸して戻ってくるくらい大丈夫だろう。
「あ、はい。いいですよ」
僕はおばあさんの手をとって、一緒に階段を登った。おばあさんの手は不自然なほど冷たかった。
おばあさんは階段を登り切っても僕の手を離さなかった。
「あの……」
離してください。そう言おうと思うのだけれど、離そうとするほど強く握り返されて、僕は言いようのない不気味さを感じる。
「境内まで連れてってくれませんか」
しゃがれ声で言ってくるから、仕方なく手をつないだまま境内まで歩く。
「どうもありがとう。お兄さん、お名前は?」
「はぁ、木度といいます」
「木度さんね、どうもありがとう」
そう言いながらも僕の手を離さないおばあさん。怖くなって手を振りほどこうとするが、信じられないほど力が強い。
「あのお嬢さんとはどんな関係なんだい?」
「え?」
「しらを切るつもりかい? 仲良さそうに参拝していたじゃないか、エミちゃんと」
え? エミちゃんの知り合い?
「エミちゃんのこと知ってるんですか?」
「さあ、本人に聞いてみようか?」
タッタッタッタッタと走る足音が聞こえ、エミちゃんが階段を駆け上がってきた。
「あ、エミちゃん、今このおばあさんが……」
見るとエミちゃんは階段の一番上、境内前の広場の入り口で仁王立ちし、こっちを睨んでいた。
「エ、エミちゃん?」
異様な雰囲気に驚く。
「木度くんから離れろ」
低い怒りを含んだ声でエミちゃんが言う。
エミちゃん?
「山矢が来なければ勝てっこないだろ? エミちゃんよお」
僕は耳を疑った。おばあさんの声じゃない。え? と思っておばあさんを見ようとした瞬間、ものすごい力で背後から体を抱きすくめられた。
うわ! なんだこれ。僕を抱えている腕は到底おばあさんのそれではなく、屈強な男の太い腕だった。もがいてみるがびくともしない。
「荒草、てめえ、木度くんに手出したら、殺す!」
エミちゃんが大声を出す。
「おお、威勢がいいねえ。そんなこと言ってていいのか? 彼、逃げられなさそうだけど……」
そう言って剛腕の男は僕を抱いている腕にぎゅっと力を入れる。
「うぅ」
思わずうめき声が出る。なんなんだ、こいつは!
「木度くんに手を出すな。木度くんに手を出すな。木度くんに手を出すな」
呪文のようにぶつぶつ言い続けるエミちゃん。
「ふふふっ」
剛腕の男が笑っている。頬に冷たい感触のあと、鋭い痛みが走った。
「痛っ」
見ると男の大きな手に、長い鉤爪が生えている。そのカミソリの刃のような爪が、僕の頬を掠った。それを見たエミちゃんがぎゅっと目を細め
「許さない」
と低く言った瞬間、パーン! と大きな破裂音がし、エミちゃんが手に持っていた缶コーヒーが爆発した。茶色い液体が散らばる。地面を彩るイチョウの黄色が茶に染まる。
風もないのに、エミちゃんのスカートとポニーテールがふわふわと揺れている。
エミちゃんは空いた両手をかざし、わ! っと大きな声を出した。
その瞬間、半透明の四角い物体が空中のあちこちに現れて破裂した。
パーン! と大きな音をたてて尖った破片が飛び散る。エミちゃんはまた、わ! と言い、また半透明の物体が現れては破裂し、そのうちの一つが僕の目の前でパーン! と大きな音を立てて破裂し、破片が僕とアラクサと呼ばれた男に降りかかる。
「エミちゃん!」
僕はエミちゃんのことを呼ぶが、エミちゃんは無表情に手をかざすだけで僕の声は届かない。パーン! パーン! と半透明の四角い物体が次々に破裂して僕を抱きかかえている男を掠るが、男の力は弱まらない。
「おー怖い怖い」
などとふざけた口調で言っている。
「エミちゃん!」
僕の声は届かない。どうしたらいいんだ! 一体どうなっているんだ!
「エミ!」
誰かの声がエミちゃんを呼んだと思ったら、シュタンッ! と1人の男がエミちゃんの正面に立ち塞がるようにどこかから飛び降りてきた。
あ! ジャケット男、山矢だ。え、今どこから降りてきたんだ!
「山矢、早えじゃねえか」
僕を抱えている男が言う。
「うるせえな!」
山矢が振り向きざま、右手をシュッと僕のほうへ向けた瞬間、半透明の鋭い大きな氷柱のようなものがすごい速さで飛んできて、僕を抱える男の腕に刺さった。ぐしゃっと嫌な音をたてて血が吹き飛ぶ。
「うわぁー」
男が痛そうにもがいている。その隙に僕は腕をかわして、エミちゃんに駆け寄る。
「エミちゃん!」
エミちゃんは僕の声なんか全然聞こえないみたいな顔で、焦点もあっていなくて、ただ立っている人形みたいになっていた。
「暴走してやがる」
山矢がぼそっと言い、人差し指をエミちゃんの眉間にすっと当てる。するとエミちゃんは、すとんっと膝から崩れるように脱力し、山矢に抱きかかえられた。
「木度くん、こっちに」
「あ、はい!」
僕はエミちゃんを抱えた山矢について走る。
境内の陰にある木の下に来ると「木度くん、ここに座ってくれ」と言われ、僕が座ると、山矢はエミちゃんを膝枕の状態で寝かせ「ここを動くな。エミを頼む」と言って、手をかざして僕たちを半透明の箱で囲って、走って行った。
されるがままの僕は、恐る恐る半透明の箱を触ってみた。硬くてつるつるしていて、押してもびくともしなくて、自分に何が起こっているのかまだわからなかった。
僕の膝枕の状態で寝かされたエミちゃん。心配になって口元に手をかざしてみる。呼吸はしている。気を失っているが、生きている。
「ふざけんな、山矢あぁぁぁぁ!!」
大きな声でアラクサという男が叫んでいる。
「うるせえな、こっちのセリフだ」
山矢の声。境内の陰から覗いてみると、アラクサという男はいなくなっていて、かわりに巨大な真っ黒いゴリラの化け物みたいな怪物がいた。一体、僕は何を見ているんだ? これは現実なのか?
何が起こっているかわからないまま、それでも僕は、何があってもエミちゃんだけは絶対に守る、と心に決めた。
僕の膝枕で横になっていたエミちゃんが「んん……」と声を出してもぞもぞと動いた。
「エミちゃん? 気が付いた? 大丈夫?」
「あ……木度く……木度くん!」
意識を戻したエミちゃんは、がばりと起き上がり、勢いよく立ち上がって、ガツンと半透明の箱に頭をぶつけた。
「痛い」
頭を抱えている。
「大丈夫?!」
エミちゃんは半透明の箱を撫でて「山矢さんの結界……」とぼそっと言い、「荒草は!?」と慌てたように僕のほうへ向き直った。
「今、山矢って人が闘ってる。何が起こったのか全くわからないんだけど、エミちゃんはあのアラクサってゴリラみたいな怪物を知っているの?」
「ゴリラって」
エミちゃんが言い終わらないうちに、境内のほうからドーンと大きな音がし、見ると真っ黒いゴリラの怪物みたいになったアラクサがイチョウの木に体当たりしていた。
全身を黒い毛で覆われたでかい怪物。でも顔だけは人間みたいだから気味が悪いし、恐ろしい。山矢がひゅっとジャンプし、アラクサをかわす。アラクサは長い鉤爪でイチョウの木をバリッと引っ掻く。イチョウはバリバリと音と立てて傷付き、大きく折れ曲がった。
その姿を見てエミちゃんが言う。
「全身変化……」
「ゼンシンヘンゲ?」
「私も荒草のあんな姿は見たことない。奴の正体は、あんな怪物だったんだ」
今僕たちに何が起きているのか、エミちゃんがあの怪物とどう関係があるのか、山矢とはいったい何者なのか、「ヘンゲ」とは何なのか、聞きたいことは山ほどあるけど、そんなこと今はどうでも良かった。今はとにかく早く、あの恐ろしい怪物を倒してほしい。僕たちは2人で並んで座って、山矢が勝つことを祈るしかできなかった。
ガァー! と大きな気色悪い声をあげてアラクサが山矢を鋭い鉤爪と剛腕で追い回す。山矢はかわしながら、ハイキックでアラクサの頭部に一撃を入れる。ズン! と重い音がして、一瞬揺らぐアラクサ。すぐに立て直してまた腕を振り上げ山矢に襲いかかる。山矢はアウトボクサーのような軽やかなステップで少し距離をとって、ジャケットを手荒く脱いだ。そしてシャツの袖をまくると、右手を勢いよく振りかざす。その瞬間、山矢の右腕がメタリックな長い刀になった。それは太陽を反射して煌めき、美しさすら感じる刀だった。
「部分変化!」
エミちゃんが声をあげる。
「山矢さんの変化、初めて見た。あんな武器を持っていたんだ……」
エミちゃんは隣で小さく震えている。恐怖からなのか興奮からなのか僕にはわからない。気付くと僕も震えている。それは恐怖の震えだった。僕は確実な恐怖を自覚し、エミちゃんの手をとった。エミちゃんも強く握り返してくる。僕らは今怖がっている。汗をかいた手を握り合って、山矢とアラクサの激闘を見つめていた。
アラクサが大きな腕を振りかざし山矢を仕留めにかかる。山矢はすっと横にかわし、アラクサの拳はドーン! と地面を揺らしながら土にめり込む。空振りになったアラクサは再び立ち上がり腕を振り上げる、その瞬間、山矢が後ろ回し蹴りでアラクサの顎を蹴り上げる。クリーンヒットした顎があがり後ろによろめく。倒れずに踏ん張ってアラクサが体を起こした瞬間、山矢が後ろ回しの要領で勢いよく回転し、右腕の刀を振り切った。
はっ!
エミちゃんと手を強く握って、2人で息を飲んだ。
ぐおぉぉぉぉぉぉ!!!
大きな咆哮とともに、アラクサの首が吹っ飛んだ。ビシャっと嫌な音をたてて鮮血が飛び散る。山矢の白いシャツが返り血で真っ赤に染まる。
ドサッと倒れたアラクサの大きな体。血に染まった刀をひゅっと一振りすると、山矢の刀はすっと普通の腕に戻った。
山矢はひとつ大きくため息をついて、天を仰いだ。
すると、転がっていたアラクサの頭と倒れていた体が、ガサっと小さな音をたてて崩れ、砂のようになって風に舞って飛んで行ってしまった。飛び散っていた血液も、山矢のシャツについた返り血も、全て砂と化し、消えて行った。そこには、ただ汗をかいてシャツを着崩した山矢がひとり、立っているだけだった。
僕たちはその光景を茫然と見ていた。
山矢が勝った。アラクサを倒した。
その実感がじわじわ湧いてきて、僕は安堵のあまり泣くんじゃないかと思った。エミちゃんを見ると、僕と同じ気持ちなのか、少し潤んだ目で僕を見てきた。
「怖かったね」
思わず僕は言った。声が思っていた以上に小さくて情けなかったが、怖かったんだ。仕方がない。
「うん。怖かった」
エミちゃんも言った。そして、アラクサの鉤爪にやられた僕の頬の傷に優しく触れ、「ごめんね、私のせいで」と言った。
「僕こそ、山矢さんが来てくれなかったら、エミちゃんを守れなかった」
「山矢さんが特別なのよ」
そう言って、エミちゃんは少しだけ笑った。
山矢は折れ曲がったイチョウの木をよいしょっと持ち上げ、元生えていた位置に戻した。そして、そこに手をあて、しばらくすると、イチョウの木は折れる前の状態に戻っていた。それは驚くべきことなのだが、超常現象的なものが目の前で起こりすぎて、僕の感覚は麻痺している。何に驚くべきか、脳が混乱しているようだ。
山矢は黒いジャケットを拾い上げ、ゆっくり歩いて近付いてきた。僕たちを囲む半透明の箱に手をかざすと、それはパっと消えた。
「エミ、木度くん、もう出てきていいぞ」
山矢はシャツをズボンにきれいに入れ、緩んでいたネクタイを整えながら言った。
「あ、はい」
2人で返事はしたものの、安堵で腰が抜けたのか、足が痺れたのか、体がうまく動かなかった。それを見て山矢は「ゆっくりでいい」と言った。こんなときでも無表情で淡々としているんだな、と思った。
エミちゃんはゆっくり立ち上がって「山矢さん、すいませんでした」と言った。
「何を謝るんだ?」
「私、よく覚えてないんです。木度くんが荒草に人質にとられて、カッとなったら、もう訳が分からなくなって」
「あぁ、そうだろうな。感情のコントロールなんて、まだできなくて当然だ。謝ることじゃない」
「はい。ありがとうございます」
やはり何かの師弟関係なんだな。でも、寿司屋ではなさそうだ。
僕もようやく立ち上がる。足の裏がふわふわしていて、地に足がついていない。
「山矢さん、あの、僕、何が起こったのかまだよくわかっていませんが、助けてくださって、ありがとうございました」
「あぁ、木度くん、エミのそばにいてくれて助かった。大丈夫か?」
そう言って頬の傷を見る。
「はい。少し痛かったですけど、それより怖かったので、山矢さんが来てくれなかったらどうなっていたか」
「奴は俺のいないところで誰かを殺したりはしない。俺の前で痛めつけて見せて、俺を苦しめることが目的だからな」
わかるようなわからないような、きっと今は何を説明されても理解できない気がした。
「それで、木度くん、申し訳ないんだが、見なかったことにさせてもらう」
「え!?」
「あんな怪物や俺の変化を見た、という人間がいると、こちらも困るんだ」
殺されるのか……僕は鋭く美しい山矢の刀を思い浮かべた。
「いや、そんな怖がらなくていい」
山矢は小さく苦笑する。
「記憶を消させてもらうだけだ」
「え、記憶を?」
「そうだ。心配するな、エミとデートしていた記憶までは消さない。荒草に会ったところから、今この瞬間までだ。申し訳ないが、痛みも何もない、すぐに終わる」
そう言って山矢は人差し指を僕の額にすっと差し出した。
「嫌です!」
思いのほか、大きな声が出た。僕は後ずさりして、山矢の指をよける。
「あんな気色悪い奴の記憶を留めておきたいか? 珍しいな。普通は消してください、と言うんだが」
一般的にどうなのかなんて知らない。でも僕は忘れたくない。エミちゃんの怒りを、手を握り合って恐怖に耐えた時間を、終わったときの安堵を、僕は忘れたくない。
「嫌です。僕はエミちゃんと過ごした時間は、どんな時間でも覚えていたい。それがエミちゃんにとって重要な時間ならなおさらです!」
山矢は無表情で片眉を少しあげる。
「さっきの奴は荒草といって、俺を恨んで襲い続けている執念深い奴だ。今日は俺が倒したが、奴は3年経てば蘇る。そのとき君に奴の記憶が残っていると、また今日みたいなことに巻き込まれる可能性がある。君のためにも、記憶は消したほうがいんだが」
僕の気持ちは余計に強くなった。
「それならなおさらです。3年経ってあの怪物がまた現れたときに、僕は今日の記憶があったほうがいい。そのほうが、少しでもエミちゃんの役に立てるかもしれない。お願いします。消さないでください」
僕は大きく息を吸って言った。
「僕は……僕はエミちゃんのことが好きなんです!」
山矢は鋭い目で僕を見つめたあと、手に持っていたジャケットの内ポケットから煙草を出して1本くわえた。
火をつけると顔を背けて煙をふっと吐き「エミが決めろ」と言った。
エミちゃんを見ると、アルファベットのOの字みたいな口をして、僕を見ていた。
あぁ、僕は今、告白してしまったんだ。突然実感して、赤面した。
「エミちゃん、僕はエミちゃんのことが好きです。まだ何が起こっているのか僕にはわからないけど、今日のことは、エミちゃんにも関係があることなんでしょ? その、今後も今日みたいな怖いことがあるとき、僕はエミちゃんのそばにいたい。役には立たないかもしれないけど、エミちゃんが怖い思いをして闘っているのを、忘れることなんてできないよ」
僕は今想っている最大限の気持ちを伝えた。
エミちゃんはOの口をゆっくり閉じて、ふーっと息を吐いて地面を見た。
「私と一緒にいるせいで、今日みたいなことに巻き込まれる。それは今後も一緒だよ。山矢さんが言う通り、荒草はまた蘇ってくるし、私の結界だって見たでしょ。普通じゃないんだよ、私。バケモノって言われて育ってきたんだから」
そう言ってうつむいた。エミちゃんがバケモノ。誰がそんなことを言ったのだ。今日のエミちゃんは確かに普通じゃなかった。でも、一瞬もバケモノなんて思わなかった。
「エミちゃんは特殊な能力があるのかもしれないけど、僕は一瞬もバケモノなんて思わなかった」
エミちゃんは僕を見たあと、また地面をじっと見ている。ブーツで土をこすっている。かわいいベージュのムートンブーツは、さっき爆発させたコーヒーでシミになっている。
「本当にいいの?」
「うん。いい。僕は忘れたくない」
エミちゃんは、少し離れて煙草をふかしながら僕たちを眺めていた山矢に向き直って「このままでいいですか?」と言った。
「エミはそれでいいんだな?」
「はい。木度くんの記憶は、消さないで下さい」
山矢は煙草を携帯灰皿にもみ消しながら「木度くんもいいんだな?」と聞いた。
「はい。僕もこのままにしてほしいです」と断言した。
「わかった。そのかわり、他言無用だ」
と静かに言った。
「はい。絶対誰にも言いません」
言ったところで、誰にも信じてもらえないだろう。
山矢は腕時計をちらっと見て「壊れたな」とボソっと言い、エミちゃんに「何時だ?」と聞く。
エミちゃんはポシェットから携帯電話を出して「えっと、13時です」と答える。
「あぁ、腹が減るわけだ」
「ですね。お腹すきました」
エミちゃんも笑って答える。
あんな怪物の首が吹っ飛ぶところを見たあとにお腹がすくとは、やっぱりエミちゃんは肝が据わっている。僕はエミちゃんと一緒にいる覚悟を決めたんだ。こういう現象に慣れていかなければならないんだろう。
「僕も……お腹すきました」
「ほんと~?」
からかうように僕の顔を覗きこむエミちゃんはやっぱり天使で、普通じゃなくても飛び切りかわいい女の子で、僕はこの人とずっと一緒にいたいと改めて思った。
「大将のとこ、ランチやってますかね?」
「行ってみるか。開いてなくても、今日くらいは開けてもらおう」
そう言って山矢が歩き出す。
黄色いイチョウの葉が1枚ゆらゆらと風に乗って、何事もなかったかのように地面に落ちた。それは底抜けに平和で、言葉にならないほど美しい日常だった。
「行こう」とエミちゃんが僕に手を出すから、僕はその手を強く握り返した。
《おわり》