
掌編小説「BEAUTIFUL DREAMERS 」②/③
※できれば「BEAUTIFUL DREAMERS ①」を先にお読みください※
4月から本格的に山矢探偵事務所で働き始めた。
山矢さんがいない間の電話番、書類の整理、野村さんに渡す領収書の整理、室内の掃除。
難しいことは何もなかった。
依頼人の話を聞くとき、山矢さんの隣に座り、少し助手のような仕事をすることもあった。必要に応じてメモをとったり、タブレット端末で地図を表示して山矢さんに見せたり、SNSで情報を集め(偽情報も多いが)山矢さんに知らせたりもした。
「俺もエミもITはすこぶる弱い。田橋が来てくれて本当に助かる。」
大したことをしていないのにそんな風に言ってもらえて素直に嬉しかった。依頼人の方に「本当にお世話になりました」と感謝してもらうことも多く、怖い仕事だと思っていたけれど、やりがいもあるな、と思ったりした。99件の面接不採用も、ここに辿り着くためには意味のあることだったんだ。
なんだかんだ前向き(能天気)な私は探偵事務所の仕事って楽しいんだな、と思った。
山矢さんは基本的に無表情で、笑ったり怒ったり、感情をあらわにすることがなかった。口数も少なく、仕事の話以外はほとんど喋らなかった。
白いシャツに黒いジャケット、黒い細いネクタイというのがお決まりのスタイルで、ほかの服装は見たことがない。探偵事務所の3階に住んでいるらしいが、生活感は全くない。
そういえば年齢も聞いていないが、30代中旬くらいか。ヘビースモーカーで、1日のうちの相当な時間煙草をくわえ、煙を深く吸っては吐き出し、すっと目を細めその煙をただじっと見つめているのだ。ときどきこっそりそんな横顔を盗み見るが、物思いに耽っているようにも見えるし、ただぼーっとしているようにも見えた。
そんな山矢さんは意外なことに依頼人の女性から好感を持たれることが多い。
「山矢さん、素敵よね。ご結婚なさってるのかしら。」
「山矢さんってセクシーよね。彼女いらっしゃるの?」
何度も複数の依頼人に耳打ちされたが「知りません」と言うしかなかった。
素敵?セクシー?私にはわからない。
「まさか、あなたとできてるってことはないわよね。」
「まさかね」といって笑うご婦人もいたが、釣り合わないと言われているようで、それはそれでなんとも複雑な気分だった。
私がまだ子供なのだろうか。山矢さんは相変わらず、無表情で生活感のないちょっと怖い顔をした、でもときどき褒めてくれる上司にすぎなかった。
仕事にも慣れてきた8月。
朝から暑くて湿度も高い。家から近いから徒歩通勤だが、こうも暑いとしんどい。自転車でも買おうかなあ、と思いながら階段を登る。9時ちょうど。
山矢さんはもう事務所にいて、煙草を吸いながらコーヒーを飲んでいた。
「今日は午前中から行くところがある。11時から初めての依頼人の予約が入っているから、それまでには必ず戻る。」
「はい。やっておくことはありますか?」
「いや、11時の依頼人まで予定はないから、飛び込みの依頼があったら携帯に電話をくれ。」
「わかりました。」
山矢さんはコーヒーを飲み終えると煙草を消し、じゃ、と言ってジャケットを手に持って出かけて行った。あの黒いジャケット暑くないのかな、と思う。夏用なのかな。
張り込みや聞き込みなどの現場の業務はまだ経験していない。
そのうち着いていくことになるのかな、と思ったが、実感はなかった。
静かな室内で書類の整理を始める。
夫の浮気調査。娘の彼氏の身辺調査。盗聴器の発見と撤去。一人暮らしの女性の駅までの送迎(護衛?)。不動産にいわくがないか調査。行方不明の猫探し。
いろいろな依頼があるものだな、と思いながらファイリングしていく。
紙のファイルではなくクラウドに保存すればいいのに、と思い、山矢さんに相談してみよう、と思った。でも野村さんに相談したほうが早いかもしれないな、とも思った。SNSでさえ使わない山矢さんのことだ。真顔で「クラウドって何だ?」と言われそうだ。
1時間ほど書類や領収書の整理をし、室内の掃除を始める。
30分ほどたったところで事務所のドアがノックされた。
11時にはまだ早い。飛び込みの依頼?そんなことほとんどないのに。
「はーい」
ドアを開けると、腰の曲がった痩せた老婆が立っていた。
「11時から約束の者です。少し早く着いてしまいました。」
ひどくしゃがれた声。ぐりっと首をあげ、私を見上げるその顔には無数の皺が刻まれ、ぎょろっとした目でこちらを見つめてくる。
怖い!
瞬時に思った。ほとんど反射的に体が拒否していた。
でもどうして。こんなにか弱そうなおばあさんなのに。何も怖くないではないか。
でも、目を合わせられないほど怖い。
「あの、少し早いですが入れてもらえませんか。外は暑くてかないません。ほかのお客様がおいでですか?」と老婆。
「あ、いえ、大丈夫です。すみません、どうぞ。」
室内に案内したが、入れた瞬間から鳥肌が止まらない。
どういうことだ。このおばあさんの何が怖いのか。
わからない。普通の痩せた小柄なおばあさんだ。
でも、怖い。理由はわからない。でも一緒にいたらだめ。
全身の細胞が私に危険信号を送っている。
老婆は「よいしょっ」と言ってソファに腰を下ろした。
「あの、山矢は今不在でして、お約束の時間には必ず戻りますので、少しお待ちください。」
少し離れたところからとりあえず伝えるべきことを伝える。
「早く来た私が悪いんですよ、待ちますとも。」
耳がぞわっとする。声を聞くのもつらい。
何なんだ、この人。
「お、お茶いれますね」
そう言うなり私は給湯室に逃げ込んだ。
私は意味のわからない恐怖に襲われながら山矢さんに電話した。
「山矢さん、すみません、11時からの依頼の方がいらしたんですけど」
「早いな」
「はい。それが、なんか、怖いんです。」
「怖い?」
「はい。うまく説明できないんですけど、ただのおばあさんなんですけど、華奢で怖い要素何もないのに、なんか、めちゃくちゃ怖いんです!それで私今給湯室に逃げてきて、別に何もされてないんですけど、なんか体が拒否するっていうか、どうしたらいいでしょうか、山矢さん、私怖くて怖くて。」
ほとんどパニックだった。
「田橋。落ち着いてよく聞け。俺はすぐに帰る。もう近くまで来ている。いいか、俺が帰るまで給湯室から出るな。鍵をかけて閉じこもっていなさい。」
「いいんですか、お客様放っておいて」
「ああ、たぶんそいつは依頼人でもなんでもねえよ。とにかく隠れているんだ。いいな。」
「はい。」
電話を切って給湯室の鍵を確認する。よし閉めた。
「お姉さん!」
ひっ!
ドア越しすぐ目の前から突然声がして私はのけぞった。
「お姉さん、お茶まだですか?」
「あ、はい、今お持ちしますので、お待ちください。」
声が震える。あぁ怖い。山矢さん、早く帰ってきて。
早く早く早く!
ほんの3分ほど後、突然バタン!と事務所のドアの開く音がした。
「やっぱりお前か。俺がいないときに来るなんて、相変わらず卑怯な奴だな。」
山矢さんだ!
「久しぶりじゃねぇか、山矢。3年ぶりだな。」
え?
私はまた全身がぞわっと総毛だった。
それはあの老婆の声ではなく、男の人の声なのだ。
「何しに来た。」
「久しぶりなんでね、エミちゃんに挨拶と思って寄ったんだ、そしたら知らない子がいたよ。新しい子か?」
「お前には関係ねえだろ。」
「おお怖いねえ。やっぱりお前のことは本当に嫌いだ。」
「こんな狭い部屋でやろうってのか。」
「ふん。今日は挨拶に寄っただけだと言っただろ。せいぜい夜道に気を付けろ。俺はいつでもお前を、ヤレるんだからよおおお!!!」
大きな声で叫ぶ怒声とともに、ガッシャーンという激しい音がした。
「あの野郎!ふざけんな。」
山矢さんの声のあとは、何も聞こえなくなった。
あの老婆(いや、男の人?)はいなくなったのだろうか。
トントン。
給湯室がノックされて心臓が飛び跳ねた。
「田橋、いるか?大丈夫か?」
山矢さんの声だ。
「はい。なんとか、大丈夫です。」
「もう出てきていいぞ。怖い感じ、消えただろ?」
そう言われてみると、ドキドキはしているが、さっきまでの言いようのない恐怖心はなくなっていた。私はそうっと給湯室のドアを開ける。
山矢さんだ。いつもの無表情の山矢さんだ。
私は泣きたいくらいほっとした。
「山矢さん、あの人、何なんですか?」
まだ声が震えている。
「怖い思いをさせてすまなかった。奴は荒草といって、俺を恨み続けてる変な奴なんだ。今年来ることはわかっていたが、いつもより早いから油断した。本当にすまなかったな。怖かっただろ。」
「アラクサ。」
何から考えていいのかわからず、放心状態だった。
給湯室を出て部屋へ戻ると、道路沿いの大きな窓が粉々に割られていて驚いた。
「おーい。山矢くん、大丈夫かー!?」
聞きなじみのある声。寿司屋の大将だ。
山矢さんは窓へ駆け寄って道路を見下ろす。
「大将、すいません。被害はないですか?奴です!荒草です!」
「そうか、来おったか。下のガラスは片付けておくから気にするな。そっちは忙しくなるだろ。」
「ありがとうございます!」
私も恐る恐る道路を見下ろすと、砕けたガラス片が道路いっぱいに広がっていた。通行人がいたら大変なことになっていただろう。
「窓ぶち破って出ていきやがった。あの野郎。」
「窓を破って。」
やっぱり私にはまだ理解できないことが多かった。
「ゆっくり説明しないといけないな。とりあえず、疲れたと思うからソファで休んでくれ。今コーヒーを淹れる。」
私は言われた通りソファに座った。本当に、ぐったりと疲れていた。
「野村さん、俺です。荒草が来ました。はい。エミにも連絡します。」
山矢さんが電話で何人かにアラクサという人が来たことを知らせていて、私はコーヒーカップを両手で包みながらそれをぼんやりと聞いていた。さっきの怖い老婆のこと、突然男の人の声に変わったこと、珍しく感情的に言い争う山矢さんの声、粉々に割られた窓、そこから逃げたというアラクサ。考えても何が起こったのかわからなかった。
10分もせず野村さんが来た。ソファで蹲っている私にそっと会釈をする。
「今年は早いですね。あぁ、窓。これはひどい。」
野村さんは山矢さんと話し、窓の破損状況を確認し、修理の電話をし始めた。
そのすぐあとに突然事務所のドアがバーンと開けられ私は驚いて体がビクンとなった。
「山矢さん、大丈夫ですかー?」
若いきれいな女性が入ってきた。細身で、長い髪を後ろで束ねている。20代くらいだろうか。白いTシャツにジーンズ、アーミー柄のキャップ。紺色のベビーキャリーで赤ちゃんを抱いている。
「あぁ、エミ、忙しいのに悪いな。」
あぁこの人がエミさんか。
「うっわー、窓粉々。相変わらずひどい奴だな。」
「そうなんだ。今年は早いから油断していた。」
そこでエミさんは初めて私に気付いた。
「あ!もしかして新しく入った人?よろしく、私エミ。今育休中なんだ。育休中なのに呼び出されてまいっちゃう、ねえー。」
と最後のねえ、は赤ちゃんに向かって言った。
「田橋と言います。よろしくお願いします。」
「荒草、むかつく奴だったでしょ?あいつ顔でかいし声もでかいし、きもいんだよ。」
「あ、それが、なんかおばあさんの恰好をしていて、私そのアラクサ?って人を知らなかったので依頼人かと思って、でもなんか普通じゃないっていうか、怖いっていうのは感じて。それで給湯室に逃げていて。」
「え?荒草のこと聞いてなかったの?」
「あ、はい」
「やーまーやーさーん。」
エミさんが山矢さんを睨んだ。
「なんで新人さんに荒草のこと言っていかなかったんですか?なんか怖いって感じて逃げてくれたから良かったけど、危なかったじゃないですか!」
珍しく山矢さんは眉間にしわをよせた。
「本当に俺が悪かったんだ。いや、油断としか言いようがない。奴はいつも冬くらいに来ていたから、もう少し仕事に慣れてもらってから伝えようと思っていたんだ。」
「もう、説明したら退職されちゃうと思って先伸ばしにしてたんじゃないんですか?」
「まぁ、それもあるが。」
こんな言い訳めいたことを言う山矢さんは見たことがない。エミさんとは長い付き合いなのだろうか。親しい空気を感じた。
「でも、田橋なら荒草を見たとき、普通じゃないって感じるだろう、という勝手な予測もあったのは事実だ。実際そうだったから、良かった。」
するとエミさんは私のほうを見て、じーっと頭のあたりを見て、そのあと左肩の上あたりを見て、また視線を戻した。そして「その気持ちはちょっとわかりますけど」とぼそっと言った。
私は何を言われているのか全くわからなかったが、山矢さんと野村さんとエミさんが来てくれて、いくぶん気持ちは落ち着き始めていた。
エミさんが自分用のほうじ茶と3人分のコーヒーを入れてくれて、4人でソファに座り、私はアラクサについての話を聞いた。
荒草はもう何年も山矢さんを恨み続けているらしく、3年ごとに山矢さんを倒しにくる。
その年が今年だったのだ。
私は去年お寿司を食べながら山矢さんに言われた「うちは特殊だから」という言葉を思い出した。まさかこんなおかしな事情とは思っていなかった。
「どうしてそんなに山矢さんを恨んでいるんですか?」
私は聞かずにはいられなかった。何年もつけまわして攻撃してくるなんて、狂ってる。
「それが、もう昔のことすぎて俺は忘れてしまったんだ。考えても、思い当ることがないんだ。」
そして荒草は山矢さんだけでなく、山矢さんが大切に思っている人を攻撃する可能性もあるから注意するように、と言われた。
「エミには護衛はいらないと思うが、ミキがいるから気を付けてくれ。木度くんにも気を付けるように伝えてくれ。」木度くんとはエミさんの旦那さんで、ミキちゃんは赤ちゃんの名前らしい。
「わかってる。」
「それから、田橋は俺が送迎しよう。」
「え!」
「困るか?」
「困りませんが、わざわざ・・・」
断ろうと思ったが、さっきの恐怖を思いだし躊躇する。
「もう顔も覚えられてしまっただろうから、ひとりで出歩くのは危険だ。」
「わかりました。お願いします。」
野村さんは「今年は対荒草用の経費が余分に準備してあるので必要なものは言ってください。揃えます。」と言った。
荒草は神出鬼没であるから気を抜かないこと、遭遇したら必ず山矢さんに連絡をすることが約束され、解散となった。
山矢さんは赤ちゃんが同席していたため控えていた煙草をくわえ、火をつけた。薄い唇。高い鼻。深く吐き出した煙を見つめてすっと目を細める。
「すまなかったな、田橋。」
「あ、いえ、なんとか事情はわかりましたから。」
「退職するか?止めないぞ。」
「いえ、辞めません。」
「とにかく、今年も俺が奴を倒すから。心配するな。」
「はい。」
自分に言い聞かせるように言う山矢さんは、ため息をついて遠くを眺めた。
私は、老婆が突然男の人に声になったり、窓を破って逃げたり(ここは2階だ)、まだ理解できないことが多かったが、この先もっと理解できないことが起こるとは、想像もしていなかった。
《つづく》→③
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