ガレージセール

アメリカには、自宅の玄関前に不用品を並べて、販売または交換するガレージセールという文化がある。
公園などでフリーマーケットを開催するのとは違って、誰の許可もいらず、日程も時間も好きに決められるので、特に引っ越しの時期はあちこちで盛んに行われていた。
家庭によって年に何回か開催する所もあれば引っ越しをするのに物を減らしたい家庭が開催したりと様々であった。
我が家も日本に帰国する、となった時に珍しくガレージセールが行われることになった。
それを聞いた私は「やったー」と喜んだ。色々な人が自分たちの家のものを覗きにくるのが、ちょっとしたお祭りのようなもので楽しみだったのだ。
その時、母が「あなたのシャチのぬいぐるみも出すからね」と言い放ったのだ。
シャチのぬいぐるみというのは、確かシャチが有名な水族館に行った時に、両親だか、アメリカに遊びに来ていた祖父母だかか買ってくれたシャチのぬいぐるみのことだ。1メートル弱あった大きめのシャチで、当時8歳だった私にとってまたがって遊んだり、抱き枕として使ったりとサイズ感が実にぴったりでお気に入りのぬいぐるみだった。
私は断固反対した。「日本に持って帰る」と駄々をこねた。
親は「冗談じゃない、あれは持って帰れないよ」と頑なだった。
親の立場からしたら当然である。当時は、圧縮袋なんて画期的なものなんてなかったから、1メートル弱のぬいぐるみなんて、大人からしたら邪魔くさくて仕方ない代物だろう。
私はしつこく「いやだ、いやだ。持って帰る。日本に一緒に行く」と何度もいったが、親の意見が変わることはなかった。
「とにかく、もう出すからね。わかった?」と言われ、この話は終わった。
私は泣いた。自分が望んだわけじゃないのに、お気に入りのぬいぐるみが手元から離れてしまうことが、悲しくて寂しくてわんわん泣いた。
ひとしきり泣いた後、なんとかシャチを連れて帰れないか考えた。
泣き落としは、すでに実行したが失敗に終わった。
となれば、次の段階だ。親に泣き落としが通用しなければ、他者に泣き落としすればいいのではないか。
つまりガレージセール当日に、シャチを買おうとしている人がいたら「連れて行かないで」と泣きつけば諦めてくれるのではないか、と実に安直で姑息な手を思いついたのだ。というか、大して頭の良くない自分にとって、それが精一杯の作戦だった。

数日たって、ガレージセールは次の土曜日にやることを親から告げられた。
私はがっくりした。毎週土曜日、私は日本人学校に行かなければならなかったので、ガレージセールは自分が不在の時に行われることが決定したのだ。
これで、「買おうとする他者に泣きつく作戦」も実行されないまま終了となった。不戦敗である。

ガレージセール当日の朝、シャチからなかなか離れられなかった。着替えをしては抱きしめ、トイレにいっては抱きしめ、どさくさに紛れて「学校に連れて行ってもいいか」と親に打診したが、当然「ダメ」と一蹴された。

その日の学校は、とても集中できなかった。

学校が終わり、迎えにきた親の車に乗り、早く家に着かないかとソワソワした。
もし、売れ残っていたら「ほら、売れ残ったでしょ。この子はうちの子だよ。置いて行ったら可哀想だよ。だから連れて行こうよ」と親を説得する予定だった。
自宅が見えてきた頃、家の前で行われていたガレージセールはすでに終盤を迎えていて、山ほどあった不用品は、ちらほらとしか残っていなかった。

その中に、シャチの姿はなかった。

子供心に「あぁ、やっぱりな」と思った。
同年代の子供が多い地域だったので、大きめのシャチのぬいぐるみなんて、魅力でしかないだろう。
売れ残った方が奇跡なのだ。
「もしかして、何かの間違いで、残ってるかもしれない」
この期待も、見事に打ち砕かれてしまった。

こうして、私とシャチはあっさりとお別れをしたのである。
今でも、水族館でシャチをみると、あの時のぬいぐるみを思い出す。
どうか、次の子が大事に使っていたことを願う。

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