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「重い足取り」 #小説でカフェ紹介

今日は一段と足取りが重い。別に大したことではないのだ。
頭では分かっている。こんなの全然大した問題ではない。
でも日に日に足取りは重くなっていった。

少しずつ朝晩の気温が下がり、秋の風が吹き始めていた。
もうそろそろコートが必要かもなと思いながら、エレベーターのボタンを押す。今日もあの子、いるのかな、いるよな…灰色に染まっていく気持ちを抱え、エレベーターに乗り込む。

銀座という一等地にある、とあるビルの13階。ここが私の職場。
今日も全部窓が閉まっていて、ブラインドが下がっている。
秋晴れの空を誰も見たくないのかよと思うが、そんな自分もブラインドを開ける勇気はない。まだ新卒1年目。慎ましく、お利口に。
自席に座ってPCのスリープを解いた。昨日やりかけていた資料が画面に映し出され、一気に仕事の頭になる。
やるかと気合いを入れた瞬間、「おはようございます」という控えめな声が聞こえた。

あぁ、きたか。顔を上げると予想通り、丸っこいフレームの眼鏡をかけたあの子がいた。
彼女は新卒2年目で私より先輩だが、いつも敬語で話しかけてくる。
そして常に私の隣りにいる。
仕事中の席は隣り同士、その流れでお昼も一緒に食べるし、帰りも偶然か意図的か同じタイミングで駅まで行くことが多い。

彼女は大人しく、善良な人だ。最初は楽しかった。
ランチの後、一緒に近くの抹茶アイスクリーム屋さんに行って、二人でアイスをつついたり、まだ賑やかだった築地で卵焼きを買い食いしたこともある。
しかし毎日二人なのもなと思い、ある日「先輩もランチ一緒にどうですか」と前の席の先輩を誘った。
その時に隣りから微かに聞こえた「え?」という声を私は逃さなかった。彼女の顔を見ると、少し不満そうだった。
…なぜ?彼女が先輩を嫌っている話は聞いたことがないし、関係性は問題ないはず。気のせいだと思うことにした。
ランチはつつがなく終わり、彼女も先輩と普通に話していた。
なんだ、やはり気のせいだ。

先輩とのランチが思った以上に楽しく、次の日も誘ってみた。
するとやはり彼女は不満げな顔をした。

その次の日は、先輩が離席中に「ランチ行きませんか。お腹すいちゃって」と彼女が声をかけてきて、誘う暇もなく食べに行くことになってしまった。

おかしい。やはりおかしい。彼女は明らかに私と周囲を遠ざけようとしてるように思えた。それに気がつき、次第に窮屈に感じはじめる自分がいた。
ずっと二人で過ごすことになるのかと思うと、楽しかったはずの時間を段々と重く感じ始め、逃げ出したい気持ちになった。

職場でパワハラを受けているわけでもなければ、激務という訳でもない。こんな問題他の人に比べたら全然大したことないはずだ。
彼女は悪い人ではないし、こんなことで頭を悩ませている自分が嫌になった。我慢しようと思ったが、毎日の小さな我慢の積み重ねはやがて大きな壁となってしまった。

ある日、私は遂に二人の空間から逃げた。
「ごめんなさい。今日は大学の頃の友達が会社の近くに来ているので、その子とランチ食べてきますね」
彼女に早口で伝え、ぱっと会社を飛び出した。
一人でいつも行かない道を歩いた。
申し訳なさ、罪悪感、それと同時に湧いてくる解放感、高揚感がごちゃまぜになった気持ちを抱き、彼女に見つからなさそうなとこへ逃げた。
15分くらい歩いただろうか。
ぽつんと、看板が置いてあるのが目に入った。
看板まで歩いていくと、そこはカフェだった。
Turret Coffee。
中に入ると、こんにちはと赤いニット帽を被ったお姉さんが声をかけてくれた。小さいけど、その分アットホームな雰囲気で満ち溢れていた。
観光客の間で有名なのか、外国人のお客さんが多い。
順番を待って、アイスラテとどら焼きを注文した。

カウンター席に腰掛けて、出来上がるのを待った。
他愛もない雑談が聞こえてくる。
ああ、気が抜けていくのが自分でも分かる。
やっと落ち着くことができた。そんな気持ちだった。

「アイスラテお待たせしました」というお姉さんの声で我に返った。
受け取りに行くと、ものすごく美しいエスプレッソとミルクのグラデーションが待っていた。
誘われるように、写真を取るのも忘れて一口飲んだ。
あまりの美味しさに目が眩んだ。こんなことは初めてだった。
口の中に含んだ途端衝撃的な美味しさに出会い、喉を通して幸福感に包まれる。
悩んでいたことやさっきまでのもやもやは一気に吹き飛び、ひたすらにカフェラテに溺れた。
後半になってどら焼きの存在を思い出した私は、カフェラテを飲み続けたい気持ちを一旦抑え込み、仕方なくどら焼きの袋を開けて何気なく食べた。

…信じられない美味しさだった。
あんことバターが口の中で溶け合い、美しいハーモニーを奏でていた。
そして瞬時に悟った。これはカフェラテと絶対に相性がいい。
その勢いで、まだどら焼きを飲み込む前にカフェラテを飲んだ。

思わず目を瞑った。
誰にも、何者にもこの幸せな瞬間を邪魔してほしくなかった。
無心でカフェラテとどら焼きを交互に味わい、気づけば無くなっていた。
ぼーっとしたままカフェを出る。
どうやってオフィスまで戻ったかはあまり記憶にない。

それからというもの、胸の中にはいつもあのカフェがあった。
存在に支えられていた。
もしまた我慢できなくなったら、あそこに行けばいい。そう。

彼女は相変わらずだったが、私の気持ちに余裕が生まれ、
少し楽しめるようになってきた気がする。

でも彼女には申し訳ないが、どんなに楽しくても、またあの天国に一人で行かずにはいられないだろう。
いつ行こうかと楽しみにしながら、今日も私は会社に向かう。

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