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自助という不安定
自助団体って、その場にいるサバイバーが、どのような経緯で救われてきたのか、というのが、その団体の資源やカラーとなっていく。
私は自分が精神科の個別的な支援によって生き延びてきたので、やはり同じ経緯で生き延びている人が開いている場の方が安心する。
しかし、世のサバイバーって、私が思っているよりもずっと色々な経緯で生き延びてきた人も多いと知った。
何が正解か分からないのだけれど、このぐちゃっとした感じ、これからも考えさせられそうだなと思って記録したい。
毎年、市の福祉課からアンケートが届く。
受けている福祉サービスの質は満足か?というのがいつもの趣旨だけど、
今年は「自助ボランティアに興味はありますか?」という質問がすごい増えていた。
自助団体は当事者が自然に起こすことで、行政がそれに頼るっておかしくね?
自助団体にかかわる機会があると、その力と危険性を感じる事がある。
「ほっとした」「自分だけではなかった」「自分の経験を役立てることができた」
当事者同士が寄り添いあう事ができる場は、支援者側だけでは提供できないものだ。
そして、支援者の手をつかむよりずっと間口が広い。すごく良いことではある。
私のような患者でも、自分のためにも少し社会の役に立てる。
一方で、個別的な背景や潜在的に抱えている問題が無視されがちなまま、個々の現状の比較や支援者への不満が膨らむこともありうる。
当事者はストレスの重さから支援者への不満を募らせやすい。私の場合はそうだったから特にそんな気がするのだけれど。
「分かってくれない」となる背景には、もっとずっと誰にも触れにくい個別的な事を内包している事だってあるのだ。
当事者同士だと、少しそれにふれ合えるような時もある。
相手が支援者であるのとは違って、その人その人で距離感の責任が発生する。
それが苦にならず乗り越えて行ける人もいるけれど、
自助だけに頼ると、そこで上手くいかなかない人には辛いものがある。
うまくいかなければ余計に重いものを背負ってしまいかねなくて、そういう時に負った重荷は普通の社会で受けた傷を集約したようなものになってしまう事がある。
さながら、医療現場でのミスのようなものだ。
医療現場なら、誰のミスかはっきり分かるが、自助の現場は……
自分のせいと思ってしまったり、敵対心として自分を保つ姿勢にもつながってしまう。
辛い。
……つまり、これが私の姿だったのだ。
こういうアウトプットをしなければいけないのは、それを単に社会に言いたいだけではなく、
私自身も、全員がそうなるわけではない事を認識し直す必要があるからでもある。
私の持っている自助では、医療を信用してもらうための働きかけをしている。
「あちゃー」と思う事も多い。
それでも私たちはそれも飲み込みながらその人の医療機関を信じる事を選ぶ。
その人がそれで頑張っているから。
この界隈は答えのない道ばかりだけれど、身に覚えのある何かと繋がる事が多い。
私はこうして、上手くいかずに傷ついた頃の自分を癒やしているのかも知れない。