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食器を買う基準2

海辺の民の皿の前に戻ってきた。

やっぱりきれいだから戻ってきたのが正解だったと思う。でもまだ皿の前でしばらくウロウロした。買うこと自体はもう決まってるんだ。だって今日から私も海辺の民だし。問題は、皿の枚数だ。

日本の場合、一般的な一家庭が所有する皿の枚数は5枚とどこかで聞いた。欧米の場合、多くの土地では6枚。皿の枚数ルールの背景には諸説あるらしい*。でも私が小さい頃から繰り返し聞いてきた「欧米が偶数枚な理由」は、ディナーにお招きする客はカップルであることが前提だから、というものだ。日本は逆に、大事な食事の席に「パートナーを同伴する習慣がない、女性は呼ばれない」から偶数にこだわらないのだとか。

5枚にするべきか、それとも6枚か…。私は一人暮らしだから、もしもディナーにお呼びする人々にパートナーご同伴ルールを義務付けたとしても、5枚で充分…。友達2人とそのパートナーズと私で5枚。うん、高いし、5枚で大丈夫だ。

いや、待て。どうして私自身がシングルなのにパートナーご同伴ルールで枚数を決めるのか。そもそも5枚も並ぶのか、うちのテーブル。あと5・6枚分も私に友達いたっけ?いたとして、友達にパートナー連れてこられるの若干嫌かもなんですけど…。いやいやいや、なんで21世紀の東京で一人暮らしする私が、A.招くならカップルじゃなきゃという、たぶん西洋圏である時代に作られた特定の家族観絶対正義に基づいた皿枚数にするか、B.これもまたある時代のある集団内で常識だった「宴の席に女なんて呼ばないぜ」な皿枚数の二択で迷ってるんだ? 

…色々、間違っている。
私が迷うべきは、5枚か6枚か、の二択じゃない。
私の場合、1枚にするか否か、の二択の方だ。
なにせ一人暮らしだし。

でも友達が来た時用に、数枚そろいがあった方が便利かな?あと、ほら、ね、今はひとりでもさ、もし将来パートナーとかできたら2枚は必要になるかも…?みたいな…。でも今は1枚で良いのに、起こるかわからない未来のためにこの高い皿を2枚買うのか…?あれ、さっきまで5枚とか言ってた?

こんな感じで未だウィンドウ前をウロウロしている。もう空は暗くなってきてショーウィンドウが明るく光っている。ふと、「まだ見ぬ恋人との未来を想像しては(悪い意味で)ドキドキと焦ってきた過去の自分」の姿が、走馬灯のようにショーウィンドウに映ったように見えた。

ちびっ子の頃、私は起きてすぐに人と会話を交わすのが嫌だった。まず絶対にうがいがしたい。でも映画で見る恋人同士とかは、朝一番にベッドでキスとかしてる。ってことは、私は大人になったらどうしたら良いんだろう、この朝一番は速攻でウガイしたい癖(?)は、いつか、なおるのかな、とドキドキした。

中学生の頃、クラスで「彼がグッとくる女になる」みたいな特集の雑誌を回し読みしていた。その特集に「走って胸が揺れると乳腺組織が切れます。胸が垂れるので走るときは要注意。予防には正しいサイズのブラを」とあった。切れるとか怖いんですけど…と青ざめた。当時、遅刻しがちな私は毎朝疾走していた。未来の彼にグッときてもらうために、下着屋さんで正しいサイズのブラを新調しに行った。(ブラ買わずに遅刻をなおす発想はなかった。)ジャスミンの香りをまとった綺麗な店員さんが、私にピッタリというブラを見繕ってくれた。でもピッタリのはずのブラは締め付けがキツすぎて、クローゼットに仕舞われたまま、社会人になって捨てるまで一度も着けずじまいだった。私はいまだに、走る時にあの雑誌の言葉を思い出しては、少し不安になってしてしまう。

高校生の頃、私はお通じが悪かった。でも長くトイレにこもると解決することに気がついた。漫画などを持参してトイレに行くようになった。しかしたまにふと、恋人との同棲とか、結婚までにはトイレにこもる癖をなんとかしなきゃと思った。(トイレが2つ以上ある家の存在をしらなかったので、当然それに住むことを目指すという発想はなかった。)テレビでバラエティーを見ていたら、一般人と結婚した元アイドルが「(結婚相手が家にいる間は)トイレに行きません、彼の前では常にプリンセスでいたいんです」みたいな事を言って、その場を盛り上げていた。共感するような、ドン引きのような複雑な心境でそのアイドルを見ていた。実家ですらトイレを人と共有するのが苦手な私は「将来の恋人・夫との生活(主にトイレ生活)」を思うと憂鬱だった。

大学生の頃、私は完全に夜型になっていた。夕方から深夜にかけての時間が一番集中力があがって(いるように思えて)効率が良かったのだ。しかしある日、恋人と同棲している友達の家に遊びに行った際、彼らが「アフターファイブは2人の時間だから仕事は全部昼に済ませて、夜は映画を見たり食事に行ったりする」とワインを燻らせながら言うのを聞いて、朝型になおさないと将来「2人の時間」できないじゃん、と素敵カップルな生活を見て焦った。

いつだったか忘れたけど、大事な人から「その、殻にこもる、不満があっても何も言わない癖を何とかしないと、大事な人ほど離れていっちゃうよ?」と助言された。余計なお世話だと思う部分もあったが、私を大事に思ってくれている人の言葉だった。それ以来ずっと「いつか本当に大事な人と出会う時までには、不満を溜め込む性格をなおさないと」と焦ってきた。(ちなみに私は「不満」が「不満」であることに長いこと気が付けないという鈍感力の持ち主だ。気がついた頃にはもう遅い…みたいなのを繰り返してきた。)

…走馬灯の内容がダサすぎるし、私は今も相変わらずだ。それぞれの時期に感じていた、私の「問題」たちは、今もほとんど何も変わっていない。やっぱり今も朝一番はうがいがしたいし、キツいブラはしたくないけど走るし、トイレにはこもるし、夜型だし、不満がある時にそれを口に出すことはすごい苦痛だ。

これら全部、やっぱり問題だと感じる部分もある。

だけど、私自身が問題視してきたこと以上に、「問題」自体が問題だったことなんて、一度もなかった。

いつかは、「本番」が来るんだ。

いつかは、「正常」になるんだ。

本番や正常の前提があって、それに見合っていない、「今」の自分への不満や不安、焦りや失望を、どれだけ反芻して人生を過ごしてきたんだろう。

私は何度、いつか来る「正常」、いつかくる「本番」に合わせようと、その時々で不安そうに焦る自分に、早く治れ!とダメ出ししてきたんだろう。その瞬間瞬間の自分を舞台裏に追いやってきた。その一瞬一瞬のすべてが、私の人生の本番で、私にとっての正常だったのに。今振り返ると、悔しさのような、怒りのような、同情のような、優しさのようなものが込み上げてくる。

実は私はまだ、皿前をうろついている。(テレビ版ドラゴンボールの戦闘シーン並のスピードでお送りしています。)ピカピカ光る貝殻の皿と金のカテラリーが、夜の暗闇をあかるく照らしているようだ。

買う皿の枚数は、1枚にすることにした🍚

未来の恋人とか関係なく、友達用にしても、お姉ちゃんが遊びに来るにしても、象徴的な意味をこめて、今は、1枚にしたい。私の本番は今なのだから。今、私は一人暮らしをしていて、1枚が私の本番。1枚が私の正常。

皿を6枚買う代わりだと思ったら気持ちが大きくなってきた。横に添えられていた金色のカテラリーと何に使うのかわからない小皿まで買ってしまおう。このお皿にぴったりだから。今度こそ本当にピッタリなのだから。

私にしてはすごい大盤振る舞いだ。ピカピカな新しい食器たち。帰り道は、雑誌と食器で普通に重かったけど、心軽やかに、海辺の民の住む私だけの家に帰った。

わたしにぴったり!

*皿の枚数が日本で5枚な理由は、偶数は「割れる」から縁起が悪い、とか基本の4人家族プラス1枚で5枚とかがメジャーらしい。西洋の場合、ダース(12)が基準で、その半分だから6枚だとか。


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