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パノプティコンの窓辺から

12月、教員をしていると、年度末のこの時期は、学生さんたちから授業へのコメントが来たりする。

極稀にだけど、心温まるコメントをいただくこともある。「1年間楽しかったです」とか「また先生の授業を受けたい!」とかそういう感じのやつ。こういう言葉をもらうと、私はいつも瞬間湯沸かし器みたいにうれしくなってしまう。

でもその度に「誤解しちゃいけない。強固な上下関係のもとで、学生が教員に言えることなんて限られているだから」と自分を戒める。

そして学生に対しては、「単位がほしいだけだとしても、嬉しいですよ」とか言って苦笑を見せる。こういうリアクションを、私は長いことほぼ反射的に繰り返してきた。

私がそう言ったとき、学生がどんな顔をしていたのかは知らない。だって私の目に、その学生はうつっていないから。私は“けっして調子に乗ってませんから”というポーズをとるのにいつも精一杯だから。

私はそのとき、一体だれと会話しているんだろう。そんなことをもう何年もやってきた。でも、年月も経って、社会も自分も価値観が移り変わり続ける中で、最近思う。

いいじゃん、誤解しても。
いいじゃん、調子乗っても。

言葉に出すと涙が出る。私はいったい、誰の嘲りを恐れて、手渡された相手の好意を、困った顔で受け取ってきたのだろう。いや、捨ててきたんだろう。

相手はそれこそ、私よりずっと年下の、私が余裕を持って接して然るべき「教え子」なのに。余裕のない「大人」な私は、学生を、自分が調子に乗っていないことの証人にするのに忙しい。

また一年の終わりが来て、私は苦々しい顔をして、相手の好意を捨てそうになっている。でも今年はオンラインで、文章でのやり取りが多い。だから、反射的に捨てる前に、学生の顔を見ることができるかもしれない。

今年は捨てないんだ。受け取る時の表情は、きっと相変わらず苦々しいままだけど、幸いにも学生に顔は見えないんだし、「ありがとうございます。うれしいです」って書こう。こういうのの積み重ねで、いつかきっと対面でも、笑顔で好意を受け取れると思うんだ。

過去に、私を好きだと言ってくれたのに、私に伝わらなかったなぁ、と思った学生さんたち、あなたにとっては、べつに大したことじゃなかったとは思うんだけど、それでも、せっかく伝えてくれたのに、本当にごめんなさい。本当は、本当に、うれしかったんです。

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