お香とわたし
二十歳の時にお香にはまった。きっかけはなんだったか。
大学生のとき、福岡から兵庫に引っ越した。車社会の九州とは異なり、交通網の発達した関西では電車でどこまでも行けてしまう。もちろん京都も例外ではなく、当時私が下宿していた家から京都河原町へは阪急電車で 57 分。しかも運賃は確か 450 円とかであった。(今は変わっているかもしれない)
約 1 時間、ワンコイン以下で憧れの京都に行けてしまう。なんて素晴らしいんだろう。
京都に行くのにも慣れてきたある日、清水寺へ向かう途中にあるお土産屋さんで小皿とコーン型のお香のセットを見つけた。皿には猫と月のイラストが。値札のところには白檀をベースにしてうんぬんと書いてあった。「びゃくだん」呼び慣れない音の響き。スマホで調べるとそんな名前の香木とな。いい香り。この香り、すきかもしれない。そう思ったとき背後から友人が現れ、そのお香を嗅いでひと言。「これ、あなたと同じ匂いがする」
当時は香水はおろか柔軟剤すら使っていなかった。匂いには無頓着だった自分がこの「びゃくだん」と同じ香り!?なんてこった!!!
”愛着が湧く”なんてもんじゃない。
浮かれきった私はそのお香のセットを購入し、帰宅後、はじめて自分でお香を焚いた。それまで全く見向きもしなかったものが、ほんの些細なきっかけで身近な存在になるということはよくあるが、私ほど単純にその沼に片足を突っ込む人は果たしてどのくらいいるのだろうか。
いつぞや花火をしたときにジャンケンに負けて持ち帰った安物のライターで火をつけた。タバコも吸わないし「使わないのに…」と思っていたライター。聖なる香木にちゃちなライターで火をつける。そのちぐはぐさにも気がつかない。ゆらゆらと立ち上る煙と、甘くどこか懐かしい香りに包まれた6.5畳の部屋で、どきどき胸を高鳴らせながらすべてが灰になるまで眺めていた。
いつの間にかお香を焚く習慣ができて、それは今でも続いている。今はスティック型を主に焚いている。収納が楽なのだ。習慣と入っても実際には思い立った時に焚くようなもので決まりごとはない。だけど長く続けていくと、朝起きてすぐと夕飯後のリラックス時に焚いていることが多いようだ。特に意図してはいないので、やはりそのタイミングが頭の切り替えを欲していたり、こわばった心と身体をほぐしたくなるタイミングなのだろう。うまいことできている。
それに少しはお香の知識が身についた。香木は主に伽羅と沈香と白檀の 3 つを指すということ。仏教の礼拝時に薫かれていること。日本書紀にも記されているくらい歴史のあるものであること。そして時代と共に人と香の関わり様が変化してきたこと。知識はまだまだ浅いものだが興味があれば着実に身についていくはずだ。今お伝えしたことも、いつの間にか知っていたことなのだから。
お香の楽しみ方はどうだろうか。普段よく使っているのは京都烏丸にある"lisn京都"のもの。いろんな香りをブレンドしたものが多く、植物や果物などよくあるモチーフだけでなく、手触り(さらさら、もちもちなど…)や季節をテーマにしたものもあって面白い。誰かと一緒に行けば互いの季節に対する香りの違いなどで語り合えそうだ。こういう楽しみ方はなんだか平安式じゃないかしら。いろんな香りが調合されたもので、部屋に香りを漂わせるいわゆる空薫(そらだき)をして、香りを身に纏いながら生活している。
すっきりとした香りが欲しいときは同じく京都烏丸にある香彩堂で購入した竹香を焚く。竹の清涼感のなかにスズランやシクラメンの柔らかい香りがすとんと落ちてくる感じ。今日も一日頑張ろうと、そんなたくましい気持ちになるのだ。そうやって私の心と香りがリンクしていく。香りが私自身になっていく。うん、これも平安式に近いような気がする。
だけど平安貴族にしてみたらなんて簡易的なものだろう。あくまで近いだけだから、「簡易版平安式」とでも言っておこうかな。
いつの間にかお香歴も 7 年になっていた。7 年の中でお香を全く焚かなかった時期もある。とてもとても疲れて心が擦り切れていたときだ。本来ならそういう時こそ必要なものなはずだけれど、そういうときは自分を奮い立たせる元気すらもなくなってしまう。
だから今こうしてお香を楽しめているのはきっと心が元気な証拠。そういうものさし的な存在が、少しずつ身の回りに増えてきた。そういったものには思い出の力や自分の意志を超えた、やわらかで私に寄り添うものがある。気づけばいつもそこにあるようなものが自分の根幹を作っていたりするから、面白くて愛おしくてたまらないのだ。
(今回紹介したお香たち)