すごいぞ!おじさん!
数日前にTwitterを眺めていた時、自分のタイムラインのおすすめに次のようなツイートが流れてきた。
「有能を目指すな。明るく元気なやつを目指せ」
ツイートをしたのは、奢られる事で生計を立てているプロの奢られ屋さんらしいのだが、どうやら資格やスキルを獲得するよりも、明るく元気なやつでいる事の方が価値のある事だという内容のようだった。
(うむ。確かにそうかもしれない。自分も職場では有能とは言えないけれど、比較的明るく元気なはずだ。良い事を言うじゃないの。ふふふ。
それにしてもプロの奢られ屋ってすごいな。知人ならともかく、赤の他人に奢るってことは、奢る側はそれなりに何かを期待している訳だろうし、その期待に応え続けているからこそ奢られ続けている訳でしょ?自分には出来そうもないな…。自分は会社の偉い人が全てお金を出してくれる飲み会であっても、出来る事なら偉い人と飲みたくないよ。気を遣うし…)
などと、初めて聞いた職種(?)に想いを馳せながら、そのツイートの事ををうすぼんやりと覚えたのであった。
そして先程、急にその言葉が頭をよぎったのだが、その時ふと思ったのである。
「まてよ?このままいくと、おれは明るく元気なだけのおじさんになるのか?なんか…、それはちょっと嫌だな…」
なんとなくで完全に自分の主観なのだけど、明るく元気なだけのおじさんと、暗くて元気がないけど有能なおじさんだったら、なんだか後者の方が良いような気がする。
明るく元気なだけが許されるのは、せいぜい20代ぐらいまでの若者か、おじいさんぐらいなのではないだろうか?
いや、決しておじさんを否定したい訳ではない。ないのだが…、なんかちょっと…、ねえ?
明るく元気なだけの若者
明るく元気なだけのおじさん
明るく元気なだけのおじいさん
とにかく明るい安村
並べて見ると一目瞭然である。おじさんだけ妙な悲壮感が漂ってくる。
安村は全然関係ない。そこに並ぶんじゃない。
なぜ、おじさんだけこんなに厳しい視線に晒されるのか、
少しおじさんが可哀想になったので、その理由を考えてみた。
おじさんは若者よりも生きてきた期間が長く、世間一般的な目で見れば、おじいさんと比べてまだまだ社会に貢献する事を求められている人達である。
つまり、経験豊富であり、社会的な価値をもっていて当たり前だと思われている人達なのではないか…?
きっとそうだ。そうか、そういう事だったのか…!
あれ?まてよ?おじさんって実はすごく大変な人達なのではないか?社会の期待という重圧を背負って現代社会を生き抜く、歴戦の戦士達なのではないか?
それに気付いたとき、自分は愕然とした。
まずい。何も自慢出来るものが無い、強いて言えば人より少しだけ感受性が豊かなだけの自分は、このままだとシンプルに明るく元気で感受性が豊かなだけのおじさんになってしまう…。
いや、30代は見る人が見ればおじさんに分類される事もあるだろう。つまり自分は既に明るく元気で感受性が豊かなだけのおじさんなのではないか…?
ショックで膝から崩れ落ちそうになった。
世のおじさんって実は重圧に耐えながら、それを少しも周りに感じさせないで生きているんだ。
みんな!おじさんってすごいんだぞ!
そう思った事を記事にしようとして今に至る。
せめて、良い人になって、明るく元気で良いおじさんになろうと思いながら、記事を書くためにそのツイートを遡ってさがしていたら、
「有能を目指すな。明るく元気なやつを目指せ」
ではなく、
「有能を目指すな。明るく元気な良いやつを目指せ」
と書いてあった。
良いやつ!良いやつが抜けてた!
とても大事なところである。明るく元気な良いおじさんなら何となく許せるし、好ましい感じがする。
うすぼんやりとしていたせいで、変な事を考えてしまった。
一体これはどういう記事なのだろうか。
書いていて、なんだかよく分からなくなってきた。
一つだけ言える事があるとすれば、自分は明るく元気でうすぼんやりとしているおじさんになりつつあるという事だ。
無念。
おわり