ノヴゴロドの文化財とその周辺地区について解説!
今回紹介するのは「ノヴゴロド」。新しい街という意味ですが、ロシア最古の都市です。この都市には、たくさんの文化財があります。それとはどのようなものでしょうか?
この記事に政治的意図や特定の国や宗教、文化を称賛したり批判したりする意図は一切ありません。あくまでも中立の立場で解説を行います。
基本情報
9世紀に発展したノヴゴロドにある城壁や聖堂、修道院を指す総称です。現在は地方都市であるものの、この都市にある文化財は当時の繁栄を誇るものと言って良いでしょう。これらは、9世紀から10世紀にかけての古代ロシア国家の樹立過程と直接関係しています。また、11世紀から19世紀のロシア建築の発展を象徴させるものでもあります。
ノヴゴロドの歴史
都市がいつ建都されたのかは正確には分かっていません。『過ぎし歳月の物語』(『原初年代記』)によると854年か859年とされています。考古学調査によれば、860年代か870年代に火災によって焼失しており、そのあと再建されたとされています。
862年、スウェーデンのヴァイキングのノルマン人・ルス族が首長リューリクに率いられてノヴゴロドを占領し、スラヴ人を征服してロシア最初の国家を建設したのが、ノヴゴロド公国の始まりです。
882年、キエフ大公国が建国されます。コンスタンティノープルに近いキエフが政治の中心になるにつれ、ノヴゴロドは商業・工業に優れた都市へと変化していきました。
1240年、モンゴル帝国が侵攻しました。キエフが火事で焼けてしまってあとかたもなくなる中、ノヴゴロドは侵攻を免れました。そのため、モスクワがロシアの歴史の表舞台に登場するまで、ロシアの中心都市として繁栄しました。ハンザ同盟の外交施設である「商館」が置かれ、ドイツ商人たちが農産物や毛皮の買い付けにやって来た。
1478年にノヴゴロド公国はモスクワ大公国によって併合。この頃にはモンゴル帝国の支配力は弱体化し、モスクワ大公国のイヴァン3世はツァーリの称号を使い始めました。彼はノヴゴロドの商人に重税を課したため、モスクワとの関係は次第に悪化していきました。
1570年、この時代のツァーリ、雷帝とよばれたイヴァン4世によりノヴゴロド虐殺が行われます。当時のノヴゴロドの人口の1割にあたる約3千人もの住人が拷問の末に虐殺されたとされ、死体は氷の浮いたヴォルホフ川に遺棄されていました。何日も流され、ラドガ湖の底はおびただしい遺骸がたくさんあったと記録に残っています。
1598年、フョードル1世の死後、ロシアでは大動乱という内戦が起こり、1611年にノヴゴロドは介入してきたスウェーデンのグスタフ・アドルフに占領されました。同年、ツァーリがいないロシアにスウェーデン王子カール・フィリップがノヴゴロドにおいてツァーリに選ばれました。しかし彼はツァーリと認められず、ウェーデンで国王が代替わりした後、1617年に撤退した。
1703年、ピョートル1世は新首都サンクトペテルブルクの建設を始めました。これ以降、ロシアの商業の中心はサンクトペテルブルクに移り、ノヴゴロドは「地方都市」になりました。
1862年、リューリク即位1000周年を記念して、ロシア1000年記念碑が市内中心部に建立されました。
建築物の解説
聖ソフィア大聖堂
キーウ(キエフ)の方の聖ソフィア大聖堂を再現しようとした建築物です。玉ねぎ頭のクーポラが特徴的なビザンチン建築の教会です。
しかし、荘厳で豪華な装飾品で飾られたキーウ(キエフ)の大聖堂とは正反対です。必要最低限に抑えられた装飾はシンプルなもので、内装にはモザイク模様ではなくフレスコ画が用いられています。大理石も使われていません。それでもノヴゴロド派の傑作となり、その後の建築に大きな影響を与えたものです。
イリーナ通りのスパサ・プレオブラジェーニヤ教会
イリーナ通りのスパサ・プレオブラジェーニヤ教会はノヴゴロドを代表する世界遺産です。中世ロシアを代表するイコン画家であるテオファン・グレクのフレスコ画があることで有名です。
「生母出現」のイコンがノヴゴロドをスーズダリから守ったという伝説があります。スーズダリに攻めいれられた時、大主教はお告げがあった通りにイコンを町の城壁に掲げました。するとイコンの聖母が涙を流し、スーズダリは侵攻を諦めました。現在、このイコンは聖ソフィア大聖堂に保存されています。
最後に
ノヴゴロドは長い歴史のなかで発展してきたロシア建築を象徴するものがたくさんあります。現在例の件のせいでこういうのを記事にすることも難しいですが、今だからこそ文化を理解することが大切だと思い、この記事を書きました。