あのこは貴族 それぞれの地獄
映画関連のnoteは、大好きな「マグノリア」から始めようと考えていたが、「あのこは貴族」を観て思わずこれは書かねばと思った。
映画のメッセージを読み解くというよりは、映画から自分が感じたことを書きます。
具体的な内容にはあまり触れませんが、ニュアンス程度のことは書くと思います。
ネタバレが気になる方はこの記事を閉じてください。笑
あらすじは、公式から以下引用しますが、その下の予告編を見てもらうのが早いと思います。
東京に生まれ、箱入り娘として何不自由なく成長し、「結婚=幸せ」と信じて疑わない華子。20代後半になり、結婚を考えていた恋人に振られ、初めて人生の岐路に立たされる。あらゆる手立てを使い、お相手探しに奔走した結果、ハンサムで良家の生まれである弁護士・幸一郎と出会う。幸一郎との結婚が決まり、順風満帆に思えたのだが…。
一方、東京で働く美紀は富山生まれ。猛勉強の末に名門大学に入学し上京したが、学費が続かず、夜の世界で働くも中退。仕事にやりがいを感じているわけでもなく、都会にしがみつく意味を見いだせずにいた。幸一郎との大学の同期生であったことで、同じ東京で暮らしながら、別世界に生きる華子と出会うことになる。
2人の人生が交錯した時、それぞれに思いもよらない世界が拓けていく―。
このあらすじを見たとき、「東京生まれで超のつく富裕層である華子と、地方から上京したが大学を中退せざるをえなかった美紀が出会うことで、それぞれの階級、格差から抜け出していく。」という階級社会、格差社会を強調することをテーマとした映画というイメージがあった。
もちろん、イメージ通りのメッセージ性はあったのだが、観た後に僕が1番感じたテーマはそれぞれの立場においての「共通性」だった。
ここで自分の話になるのだが、僕の地元はかなりの田舎だった。そして、裕福な家庭で育った。
本当にありがたいことに、何不自由なく育ててもらったし、いろんなものや場所に触れさせてもらえた。
今自分が東京でこうやって生活できているのは、自分の努力以上に両親のおかげだと本当に思っている。
その中で、小さい頃思っていたことがあった。
よく地元の同級生などに「お前の家はお金持ちだからいいよなあ。」というニュアンスのことを言われた。それ自体は友達のコミュニケーションの一環という感じで、特に何を感じるわけではなかった。
しかし、そういった自分の立場を自覚するようになってから、「恵まれた環境の人は恵まれているから苦しい辛いと言ってはいけない」という空気があると(今思えば自分が勝手に)感じるようになっていた。
そこから大学生の時に上京。
東京では、より裕福な、今回の映画で言えば華子と近いような環境の人たちに出会った。
その人たちに対して、自分が地元にいた頃とは反対に「この人たちは自分が感じているような悩みで悩んだりすることはきっとないのだろう。」と羨ましいような、妬ましいような気持ちになっている自分がいた。
映画の話に戻るが、僕がテーマが「共通性」だと思った理由、それは華子、美紀、幸一郎、大きく言えば登場人物全員が、それぞれの立場で同じように生きていく諦観のような覚悟のようなものがあったり、悩んだり苦しんだり、抜け出そうとしたりしている、という共通点を格差や階級以上に視聴者に見せていると感じたから。
「あのこは貴族」を観終えた時に、フリーアナウンサーの宇垣美里さんがTBSアナウンサー時代に言っていた
その人それぞれに、やっぱ地獄があると思うんですよ。
私には私の地獄があるし、あなたにはあなたの人生の地獄があるのだから。
という言葉を思い出した。
もしかするとこれは作者のメッセージとは違うのかもしれないし、突き詰めれば例外もあるのだろうけど、それぞれの生まれ持った境遇、家庭、性別、性格などがあって、それぞれに地獄があるし、同じように幸福がある、という認識や知識、想像力が特にこの現代において如何に大事かということを、僕はこの映画を見て感じた。
自分自身、今でも油断すると、前述した上京して自分より裕福な人に出会った時のように想像力に欠ける考えを持ってしまうことがあるなと自省した。
それと、地獄であれ幸福であれ、それを話せる誰かがいることが大切だということもメッセージとして受け取った。
すごくタイムリーな映画だと感じた。
メッセージ性の強すぎる映画はおしつけがましく感じてしまって少し苦手だけど、「あのこは貴族」はそこがすごく絶妙なバランスだと思った。
そして、ストーリーもさることながら、劇中の東京の様々な景色が本当に綺麗で、愛を持って映し出してる気がして、そこも良かったなあ。映画館で観られてよかった。