
自分が自分でいられること。
中田敦彦さんのYouTube大学で、
GACKTさん言葉がとても響いている。
———————————————
自分一人で人を救うってできない。
命を救うとか教育を与えるとかっておこがましい。
ボランティア・寄付に批判的な人は一定数いる。
良いことをしているのに叩かれると、
一番心が貧しくなる。
3.11の時に2億円納めて、
100トン近い物資を1週間で被災地に届けた。
でも、めっちゃくちゃ叩かれた。
義援金を盗んだとかも言われた。
他人の汗のかき方に文句をつける人もいる。
(その文句をつける人はなぜ文句をつけるんだろう?わたしはそこに好奇心を持ちたいな、どんな大切なニーズがあるんだろう…って思ったり。)
GACKTさんの仲間の言葉:
「俺は誰かを助けたいと思ってやっているんじゃない、俺がやりたいからやっているんだ。」
現実的には助けているんだけど、褒められるためではない、やりたいからやってるだけだから「ありがと」って言われても「そうなの」って返す、否定されても「そうなの」って返す。
自分がやりたいからやっている。
それが一番自分が自分でいられること。
「なんでそんなことしているの?」って聞かれたら、「やりたいからやってるだけ」と言うだけ。
———————————————
なんか本当、、、想像できないような活動をたくさんされてきて、それを同じくらい辛辣な言葉をたくさんたくさん浴びて来られてきたんだろうなって。。
わたしも前はNVCを通して「お母さんたちを救いたいー!」と言っていたんだけど、今は少し質感が変わっていて、
「わたしが好きなことを伝える」
「NVCを広めたい、わたしのやりたいことをやる」
という感覚になってきている。
それが結果的に誰かの役に立って、その体験が相手にとっても、自分にとっても、豊かさにつながったらいいなって思っている。
GACKTさんのように震災などで物資などの形で救えることはあるけれど、わたしが扱っているのは、自分の内側にあるものであり、見えないものであったりする。(でも言葉や文字や表情としては見えたり聴こえたりはするんだけど)
自分の内側で起こっているだと、
やっぱり自分を救えるのは自分しかいない。
相手の内側で起こっていることも
その人の内側をわたしは持っていないし、
その人の中にしかないものだし、
その人にわたしがなることもできない。
でも、何かお手伝いはできる!
わたしの場合は「聴く」ということが
本当に苦じゃなくて、ずっと聴くことができる。
そしてわたし自身の「存在」を与えることはできる。
(すごく集中するのでエネルギーは使うのでもちろん疲労は感じます。それでもその疲労感はまたわたしの生きる力になる。)
背中を押すこともできないけど、
背中に手を当てることはできる。
手を引っ張ることはできないけど、
手を添えることはできる。
導いたりもできないけれど、
見守りながら横を歩いたり、
一緒に立ち止まって顔を覗くことはできる。
めちゃくちゃでも支離滅裂でも、
なんでも大丈夫。
うまく話そうとしなくて大丈夫。
ただただ喉まで上がってきて、
声になるものから声にする、
それだけでいい。
それでも、声にできたとき、
言語化できたとき、
言葉というエネルギーにして
この世界に出すことができたとき、
何かが動き出す。
それはとてもゆっくりかもしれない。
まるで進んでいないようかもしれない。
でもぐるぐるぐるぐる回りながら、
ときには倒れながらも、
また立ち上がったときには
実はちょっと前に進んでいて景色が少し変わっているのだ。
———————————————
そして、GACKTさんのもう一つの例えとお話がとても興味深かった。
車を運転している。
車線変更をしたいおばさんが左前にいて、
なかなか入れない。(運転がうまくない)
どうする?
中田さん:「スピード落として譲ります。」
しかし、
入った瞬間急ブレーキをおばさんは踏んで、
自分の車が突っ込んでしまった。
そしておばさんは言ったことは・・・
「あんたどこ見て運転してんのよ!!」
だったら、、、どう思う?
中田さん:「なんで譲ったのに〜って憤ります。」
そう、そうなんです。
ボランティアってこれなんですよ。
「譲ってあげたのに」
「入れてあげたのに」
っていうのはエゴ。
入れないというのは、
彼女の技術が足りないということ。
技術が足りないという彼女を入れてあげることに、
そもそも「リスク」が存在する。
自分が突っ込むリスクも含めて
受け止められるのかってことが大切。
それができないんだったら
「入れるな」ってことなんですよ。
人は優しくしてあげたい、親切にしてあげたい生き物。
でも、そこから起こりうる事故が自分に関わってくる可能性もある。
それを含めた上で、自分の行動を取れ。
僕はそれを3.11で学んだんです。
全員は救えない。
ただ、自分がこの子たちは救うおうって思った人たち、自分の子供であれば自分の子供、あるグループであればあるグループ、命をかけて助けてあげて欲しい。
その人のできる範囲でいい。
僕は何もすごいことやっていると思っていない。
僕は僕のできる範囲でやっているだけ。
表に出さないっていうのも、
自分がやりたいからやってるだけだから。
(これらの話は動画の35分くらいから)
—————————————————
「人は優しくしてあげたい、親切にしてあげたい生き物。でも、そこから起こりうる事故が自分に関わってくる可能性もある。それを含めた上で、自分の行動を取れ。」
唸る。。
わたしのできる範囲は、周りに関わるお母さんたちで、しかもしっかり関わりたいから本当に数人という超少人数。多くの人をホールドすることはわたしとってはとても難しい。
だからnoteを書いているというのもある。
直接的にオンラインでもオフラインでもたくさん関わることは、わたしにはできないけれど、noteなら広い範囲にNVCを伝えることができる。
わたしの場合は、自身で講座を開いてそこに時間を注ぐよりも「なぁにこれ?」って多くの人が触れるキッカケである人でありたい。
(自分に金融資本はこないけれど、今は違う資本を循環させたいのかも?)
ちょっとなんだかえらそうだなぁと思いつつ…
NVCが必要な人をNVCとマッチングさせる
立ち位置でいたいというか。
だから学びたい!って方が出てきた時には、大切な仲間の講座とつなぐスタイルを取っています。
そして、わたしはわたしのできる範囲で、少人数の自分のサークルメンバーは深く関わっていきたいな、と思っている。
「そこから起こりうる事故が自分に関わってくる可能性もある」
と、GACKTさんもおっしゃっていたけれど、人の内側と深く関わるということは、その人の人生に大きく触れることになる。
本当に難しいときにもあるし、なんとか生きているような状態のときだってある。
「それを含めて受け止められるのかってことが大切。」
うん、みんなに起こりうること、その横を歩き、共に過ごし、見守り、目撃し、すべてを受け入れる覚悟でいます。もちろん、気軽さも両方をたっぷり含めて。
noteを書き続けることも、
サークル活動をすることも、
わたしがシンプルに
やりたいからやっていること。
それが、わたしにとって、
「自分が自分でいられること」
なんです。
自分が自分に本物であること
をわたしはとても大切にしたいと思うようになってきたので。
みなさんの「やりたいからやってること、自分が自分でいられること」はなんですか?
それはもうすでにやっているかもしれないし、これから発見するかもしれない。
すごく興味津々。
また聴かせてくださいね♡
では、また明日ココで♡
いいなと思ったら応援しよう!
