身体が人間関係をすべて知っている
娘のプリスクールへお迎えに行ったら、タブレットでチェックイン・チェックアウトをするタッチペンがすべて消毒されて並べられていた。そして、使ったやつはペン立てに入れてね、と。
なんか心がキュゥ…となった。
そして、笑顔いっぱいの娘が出てきて、「彼女はスーパーエンジョイしてるわー!」と先生から聞いて、また心はじわーっとあたたかくなるような、大きくなるような感覚。
そのとき、担任の先生が出てきて、頭に何か巻いてる?と思ったらフェイスシールドをして、マスクをしていた。
先生の顔、ほとんど見えない…
なんだかまた心がキュゥ…と冷たくなるような感覚、そしておでこらへんも少し重たくなり、車に乗ってから何度かギュッとギュッと目を瞑った。
子供たちが先生の顔が全部見えない寂しさや悲しさ、先生たちの生徒や自分を守るための配慮や思いやり。もっと先生たちにリラックスして欲しいって思った。いろんなものが心と頭を行ったり来たり、ぐるぐるぐるぐるしながら帰った。
身体は正直である。何か伝えてくれている。
相手との関係が壊れたくない、
もっと深く繋がりたい、
もうこわくて関わりたくない、
なども伝えてくれる。
このときは伝えられなかったけど、こういう身体感覚から対話をしたい。
ヨラムは、
「自分の体の中に起こっている正直さを信頼して進める対話は、問題を解決しようとする脳からくる対話とは違います。」
と、言っていた。
身体が人間関係をすべて知っている、
それに従うことが好きだと。
身体感覚を元にした対話は、せいちゃんの講座でも毎回フォーカスしていて、
対話をする中で、
「今、どんなかんじかな?身体の中にはどんなことが起こってる?」
「んー… なんか背中が重い… 喉になにか詰まっているかんじ…」
というようなやりとりをする。
意識すればするほど、心と身体は繋がっているってこういうことだよなぁって実感する。身体の中の感覚に気づいてあげることは、心にある本物に気づいてあげることになるなぁって。
ヨラムは、子供が初めての人と出逢うのを見るのが大好きだと言っていた。子供は最初、お母さんの後ろにに隠れる。恐れっていうのは知性だと。
子供は身体で表現をする。
大人だって怖いときに隠れたいこともあるはず。でもいろんなことを経験するうちに、身体で表現できなくなってくる。自然なこと。でも声に出して伝えることはできる。
今日、noteサークルで集まっていて一人目の友人Aちゃんの話を聞いて、わたしがそれに対して伝え返しをしたり、共感を含めた言葉を伝えたんだけど、もう一人の友人Bちゃんがそれを聴いていて「みゆきはやっぱりすごいな、さすがやなって思った」と言ってくれた。
本来なら喜ぶことなのかもしれない。でも、わたしは身体が緊張し、硬くなったような感覚だった。心が動揺していた。
次にBちゃんが話してくれたことに対して返す時間になったとき、聴こえてきたBちゃんの心の声、受け取ったもの、寄り添いたい想い、届けたい声は溢れるようにあるのに、喉のところでストップして出せない…
これは無理やり言葉にしても、お互いにとって心地のよいものではないかもしれない。
この身体感覚を信じて、二人との関係性への信頼もあるし、ちゃんと伝えようと思った。
「さっき、やっぱりすごいなって言われたときにね、ちょっとプレッシャーを感じてしまって… 今『うまく言わなきゃ』って思っている自分がいるから、その『うまく言わなきゃ』を一旦横に置きたいのね。Aちゃんよかったら先に話してもらってもいいかな?」
こうして先にAちゃんの話してもらい、時間を取ることができた。Aちゃんの声を聞きながら、またいろんなものが心に届いて、受け取って、『うまく言わなきゃ』は自然とどこかに置いていて、わたしから湧き上がるものをありのままに伝えることができた。
今まで、こんな風に伝えられたかな?
ファシリテーターをしてて、自分がホールドしていて、伝える側にいると、プレッシャーに感じていても、少し焦っていても、それを悟られないようにちゃんと言わなきゃ!ってなってたんじゃないかな。
NVCは「やり方」ではなく「在り方」
最初は頭でどうしても考えてしまうんだけど、それもそれでいい。段々と少しずつ身体に染み込んでくる。わたしだってずっと道の途中。
今月は二日連続だったけど、昨日のわたしの嘆きと今日のこと、二日連続であったことがまた必然だったように感じています。
二人とも、今日もありがとう。
「自分の体の中に起こっている正直さを信頼して進める対話は、問題を解決しようとする脳からくる対話とは違います。」
というヨラムの言葉をもう一度。
身体感覚にもっと気づいてあげて、大事にして、信頼して対話をしたいと思います。
では、また明日。